ふふ
「君は違うね」
優しい声。
「ちゃんと、俺を見てくれる」
彼女は震えていた。
ナイフを握る手が痛いほど強張る。
目の前の男は笑っている。
幸せそうに。
満たされたみたいに。
それが、
一番恐ろしかった。
「……来るな」
掠れた声。
彼は止まらない。
一歩。
また一歩。
彼女だけを見ながら近づいてくる。
「君が俺を見るたび」
静かな声。
「ちゃんと、生きてるって思える」
彼女の背筋が粟立つ。
その時だった。
彼の表情が、
ふと止まる。
まるで何かへ意識を奪われたみたいに。
彼は彼女を見たまま、
動かなくなる。
「……綺麗」
小さな声。
涙で濡れた顔。
恐怖。
殺意。
絶望。
全部が混ざった表情。
彼はそれを見つめたまま、
完全に固まっていた。
恍惚としていた。
彼女は息を呑む。
今だ。
本能が叫ぶ。
彼が動かない。
見惚れている。
壊れたみたいに。
彼女は震える足を無理やり動かした。
一歩。
後ろへ。
彼は気づかない。
ただ、
彼女の表情を見ている。
「……っ」
彼女は走った。
ケースの間を抜ける。
扉へ向かう。
彼の肩を押し退ける。
その瞬間、
彼の身体が少し揺れた。
だが、
追いかけてこない。
彼は立ったまま、
呆然と彼女を見ていた。
玄関。
鍵。
震える手。
開かない。
「お願い……!」
涙で視界が滲む。
やっと鍵が回る。
ガチャ。
扉が開く。
彼女は転がるように廊下へ飛び出した。
裸足のまま走る。
息が切れる。
涙が止まらない。
背後が怖い。
追ってくる気配が怖い。
だが。
彼は来なかった。
薄暗い玄関に立ったまま、
静かに彼女を見送っていた。
まるで。
愛しいものが去っていく姿を、
焼き付けるみたいに。




