愛しい君へ
「……そんな顔しないで」
一歩。
彼が近づく。
彼女は震えながら、
床へ落ちていたナイフを掴んだ。
「来ないで……!!」
涙声だった。
刃先が彼へ向く。
腕が震えている。
恐怖。
拒絶。
明確な殺意。
彼女は今、
本気で彼を傷つけようとしていた。
それなのに。
彼は立ち止まったまま、
静かに彼女を見ている。
その目が、
ゆっくり揺れた。
「……あ」
小さな声。
彼女は息を乱しながら叫ぶ。
「近づいたら刺すから!!」
彼はナイフを見る。
それから、
彼女の顔を見る。
涙。
怯え。
震える唇。
必死な目。
その全部を見つめながら、
彼は少しだけ目を細めた。
嬉しそうだった。
彼女はそれを見て、
恐怖で身体が固まる。
「……なんで」
掠れた声。
彼は静かに笑った。
本当に、
幸せそうに。
「初めてだ」
小さな声。
「こんなにちゃんと、俺を見てくれるの」
彼女の呼吸が止まる。
彼はゆっくり自分の胸へ触れる。
「ずっと、誰かに見ていてほしかった」
静かな声。
「どこにも行かないで、俺だけを思っていてほしかった」
一歩。
彼が近づく。
彼女は震えながらナイフを向ける。
彼は止まらない。
「怖くても、憎くてもいい」
その目には、
熱があった。
穏やかな笑顔の奥で、
何かが静かに壊れている。
「君の心が、全部俺に向いてるなら」
彼女の背筋へ、
冷たいものが走る。
彼は本気だった。
彼女の恐怖を。
殺意を。
拒絶を。
それすら、
愛だと信じている。
「やめて……」
涙が零れる。
彼はそんな彼女を見て、
本当に愛おしそうに笑った。
「君は違うね」
優しい声。
「ちゃんと、俺を見てくれる」
その瞬間。
彼女は理解してしまった。
この男は。
ただ、
愛してほしかったのだ。
壊れてしまうほど、
ずっと自分だけを想っていてほしかったのだと。




