なぁ
彼女は気まずさを誤魔化すみたいに笑った。
「びっくりした……」
小さく息を吐く。
静かな部屋。
並ぶケース。
重い空気。
彼女は無意識に、
一番近くのケースへ手を置いた。
「でも本当に綺麗ですね、これ」
指先でそっと撫でる。
革の感触。
冷たい金具。
その瞬間だった。
「触るな」
低い声。
彼女の身体が止まる。
彼がいた。
すぐ後ろに。
さっきまでの穏やかな空気が、
一瞬で消えていた。
彼の手が、
彼女の手首を掴んでいる。
強かった。
「……あ」
彼女は小さく息を呑む。
彼の表情を見る。
笑っていない。
目だけが冷えていた。
感情が抜け落ちたみたいに。
静かな目。
彼女の背筋へ、
ぞわりと冷たいものが走る。
「ご、ごめん」
彼女が掠れた声を出す。
彼は数秒、
何も言わなかった。
ただ、
彼女の手を掴んだまま、
ケースを見ている。
まるで、
傷つけられたものを確認するみたいに。
沈黙。
雨音だけが遠くで聞こえる。
やがて。
彼ははっとしたように目を伏せた。
「……ごめん」
掴んでいた手を離す。
「びっくりして」
声が戻っている。
穏やかな、
いつもの声。
彼は少し困ったように笑った。
「大事だから」
彼女は何も言えない。
手首が熱かった。
さっきまでの彼と、
今目の前にいる彼が、
同じ人間に見えない。
「……そんなに?」
なんとか笑おうとする。
彼は静かにケースへ触れる。
優しく。
壊れ物を扱うみたいに。
「うん」
小さな声。
「すごく大事」
その横顔は、
怖いくらい真剣だった。
彼女は初めて、
理解できないものを見る目をした。
そして彼は、
そんな彼女に気づいていなかった。




