アタッシュケース
午前四時十二分。
街はまだ眠っていた。
川沿いの遊歩道。
湿った風。
遠くで新聞配達のバイクが走る音。
彼は静かに歩いていた。
黒いアタッシュケースを引きながら。
ガラガラ、と。
硬いタイヤが地面を擦る。
ケースは重かった。
だが彼は嫌そうな顔をしない。
むしろ、
丁寧に扱っていた。
「……もう少しだからね」
小さく呟く。
まるで誰かへ話しかけるみたいに。
ケースの表面には、
薄く雨粒が残っている。
彼は立ち止まる。
ハンカチを取り出し、
静かに水滴を拭き取る。
「汚れちゃった」
困ったように笑う。
優しい声だった。
遊歩道の脇には桜の木。
葉が風で揺れる。
彼はケースへ触れる。
指先で撫でるみたいに。
「大丈夫」
穏やかな声。
「すぐ着くから」
その時。
遠くからパトカーのライトが見えた。
彼は顔を上げる。
だが慌てない。
逃げない。
ただ静かに、
ケースの持ち手を握り直す。
パトカーがゆっくり近づく。
窓が開く。
「こんな時間に大変ですねぇ」
警官が気さくに声をかける。
彼は少し目を丸くしたあと、
柔らかく笑った。
「すみません、起こしちゃいました?」
「いやいや。何運んでるんです?」
彼はケースを見る。
一瞬だけ。
その目が優しくなる。
「大事なものです」
警官が苦笑する。
「重そうですね」
「はい」
彼は小さく笑った。
「でも、ちゃんと運ばないと駄目なんで」
その言い方が妙に丁寧で、
警官はそれ以上聞かなかった。
「気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
彼は深く頭を下げる。
礼儀正しい。
静かで、
感じのいい青年。
パトカーはゆっくり去っていく。
赤いランプが遠ざかる。
彼はそれを見送ったあと、
再び歩き出した。
ガラガラ、と。
静かな音だけが、
朝前の道へ長く響いていた。




