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出社

「……すみません」


 男がふと壁の時計を見る。


 午前七時を回っていた。


「あの、そろそろ会社行く準備しないと」


 申し訳なさそうに笑う。


 若い刑事が反射的に時計を見る。


 もうそんな時間だった。


「会社勤めなんですか」


 藤堂が聞く。


「普通の事務ですよ」


 男は苦笑する。


「大した仕事じゃないです」


 その言い方まで自然だった。


 男は扉を少し閉め、

 玄関脇へ置かれた鞄を手に取る。


 黒いビジネスバッグ。


 綺麗に磨かれている。


「急にすみませんでした」


 若い刑事が言う。


「いえ」


 男は首を横に振った。


「仕事ですもんね」


 柔らかな笑顔。


 嫌な顔ひとつしない。


 むしろ、

 警察側を気遣うような話し方だった。


「もし何か思い出したら連絡ください」


 藤堂が名刺を差し出す。


 男は両手で丁寧に受け取る。


「わかりました」


 一瞬だけ。


 男の指先へ、

 藤堂の視線が止まる。


 薄い擦り傷。


 小さな切り傷。


 細かい傷がいくつもある。


 だが男は気づかない。


「朝早くからありがとうございました」


 そう言って、

 男は静かに頭を下げた。


 礼儀正しい。


 本当に、

 非の打ち所がないくらいに。


 廊下を歩く足音。


 鍵が閉まる音。


 静かな沈黙。


 若い刑事が小さく息を吐く。


「……普通すぎません?」


 藤堂は閉ざされた扉を見る。


「だから気持ち悪いんだよ」


 低い声。


「普通ってのはな、“作ろう”と思うと逆に不自然になる」


 若い刑事が黙る。


 藤堂は廊下の奥を見る。


 閉ざされた部屋。


 銀色の鍵。


 静かな空間。


「でもあいつは自然すぎる」


 まるで、

 最初からそういう人間として完成されているみたいに。


 その時。


 エレベーター前から、

 男の穏やかな声が聞こえた。


「おはようございます」


 別の住人へ挨拶している。


『あ、おはようございます』


 住人が笑う声。


 エレベーターの扉が閉まる音。


 若い刑事が小さく呟く。


「……本当にあの人なんですかね」


 藤堂は答えなかった。


 ただ、

 静かに閉ざされた扉を見ていた。

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