朝
朝だった。
薄い光がカーテンの隙間から部屋へ差し込んでいる。
テーブルの上には空になったワイングラス。
床には脱ぎ捨てられたヒール。
静かな部屋だった。
彼はキッチンに立っていた。
コーヒーの湯気がゆっくり揺れる。
時計の針が小さく音を立てる。
その奥。
ソファにもたれかかるように、
女が眠っている。
長い髪が肩へ流れていた。
白い首筋。
閉じた瞼。
昨夜、涙で濡れていた目元は、
今は静かだった。
彼はマグカップを置く。
女の前へしゃがみ込む。
指先で髪を整える。
乱れた前髪をそっと耳へかける。
「……おはよう」
返事はない。
けれど彼は気にした様子もなかった。
女の頬へ触れる。
冷たくなり始めている。
彼は少しだけ眉を下げた。
「寒いよね」
優しく言って、彼は立ち上がった。
廊下の先へ向かう。
閉ざされた扉。
銀色の鍵。
カチリ。
静かな音が鳴る。
彼は中へ消える。
しばらくして、
新しいアタッシュケースを抱えて戻ってきた。
黒い革張り。
磨かれた金具。
彼は女の隣へ静かに置く。
金具を外す音。
ゆっくり開かれる蓋。
内側には白い布が敷かれていた。
まるで毛布みたいに柔らかく。
「大丈夫」彼は囁く。
「ちゃんと暖かくするから」
女を抱き上げる。
力の抜けた身体。
揺れる髪。
閉じた瞼。
彼は落とさないように、丁寧に抱えたままケースへ寝かせる。
髪が乱れないように整える。
服の皺を伸ばす。
首元へ触れる。
薄く残った赤い痕を、親指でそっと撫でる。
「ごめんね」
泣きそうなくらい優しい声だった。
彼は白い布を女へ掛ける。
毛布を掛けるみたいに。
冷えないように、包み込むように。
それから、
ゆっくり蓋を閉じる。
金具の噛み合う音。
静かな部屋に、それだけが響いた。
彼はケースへ頬を寄せる。
「……美咲」
甘えるような声。
「おやすみ」
そして彼は再び、廊下の奥へ視線を向けた。
開いたままの扉の向こう。
そこには無数のアタッシュケースが並んでいた。
黒。
銀。
革張り。
整然と積み重ねられたケースたち。
静かに眠るように。




