よく降った雨の夜
店内には静かなピアノが流れていた。
窓際の席。雨粒がガラスをゆっくりと滑り落ちていく。
「それで、その後どうなったの?」女が笑う。
グラスを持つ指先が白い照明を反射していた。
彼は向かい側からその顔を見ていた。
女が笑うたび、目尻が少しだけ下がる。
話している途中、癖みたいに髪を耳へかける。
視線が合うと、照れたように口元が緩む。
「……聞いてる?」女が首を傾げる。
彼は少し遅れて笑った。
「聞いてるよ」
「絶対嘘」
女は楽しそうに笑った。
その笑顔を見つめたまま、彼はワイングラスへ口をつける。
薄い唇。
伏せられた睫毛。
グラス越しに歪む輪郭。
綺麗だった。
料理が運ばれてくる。ナイフが皿へ触れる音。
女はパスタを巻きながら、時折こちらを見る。
「なんか今日静かだね」
「そう?」
「うん」
女は小さく笑う。
「でも嫌いじゃないかも」
彼は何も言わない。
ただ、女の表情を見ていた。
笑っている顔。
水を飲む顔。
考え込む時の顔。
視線を逸らす顔。
一瞬だけ無防備になる顔。
全部が静かに胸へ沈んでいく。
「……ねえ」
彼が言う。
「今日、帰りたくない?」
女は目を丸くしたあと、
少し困ったように笑った。
「終電なくなったらね」
冗談みたいな声。
そのあと、女は窓の外を見た。
雨を眺める横顔が、やけに遠く見えた。
マンションへ着く頃には、雨は少し強くなっていた。
「お邪魔します」
女は靴を脱ぎながら部屋を見回す。
「綺麗だね」
白い照明。
整った棚。
静かな部屋。
女はソファへ腰掛ける。
「なんか落ち着く」
彼はキッチンへ向かった。
「水でいい?」
「うん」
グラスへ水を注ぐ音。
その間、女はスマホを見ていた。
画面の光が頬を照らす。
何かを読んで、少し笑う。
すぐに返信を打つ。
その表情を、彼はキッチンから見ていた。
女は気づかない。
「はい」
彼がグラスを差し出す。
「ありがと」
受け取る時、女の指先が彼の手に少し触れた。
一瞬だけ。
女は気にした様子もなく水を飲む。
喉が動く。
伏せられた睫毛が影を落とす。
「……どうしたの?」
女が笑う。
「また見てる」
彼は少しだけ目を細めた。
「綺麗だから」
「恥ずかしいって」
女は照れたように俯く。
その首筋へ、彼の視線が落ちる。
白かった。
細くて、簡単に折れてしまいそうなくらい。
女が顔を上げる。
「ねえ、なんか飲み――」
言葉が止まる。
彼が後ろから抱き締めていた。
「わっ、びっくりした」
女は小さく笑う。
けれど、
腕は離れない。
「……ねえ?」
声が少し変わる。
彼の腕が首へ回っていた。
「ちょっ――」
女の笑顔が崩れる。
目が揺れる。
呼吸が詰まる。
細い指が彼の腕を掴む。
爪が食い込む。
女の口が開く。
空気を求めるみたいに。
涙が滲む。
彼は黙ったまま、その顔を見ていた。
苦しそうに歪む表情。
怯え。
混乱。
涙。
赤くなる目元。
震える唇。
やがて、
女の力が抜けていく。
指先が落ちる。
瞼がゆっくり閉じる。
静かだった。
彼は腕を緩める。
崩れ落ちる身体を支えながら、長い髪へ触れる。
女の顔は、眠っているみたいに静かだった。
彼はその頬を見つめる。
安心したように、小さく笑った。




