第72話 待っていた卵から、小さな音がしました
鶏が物置の奥で卵を温めていると知ってから、十日以上が過ぎた。
もっとも、俺たちが見つける前から温めていたのだから、正確に何日目なのかは誰にも分からない。
最初の数日は、七人とも朝になるたび物置へ行っていた。
変わった?
まだ?
今日?
明日?
同じ質問を何度もされた。
それでも、日が経つにつれて少しずつ落ち着いた。朝の仕事をして、飯を食い、畑を見て、薪を運び、服を直す。その途中で誰かが物置を覗き、「今日も同じだった」と戻ってくる。
待っているものがあること自体が、いつの間にか日常になっていた。
その朝も。
最初に物置へ行ったのはノエルだった。
俺は家の前で薪を選び、今日使う分をまとめていた。
「お父さん」
後ろから声がした。
振り返る。
ノエルが立っている。
いつも通り静かな顔だ。
ただ。
目が少しだけ大きい。
「どうした?」
「音する」
「何の?」
「卵」
持っていた薪を。
俺は地面へ置いた。
◇
「卵が鳴く!?」
フェルナの声が家の中から響いた。
「静かにしろ!」
「あ!」
自分で口を塞ぐ。
結局。
朝飯より先に、八人で物置へ集まることになった。
以前置いた板は、まだ入口にある。
『しずかに』
『さわらない』
何度も見た文字なのに。
今日は全員がいつも以上に慎重にその横を通った。
奥では。
母鶏が座っている。
見た目だけなら昨日と同じだ。
「どこ?」
セレスが小声で聞いた。
ノエルが。
唇の前へ指を立てる。
「待って」
七人が黙る。
俺も。
耳を澄ませた。
母鶏が小さく喉を鳴らす。
藁の擦れる音。
外を風が抜ける音。
その間に。
――こつ。
小さな音がした。
気のせいかと思うほど。
弱い。
けれど。
もう一度。
――こつ。
今度は。
全員が聞いた。
「……いた」
ユラが囁いた。
「何かいる」
「ああ」
俺も。
自然と声が小さくなる。
ラグナが身を乗り出した。
「出す?」
「出さない」
「でも中にいる!」
「だから自分で出てくるのを待つ」
「殻、割ったら早い」
「割るな」
「ちょっとだけ」
「駄目だ」
即答すると。
ラグナは口を閉じた。
しかし。
卵の方を見ながら。
両手を握っている。
力を使えば。
簡単に割れる。
だからこそ。
今日は使わない方がいい。
◇
「見える?」
リシェルが聞く。
「母鶏が動けば少しはな」
「動かしていい?」
「駄目」
「じゃあ、ずっと見えない?」
「鶏次第だな」
七人にとって。
かなり厳しい条件らしい。
音がする。
中に何かいる。
なのに。
触れない。
覗けない。
手伝えない。
待つしかない。
フェルナなど。
座ってまだ十も数えないうちに位置を変え始めた。
「見えない!」
「場所を変えても鶏の下だぞ」
「反対からなら!」
「同じだ」
「上?」
「登るな」
「下?」
「床を掘る気か?」
「……待つ」
「最初からそうしてくれ」
以前なら。
もう少し本気で止める必要があった。
今は。
言えば止まる。
不満そうではあるが。
◇
朝飯を。
物置で食べるわけにはいかない。
「一回戻るぞ」
俺が言うと。
七人が誰も動かなかった。
「飯」
「あとで」
フェルナ。
「腹減ってないのか?」
「減ってる」
「なら食え」
「でも生まれるかも!」
「飯食ってる間に生まれたら、その時はその時だ」
「見られない!」
「生まれる方は、お前が見てるかどうかなんて知らないよ」
フェルナの顔が。
本気で悩み始める。
見たい。
食べたい。
難しい選択らしい。
ノエルが立った。
「私、食べる」
「ノエルいいの!?」
「お腹減った」
「生まれたら!?」
「あとで見る」
あまりに普通の答えだった。
フェルナは。
ノエルを見る。
卵を見る。
腹を押さえる。
「……フェルナも食べる」
「そうしろ」
◇
朝飯の間も。
話題は全部卵だった。
「音したなら今日?」
リシェルが聞く。
「今日かもしれないし、まだかかるかもしれない」
「どのくらい?」
「分からん」
「お父さんも?」
「ああ」
「前に雛が生まれるところ見たことないの?」
「あるけど、毎回同じじゃないよ」
「殻、全部自分で割る?」
「基本はな」
「疲れない?」
「疲れるだろうな」
ミレアが。
少し心配そうに聞いた。
「助けなくて大丈夫?」
「何でも早く助ければいいわけじゃない」
言ってから。
セレスが俺を見る。
俺も気づいた。
「またそれだね」
「ああ」
最近。
似た話をしたばかりだった。
相手が大変そうだからと。
勝手に手を出せばいいわけではない。
ただ。
今回の相手は。
手伝ってほしいかどうかを聞いても答えてくれない。
「どうしたら、助けた方がいいって分かる?」
セレスが聞く。
「俺にも全部は分からん」
「じゃあ?」
「今は母鶏に任せる。明らかにおかしいと思ったら、その時に考える」
「分からないまま待つ?」
「ああ」
七人は。
少し難しい顔をした。
待つだけでも。
答えが分かっていて待つのと。
分からないまま待つのでは。
違うらしい。
◇
朝飯を終えると。
全員が物置へ戻った。
母鶏は。
同じ場所にいる。
しかし。
今度は。
少しだけ体の位置が変わっていた。
「見える!」
ノエルが先に気づく。
藁の隙間。
白っぽい卵が一つ。
表面に。
小さな穴が開いている。
「割れてる」
ユラが言う。
「ああ」
「だいじょうぶ?」
「たぶんな」
穴は。
本当に小さい。
そこから。
何かが少し動いた。
フェルナが。
両手で自分の口を押さえる。
ラグナも。
さっきからずっと握っていた拳を開いた。
「ちっちゃい」
セレスが呟く。
「まだほとんど見えないけどな」
「いる」
ノエルが言う。
「動いた」
もう。
誰も物置から離れようとしなかった。
◇
時間は。
思ったよりかかった。
穴が開いたからといって。
すぐに殻が二つに割れるわけではない。
少し動く。
止まる。
また動く。
長く休む。
「止まった」
ラグナが不安そうに言う。
「休んでるんじゃないか」
「ずっと?」
「まだそんなに経ってない」
「長い」
「見てる側はな」
フェルナは。
最初こそじっとしていられなかったが。
今では床へ座り。
膝を抱えている。
「頑張れって言っていい?」
「声くらいなら小さくな」
「がんばれ」
本当に小さな声だった。
ユラも。
「がんばれ」
続ける。
ラグナ。
セレス。
リシェル。
ミレア。
ノエル。
結局。
全員が囁いた。
卵の中には。
たぶん聞こえていない。
それでも。
言いたかったらしい。
◇
昼近くになった頃。
殻の割れ目が。
ようやく広がった。
小さな嘴が見える。
「口!」
「嘴な」
「くちばし!」
フェルナが言い直す。
少しずつ。
殻が押される。
中から。
濡れた羽が見えた。
「鶏じゃない!」
ラグナが驚く。
「鶏だよ」
「ふわふわじゃない!」
「最初は濡れてる」
「黄色じゃない!」
「全部黄色だと思ってたのか?」
「ひな、黄色!」
「黄色いのもいる」
絵や。
俺たちの説明から。
勝手にそう思っていたらしい。
殻の中から見えているのは。
濡れて。
小さくて。
まだ何とも言えない色の塊だ。
「大丈夫?」
ミレアが聞く。
「今のところは」
「弱そう」
「生まれたばかりだからな」
「触らない?」
「まだ触らない」
ミレアは。
手を伸ばしかけていたわけでもないのに。
自分の両手を膝へ置いた。
◇
最後の一押しは。
思ったより突然だった。
殻が。
少し大きく開く。
中から。
小さな体が転がるように出た。
「出た!」
フェルナが。
今度は声を抑えられなかった。
母鶏が。
こちらを睨む。
「静かに」
「ごめんなさい!」
謝る相手が鶏になっている。
雛は。
すぐには立たなかった。
藁の上で。
小さく動く。
頭を上げようとして。
落とす。
また上げる。
「立てない」
ユラが心配そうに言う。
「すぐ立てるとは限らんよ」
「てつだう?」
「待つ」
「また?」
「また」
今日一日。
その言葉ばかりだ。
◇
やがて。
母鶏が。
雛を自分の体の近くへ寄せた。
雛は。
少しずつ。
その下へ潜り込む。
見えなくなった。
「いなくなった!」
「下にいる」
「見えない!」
「それでいいんだよ」
せっかく待って。
ようやく出てきたのに。
見られたのは。
ほんの少し。
七人は。
かなり不満そうだった。
でも。
「出していい?」
とは。
誰も言わなかった。
◇
「一羽?」
リシェルが聞く。
「今はな」
「他の卵は?」
「まだある」
「音は?」
ノエルが耳を澄ませる。
「……する」
「本当!?」
「たぶん二つ」
「二つ生まれる!?」
「音がするだけ」
ノエルは。
すぐにそう付け足した。
以前なら。
何か一つ見つけたら。
そのまま答えにしていたかもしれない。
今は。
見えたもの。
聞こえたもの。
分かること。
分からないこと。
少しずつ分けられるようになっている。
「じゃあ」
リシェルが記録板を見る。
「今日、一羽生まれたって書く」
「書いていいぞ」
「時間は?」
「分からんな」
「昼の前」
「それでいいんじゃないか」
正確でなくても。
自分たちが覚えておければいい。
◇
その日は。
仕事らしい仕事が。
ほとんど進まなかった。
全員。
物置を気にしていたからだ。
昼飯を作っていても。
「お父さん!」
と呼ばれる。
行ってみる。
「動いた!」
「それだけ?」
「大事!」
戻る。
しばらくすると。
「お父さん!」
また呼ばれる。
「今度は何だ?」
「音した!」
「朝からしてるだろ」
「大きかった!」
戻る。
また呼ばれる。
最後には。
「本当に何かあった時だけ呼べ」
と言った。
その直後。
ユラが。
「おとうさん!」
「何だ!」
「ユラ、おなかすいた」
「それは飯まで待て」
卵と関係なかった。
◇
午後。
二つ目の卵にも。
小さな穴が開いた。
今度は。
七人も。
朝ほど騒がなかった。
「すぐ出ない」
フェルナが言う。
「覚えたな」
「待つ」
「そうしてくれ」
「でも見る」
「好きにしろ」
ラグナも。
殻を割ろうとはしない。
代わりに。
少し離れたところで。
「がんばれ」
と。
何度も言っている。
「ラグナ」
「何?」
「それしか言ってないぞ」
「他にできることない!」
「そうだな」
ラグナは。
少し悔しそうだった。
力がある。
何かを運べる。
壊せる。
守れる。
けれど。
力を使わないことしかできない時もある。
本人にとっては。
たぶん。
そっちの方が難しい。
◇
二羽目が生まれたのは。
夕方だった。
最初の一羽より。
少し早く殻から出た。
「今度は見えた!」
セレスが。
嬉しそうに言う。
朝生まれた一羽も。
母鶏の下から。
時々顔を出すようになっていた。
羽も。
だいぶ乾いている。
「ふわふわになった!」
フェルナが。
ようやく自分の知っている雛を見つけたらしい。
「黄色じゃないけど」
「そこはまだ気にしてたのか」
「でも可愛い!」
「さわる?」
ユラが聞く。
「今日はやめとこう」
「いつ?」
「落ち着いてからな」
「だっこ?」
「雛を抱っこするのはやめろ」
「どうして?」
「小さすぎるから」
ユラは。
自分の両手を見る。
「ユラも、ちいさい」
「雛はもっと小さい」
「じゃあ、セレスは?」
「大きさの問題じゃないよ」
セレスが笑った。
◇
まだ。
卵は残っている。
「全部生まれる?」
夕飯の席で。
やっぱりその話になった。
「分からん」
俺は答えた。
「二羽生まれたから、他も?」
「それでも分からない」
「明日?」
「分からない」
フェルナが。
以前なら不満そうにしたところで。
今日は。
少し考えただけだった。
「じゃあ明日見る」
「ああ」
「生まれなかったら?」
今度は。
ユラ。
「その時は、その時」
「かなしい?」
「たぶんな」
「でも、二羽いる」
「そうだな」
ユラは。
そこで。
何か納得したようだった。
◇
「名前は?」
ラグナが聞いた。
「もうつけるのか?」
「つける!」
「全部生まれてからでもいいんじゃない?」
リシェルが言う。
「忘れる!」
「雛を忘れるわけないでしょ」
「じゃあ明日!」
「何で明日?」
「明日もっと見る!」
フェルナも。
「フェルナが決める!」
「みんなで決める!」
セレスが止める。
すぐに。
名前の話で騒がしくなった。
俺は。
汁を飲みながら聞いていた。
生まれる前は。
無事に出てきてほしい。
それだけだった。
出てきた途端。
名前はどうする。
何を食べる。
いつ触れる。
どこで育てる。
次の話が。
もう始まっている。
◇
夕飯のあと。
七人は。
もう一度だけ物置へ行った。
「一回だけ」
と約束させた。
夜まで何度も覗かれたら。
母鶏も落ち着かない。
中では。
二羽の雛が。
母鶏の羽の間から。
時々小さな顔を見せている。
七人は。
誰も喋らなかった。
朝の。
『しずかに』
という板が。
今ではもう。
わざわざ読まなくても守られている。
しばらく見て。
セレスが最初に立った。
「戻ろう」
フェルナが。
名残惜しそうにしたが。
「うん」
と答えた。
ラグナも。
ノエルも。
ユラも。
全員。
物置を出た。
◇
夜。
寝床へ入ってから。
今日は。
いつもより長く静かな時間が続いた。
疲れたのかと思ったが。
「お父さん」
リシェルが。
暗闇から声をかけてきた。
「何だ?」
「今日、私たち何した?」
「卵見てただろ」
「それだけ?」
「ほとんどな」
「何もしてない?」
「雛を生んだのは鶏だからな」
「じゃあ、私たちは?」
俺は。
少し考えた。
「邪魔しなかった」
笑い声が。
小さく起きた。
「それ、何かしたことになる?」
「今日はなるんじゃないか」
助けなかった。
触らなかった。
殻を割らなかった。
取り出さなかった。
ただ。
待った。
見ていた。
何もしていないようで。
それが一番必要だった。
「ラグナ」
セレスが呼ぶ。
「何?」
「割らなくて偉かったね」
「ラグナ、最初から割らない!」
「最初、割ったら早いって言ってたよ」
「……最初だけ!」
また笑い声。
◇
少しして。
ユラが言った。
「おとうさん」
「何だ?」
「ひな、おとうさんいない」
「前にもその話したな」
「うん」
「鶏は人間と同じ育て方じゃないよ」
「でも」
ユラは。
少し考える。
「おかあさん、いる」
「ああ」
「ずっと、あっためた」
「そうだな」
「つよい?」
変な質問だった。
けれど。
今日一日を思い出す。
「強いかもな」
「ラグナより?」
「比べる強さが違うよ」
「えっ」
ラグナが反応した。
「何が違う!?」
「お前は卵を何日も温められないだろ」
「できる!」
「潰すからやめろ」
「……できない」
すぐ諦めた。
◇
物置では。
今も。
母鶏が雛と卵を抱いている。
今日生まれた二羽が。
明日も元気かは。
まだ分からない。
残った卵から。
何羽出てくるのかも。
分からない。
それでも。
七人は今日。
答えが出るまで待った。
途中で。
手を出したくなっても。
自分たちが何かした方が早そうに見えても。
待った。
昔の七人なら。
たぶん。
もっと難しかった。
卵を掘ろうとしたり。
持ち上げたり。
殻を割ったり。
何かしなければ気が済まなかったかもしれない。
今は。
何もしない方がいい時があると。
少しずつ分かってきている。
俺が。
毎回止めなくても。
自分たちで。
手を引っ込められる。
そのことが。
今日生まれた雛と同じくらい。
俺には嬉しかった。
「お父さん」
眠りかけたフェルナが。
最後に小さく言った。
「明日、生まれてたら起こして」
「俺より先に起きそうなくせに」
「でも……起こして……」
「分かったよ」
返事はなかった。
もう眠ったらしい。
明日の朝。
物置へ行けば。
また何か変わっているかもしれない。
何も変わっていないかもしれない。
それでも。
七人は。
きっとまた。
自分たちの目で確かめるのだろう。
待っていたものが。
昨日と。
今日と。
明日で。
どう変わっていくのかを。




