↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/76

第71話 セレスの昔の上着を汚して、ユラは泣きました

 冬服を出した翌朝、ユラは昨日から着ている上着を脱ごうとしなかった。


 もともとは、ずっと昔にセレスが着ていたものだ。ユラの体には今ちょうどよく、袖を通すたびに自分の腕を眺めては、どこか誇らしそうな顔をしている。


「朝飯の時くらい脱いでもいいんじゃないか?」


「さむい」


「火があるから寒くないだろ」


「ちょっとさむい」


「昨日までは平気だったじゃないか」


 そう言うと、ユラは上着の前を両手で押さえた。


「これ、きる」


「気に入ったのか?」


「うん。セレスの」


 向かいに座っていたセレスが笑う。


「今はユラのだよ」


「でも、まえ、セレス」


「そうだね。昔は私が着てた」


 そのやり取りを聞いていたフェルナが、自分の服を見下ろした。


「フェルナのお下がりも誰か着る?」


「大きさが合えばな」


「ユラ?」


「たぶん今のユラには大きい」


「じゃあ未来のユラ!」


「その頃には別の服があるんじゃない?」


 リシェルが言うと、フェルナは少し残念そうな顔をした。どうやら自分の服も誰かに着てもらいたくなったらしい。


 昨日までなら、古い服など着られなくなれば布として使うだけのものだった。ところが、一着の上着がセレスからユラへ渡ったことで、七人にとっては急に別の意味を持ち始めたようだった。


     ◇


 朝飯のあとは、冬支度の続きをすることになった。


 昨日出した服の中には、そのままでは使えないものがいくつもある。袖を足すもの、縫い目を直すもの、紐を付け替えるもの。急に全部を終わらせる必要はないが、本格的に寒くなる前には使える状態にしておきたい。


 俺とセレスが裁縫を始め、リシェルとミレアも自分でできるところを手伝う。ラグナとフェルナには薪を家の近くへ運んでもらい、ノエルは乾かしている冬用の敷物の様子を見ることになった。


 ユラはというと、最初から俺の横に座っていた。


「ユラもする」


「昨日針を使ったからって、今日は全部できるわけじゃないぞ」


「できるところする」


「じゃあ、この糸をこっちへ通してみるか」


「うん」


 昨日よりは手つきがいい。


 針穴へ糸を通すのには苦労していたが、失敗するたび俺の顔を見ることも減っている。三度目でようやく通ると、ユラは声を上げず、得意そうに俺へ見せた。


「できた」


「できたな」


「ユラ、じょうず?」


「昨日より上手い」


 それで十分嬉しいらしい。


 セレスも隣から覗き込み、「ほんとだ。昨日より早かったね」と褒めた。


 ユラは上着の袖口まで嬉しそうに撫でる。


「これも、セレスがした?」


「その服?」


「うん」


「どうだったかな。まだ小さかったから、お父さんがほとんど直したと思うよ」


「セレス、できなかった?」


「昔はね」


 ユラは少し驚いた。


「セレスも?」


「私だって最初から何でもできたわけじゃないよ」


「いま、できる」


「今は前よりね」


 セレスはそう言って、手元の上着へ針を通す。確かに、今では俺が見ていなくても簡単な補修くらいなら任せられる。


 ユラはしばらくその指先を見たあと、自分が通したばかりの糸を見つめた。


 たぶん、未来の自分と今のセレスを重ねているのだろう。


     ◇


 昼前になり、薪を運び終えたラグナとフェルナが戻ってきた。


「終わった!」


「ちゃんと崩れないように置いたか?」


「置いた!」


「ラグナが確認した!」


「フェルナも確認した!」


 二人とも鼻の頭が少し赤い。外は朝より日が出ているものの、風は冷たくなっていた。


「じゃあ手を洗ってこい。昼飯にする」


「今日お芋?」


「昨日も食っただろ」


「まだある!」


「あるけど、毎食芋だけにする気か?」


「できる!」


「しない」


 そんな話をしながら昼食を作っていると、フェルナがユラの上着に気づいた。


「まだ着てる!」


「うん」


「ずっと着る?」


「うん」


「寝る時も?」


 ユラが考える。


「きる」


「寝る時は脱げ」


 俺が止めると、不満そうな顔をされた。


「どうして?」


「寝にくいし、皺になる。それに汚れたら洗うんだから、その時は脱がないといけない」


 そこで。


 ユラの顔が変わった。


「よごれる?」


「服なんだから汚れることもあるよ」


「これも?」


「そりゃな」


 ユラは袖を見る。


 急に心配そうになった。


「セレスのなのに?」


 セレスがすぐ訂正する。


「今はユラのだよ」


「でも、セレスのだった」


「そうだけど」


「よごしていい?」


「着てたら汚れるよ」


 セレス自身は何でもないことのように答えたが、ユラは納得できないらしい。


 その後、昼飯を食べる時も上着の袖を何度も確認していた。


     ◇


 午後。


 ユラの様子が明らかに変わった。


 外へ出ようとしない。


「ユラ、行かない?」


 フェルナが誘う。


「いかない」


「何で?」


「ここいる」


「遊ばない?」


「あとで」


 珍しい。


 普段ならフェルナについて走ることはなくても、姉たちが家の近くで遊んでいれば見に行くくらいはする。


「眠いのか?」


 俺が聞いても首を横へ振る。


「じゃあ好きにしろ」


 無理に遊ばせるものでもない。


 俺は冬服の補修を続けた。


 しばらくして、今度はリシェルが水を汲みに行こうとする。


「ユラ、一緒に来る?」


「いかない」


「いつも来るのに」


「きょうはいかない」


「寒いから?」


「ちがう」


 リシェルは少し考えたが、それ以上は聞かずに出ていった。


 さらに時間が経つ。


 ユラは座ったまま。


 何度も上着を撫でている。


 ようやく。


 俺にも分かった。


「ユラ」


「なに?」


「服、汚したくないのか?」


 ぴたりと手が止まった。


 返事はない。


「だから外へ行かない?」


「……うん」


「脱いで行けばいいだろ」


「いや」


「何で?」


「きる」


 難しい。


 着たい。


 でも汚したくない。


 その二つを同時に叶えようとして、何もしないことにしたらしい。


「その服、ずっと家の中だけで着るのか?」


「うん」


「それでもいいけどな」


「いい?」


「ああ。ユラの服なんだから、どう着るかはある程度ユラが決めていい」


 少し安心した顔になった。


 ただ。


「でも、服は汚れても直したり洗ったりできるぞ」


「きれいになる?」


「汚れによるな。落ちない汚れもある」


 また顔が曇る。


 正直に言いすぎたかもしれない。


 けれど、絶対元通りになると言う方がおかしい。


「破れることもあるしな」


「……やぶれる?」


「今まで何回も直してあるだろ」


 袖や裾には、昔俺が縫った跡が残っている。


 ユラはそれを見つめた。


「セレス、やぶった?」


「たぶんな」


「セレス……」


「別に悪いことじゃないぞ」


「でも、やぶった」


「服なんて着て動けば破れることもある」


 ユラは。


 ますます上着を大事そうに抱え込んだ。


 どうやら俺の説明は、完全に逆効果だった。


     ◇


 夕方前。


 事件は起きた。


 外へ出ないと決めたはずのユラが、戸口のところでノエルと話していた。


「鶏、出てきた?」


「一回」


「たまごは?」


「まだ」


「みる」


 卵だけは見たかったらしい。


「上着そのままで行くのか?」


 俺が聞くと、ユラは迷った。


 それでも。


「いく」


「走らなければ、そんなに汚れないよ」


 セレスが言う。


「うん」


 ユラは慎重に。


 本当に慎重に外へ出た。


 普段なら気にもしない地面の泥を避ける。


 木の枝からも離れる。


 物置へ着き、入口から鶏を見る。


「まだ」


「まだだね」


 ノエルが答える。


 二人で少しだけ眺め。


 家へ戻ろうとした。


 その時だった。


 風が吹いた。


 物置の横へ立ててあった空の小さな籠が倒れ、地面を転がる。


「あ」


 ユラの足元へ向かう。


 避ければいい。


 それだけだった。


 だが。


 ユラは籠に驚いて一歩下がった。


 そこには。


 昨日掘った畑から運んできた土が、少しだけ残っていた。


 足が滑る。


「ユラ」


 ノエルが手を伸ばしたが、間に合わない。


 ユラは尻もちをついた。


 怪我をするような転び方ではなかった。


「大丈夫か?」


 俺もすぐ近くにいたので声をかける。


 ユラは。


 返事をしない。


「どこか痛い?」


 セレスも駆け寄る。


 それでも答えない。


 そして。


 ユラは自分の袖を見た。


 茶色い泥が。


 べったりついていた。


     ◇


「……よごれた」


「それくらいなら洗えば――」


「よごれた」


 声が震えている。


「ユラ、怪我は?」


「セレスの……」


「ユラ」


「セレスの、おようふく……」


 次の瞬間。


 大粒の涙が落ちた。


「よごしちゃった……」


 泣き始めた。


 転んでも。


 痛くて泣いているわけではない。


 服だ。


「ユラ、大丈夫だよ」


 セレスがしゃがみ込む。


「洗えば――」


「ごめんなさい……」


「何で謝るの?」


「セレスの、よごした……」


「だから、今はユラのだよ」


「でも……セレスのだった……」


 泣きながら袖を隠そうとする。


 その手まで土で汚れていた。


 セレスは困った顔をした。


 少し離れたところでは。


 他の姉妹も集まっている。


 誰も笑わない。


 フェルナでさえ。


 泥くらい大丈夫とは言わなかった。


     ◇


 セレスはしばらくユラを見ていた。


 それから。


「ねえ、ユラ」


「……なに」


「その服、私が着てた時も汚したよ」


 ユラが泣いた顔を上げる。


「ほんと?」


「たぶん、いっぱい」


「おぼえてる?」


「全部は覚えてない。でも、外で遊んだし、転んだこともあるし、お父さんに洗ってもらったこともある」


「これ?」


「その服だったかは分からないけどね」


 セレスは袖の補修跡を指先で触る。


「ここだって、たぶん私が何かして破ったから、お父さんが直したんだと思う」


「セレス、やぶった?」


「うん」


「わるいこと?」


「わざとじゃないよ」


「じゃあ?」


 セレスは少し考えた。


「着てた」


「きてた?」


「服だから、着てた。遊んだり、仕事したり、転んだりしてた。だから汚れたり破れたりしたんだと思う」


 ユラは。


 泥のついた袖を見る。


「でも、きれいだった」


「昨日見つけた時?」


「うん」


「お父さんが洗って、しまってくれてたからだよ」


 そこで俺を見る。


「そうだよね?」


「ああ。しまう前には洗った」


「じゃあ、ユラのも洗える」


「この程度ならたぶん落ちるよ」


「ほんと?」


「やってみないと分からないけどな」


 また余計な一言だったらしい。


 セレスが俺を見た。


「お父さん」


「嘘つくよりいいだろ」


「そうだけど」


 ユラは。


 まだ涙を浮かべながら。


「おちなかったら?」


 と聞いた。


     ◇


 今度は。


 俺より先にセレスが答えた。


「そのまま着ればいいよ」


「よごれたまま?」


「うん」


「いいの?」


「ユラが嫌じゃなければ」


「でも……」


「その汚れは、今日ユラが転んだところでしょ」


「うん」


「じゃあ今度、昔の服を出した時に見たら、『ここで転んだ』って思い出すかもしれないよ」


 ユラが。


 黙る。


 昨日。


 七人が選んだ布。


 きれいなところばかりではなかった。


 セレスは破れた場所。


 ラグナも大きく裂けた跡。


 フェルナは耳の穴。


 リシェルは字を書く時につけた汚れ。


 ミレアやノエルは昔の目印。


 ユラ自身も。


 初めて針を持った時の。


 不格好な補修跡を選んだ。


「ユラ」


 リシェルが近くから言った。


「私が残した布も汚れてるよ」


「くろいやつ?」


「うん。昔、字を書くの失敗してつけたやつ」


「きれいじゃない」


「でも残したかった」


「どうして?」


「覚えてたから」


 ラグナも。


「ラグナのは破れてる!」


「知ってる」


「でも好き!」


「フェルナのも穴ある!」


「それは耳の穴だろ」


「穴は穴!」


 少しずつ。


 いつもの声が戻ってきた。


     ◇


 ユラは。


 自分の袖をもう一度見た。


 泥。


 泣いたせいで。


 そこへ少し涙まで落ちている。


「これも、のこす?」


「まだ残すほど古くないだろ」


 俺が言うと。


 フェルナが笑った。


「ユラ、今から昔にする!?」


「できないよ」


 セレスも笑う。


 ユラは。


 ようやく少しだけ口元を緩めた。


「……あらう」


「じゃあ脱ぐか」


「うん」


 今度は。


 素直に上着を脱いだ。


 セレスが受け取ろうとしたが。


 ユラは手放さない。


「ユラする」


「洗うの?」


「うん」


「一人で?」


「セレス、てつだう?」


 セレスは。


 少し驚いたあと。


「手伝うよ」


 と答えた。


「いる?」


「いる」


 昨日の。


 セレスとラグナの話を思い出したらしい。


 まず聞く。


 必要なら頼る。


 それが。


 こんなところでも出てきた。


     ◇


 水は冷たいので。


 少し温める。


 汚れたところへいきなり強く擦りつけるのではなく、先に泥を落とす。


「こう?」


「もう少し優しく」


 セレスが教える。


「強くしたら?」


「布が傷むかも」


「必要なだけ」


「そう。必要なだけ」


 ラグナが横から反応した。


「ラグナのやつ!」


「誰の言葉でもないよ」


 ユラは。


 真剣だった。


 水へ浸し。


 少しずつ。


 泥を落とす。


 一度では消えない。


「まだある」


「もう一回」


「うん」


 何度か繰り返すと。


 茶色かった跡は。


 かなり薄くなった。


 完全に同じ色ではない。


 濡れているせいもある。


「きれいになった?」


 ユラが聞く。


「乾かさないと分からないな」


 今度は。


 その答えでも泣かなかった。


「じゃあ、まつ」


「今日は待つものが多いな」


 物置の卵も。


 洗った上着も。


 すぐには答えが出ない。


     ◇


 上着を干す。


 ユラは。


 その前へ座った。


「そこでずっと見てるのか?」


「うん」


「乾くまでかなりかかるぞ」


「まつ」


 ノエルが物置から戻ってくる。


「卵もまだ」


「こっちもまだ」


 ユラが上着を指差す。


「一緒」


「だいぶ違うけどな」


 俺の言葉は。


 二人とも聞いていない。


「どっち先?」


 ノエルが聞く。


「おようふく」


「たぶん」


「ひなは?」


「もっとあと」


 妙な競争になった。


     ◇


 夕飯の頃。


 上着はまだ少し湿っていた。


「今日着られない?」


「無理だな」


「夜まで?」


「火の近くへ置けば乾くかもしれないけど、近づけすぎるなよ」


「ユラ、さむい」


「別の服あるだろ」


 昨日出した冬服の中から。


 別の一枚を着せる。


 それでも。


 ユラは何度も洗った上着を見る。


「そんなに好きか?」


「うん」


「セレスのだったから?」


 少し考えて。


「それも」


「他には?」


「ユラのだから」


 昨日までは。


 セレスの昔の服。


 それが一番大きかった。


 けれど。


 今日。


 自分で着て。


 自分で転んで。


 自分で汚して。


 自分で洗った。


 少しずつ。


 本当にユラの服になり始めたのかもしれない。


     ◇


 夕飯の途中。


 セレスがユラへ聞いた。


「明日、乾いたらどうする?」


「きる」


「外も?」


 ユラの手が止まった。


 考える。


 長い。


 全員が答えを待つ。


「……きる」


「汚れるかもよ?」


「うん」


「転ぶかも」


「ころばない」


「それは分からないよ」


 ユラは。


 少し困った顔をした。


「じゃあ……ころぶかも」


「それでも着る?」


 また考えた。


「きる」


「そっか」


 セレスが笑う。


「じゃあいっぱい着て」


「セレス、いい?」


「だから今はユラの服だよ」


「でも、セレスのだった」


「うん」


「セレス、いやじゃない?」


 セレスは。


 昔の自分の上着を見る。


「嫌じゃないよ」


「よごれても?」


「うん」


「やぶれても?」


「直せるなら直せばいいし、直せなくなるまで着たなら、それだけいっぱい使ったってことだから」


 それは。


 どこか。


 俺が言いそうなことだった。


「お父さん」


 フェルナが俺を見る。


「何だ?」


「セレス、お父さんみたいなこと言った!」


「そうか?」


「言った!」


「じゃあセレス、お父さん?」


「違うよ」


「お母さん?」


「もっと違う!」


 セレスが慌てた。


 全員が笑った。


 ユラまで。


 今度は普通に笑っていた。


     ◇


 夜。


 寝る頃には。


 上着はほとんど乾いていた。


「まだ少し湿ってるから明日の朝まで置いとけ」


「うん」


 今日は。


 別の服で寝床へ入る。


 ユラは。


 何度も上着を見たが。


 取りに行こうとはしなかった。


「お父さん」


「何だ?」


「おようふく、よごれてもだいじ?」


「大事かってことか?」


「うん」


「汚れたら大事じゃなくなるのか?」


「……ならない」


「じゃあそういうことだろ」


「やぶれたら?」


「直せるなら直す」


「なおらなかったら?」


「布として使うこともできる」


「ちょっと、のこす?」


「残したければな」


「じゃあ、なくならない?」


 昨日も。


 似たことを聞かれた気がする。


「形は変わるかもしれないよ」


「かたち」


「上着じゃなくなる日も来る」


「でも?」


「ユラが着てたことは変わらない」


 少し。


 静かになる。


「セレスがきてたことも?」


「ああ」


「ふたりの?」


「そうなるな」


 ユラは。


 満足したのか。


 布団の中へ潜った。


     ◇


 翌朝。


 俺が起きると。


 ユラは。


 もう上着の前にいた。


 触る。


 袖。


 裾。


 背中。


「かわいた」


「そうだな」


「ここ」


 昨日の泥がついた場所。


 かなりきれいになっている。


 けれど。


 よく見れば。


 薄く跡が残っていた。


「まだちょっとある」


「ああ」


 俺は。


 何と言うか迷った。


 だが。


 ユラは泣かなかった。


 むしろ。


 指でその場所を撫でてから。


「きのう、ころんだところ」


 と言った。


「そうだな」


「ユラの?」


「ああ」


「セレスのと、ユラの」


「そうだな」


 上着を着る。


 前を留める。


 袖を伸ばす。


「お父さん」


「何だ?」


「そと、いってくる」


「転ぶなよ」


 言ってから。


 昨日の話を思い出す。


「いや、転んでも怪我しないように気をつけろ」


「うん!」


 戸を開ける。


 外では。


 もうフェルナが待っていた。


「ユラ! 行く!?」


「いく!」


「走る!?」


「はしらない!」


「じゃあ歩く!」


 二人で出ていく。


 ユラは。


 昨日までのように。


 泥だけを見て歩いてはいなかった。


 姉の隣を歩き。


 時々上着を見る。


 それでも。


 足を止めない。


     ◇


 大事なものは。


 しまっておけば。


 きれいなまま残る。


 誰も触らず。


 誰も着なければ。


 破れることも。


 汚れることも少ない。


 けれど。


 服は。


 着るためにある。


 昨日まで。


 セレスの思い出だった上着には。


 今日から。


 ユラの思い出も増えていく。


 泥の跡。


 自分で洗ったこと。


 泣いたこと。


 姉に大丈夫だと言ってもらったこと。


 いつか。


 また小さくなった時。


 あの布へ一部を縫い足す日が来るかもしれない。


 その時。


 ユラは。


 どの場所を残したいと言うのだろう。


 昨日までなら。


 セレスの昔の縫い跡を選んだかもしれない。


 今なら。


 自分が初めて汚した袖を。


 選ぶかもしれない。


 物は。


 使えば古くなる。


 けれど。


 古くなることと。


 大事でなくなることは。


 どうやら。


 同じではないらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。