第67話 鶏が一羽いないと思ったら、卵を温めていました
朝の鶏小屋は、いつも少し騒がしい。
戸を開ければ、餌を待っていた鶏たちが寄ってくる。腹が減っている時などは、こちらが足を置く場所を考えなければならないくらいだ。
だから、その朝。
ノエルが言ったことを。
俺は最初、聞き間違えたのかと思った。
「一羽いない」
「ん?」
「鶏。一羽いない」
餌を撒こうとしていた手を止める。
周りでは鶏たちが俺の都合など気にもせず、足元の餌をついばみ始めている。
俺は改めて数えた。
一羽。
二羽。
動き回るので、途中で分からなくなる。
「……もう一回」
「いないよ」
「ノエルはもう数えたのか?」
「三回」
それなら。
俺より信用できそうだ。
もう一度、今度は端からゆっくり数える。
確かに。
一羽足りない。
「昨日はいた?」
聞くと、ノエルは少し考えてから頷いた。
「夕方はいた。みんな戻る時、一番最後に入った」
「どの一羽?」
「首のところに白い羽が三つある子」
そこまで見分けているのか。
俺には全部ではないが、何羽かの違いなら分かる程度だ。ノエルはいつの間にか、もっと細かなところまで覚えていたらしい。
「朝、外へ出した時は?」
「分からない。私が来た時、もう開いてた」
「俺が開けたからな」
その時は数えていなかった。
俺が黙って鶏小屋の中を見ると、ノエルも同じ方へ視線を向けた。
「逃げた?」
「まだ分からん」
「食べられた?」
「それもまだ決めるな」
山だ。
鶏を狙う獣がいないわけではない。
だが、最初から一番悪い方へ決めつける必要もない。
「まず探そう。近くにいるかもしれん」
「うん」
俺たちが話している間に。
当然。
他の六人も気づいた。
◇
「一羽いない!?」
フェルナの声が朝から山へ響いた。
「大声出すな。近くにいたら余計逃げるだろ」
「あ」
慌てて両手で口を塞ぐ。
ラグナはすぐに鶏小屋の周りを見回し、セレスは開いている戸や柵を確認した。リシェルはノエルのところへ行き、最後に見た場所や時間を聞いている。
ミレアは餌を食べている鶏たちを眺めてから、静かに言った。
「一羽だけ別のところにいること、前もあったよね」
「あったな。畑の端で虫を追ってた」
「今回も?」
「それなら楽なんだけどな」
ユラは。
かなり心配そうだった。
「とり、かえってくる?」
「まだいなくなったと決まったわけじゃないよ」
「でも、いない」
「だから探す」
俺が頭を撫でると、ユラは小さく頷いた。
「ユラもさがす」
「遠くへ行かないならな」
七人で山へ散らばる必要はない。
むしろ、それをすると今度は娘を探すことになりかねない。
まず家の周り。
鶏小屋。
畑。
薪置き場。
物置の周辺。
いつも鶏が歩いている範囲を順番に見ることにした。
「見つけても追いかけるなよ」
俺が言うと。
全員の視線がフェルナへ向いた。
「何でフェルナ見るの!?」
「一番追いかけそうだから」
セレスが即答する。
「追いかけない!」
「本当に?」
「……見つけたら呼ぶ!」
「それならいい」
「お父さんまで!」
朝から元気だ。
少なくとも。
鶏一羽が見つからないからといって、家中が暗くなる必要はないらしい。
◇
しばらく探したが。
畑にはいなかった。
家の下にもいない。
薪の陰も。
道具を置いている場所も。
フェルナが「いた!」と一度叫んだが、それは別の鶏だった。
「白い羽三つない」
ノエルが確認して、すぐに違うと判断した。
「ノエル、全部分かるの?」
フェルナが聞く。
「全部じゃない。でもこの子は尾が少し曲がってる」
「本当だ!」
「こっちは足の色がちょっと違う」
「本当だ!」
探し物の途中なのに。
フェルナが鶏の見分け方を覚え始めた。
悪いことではないので放っておく。
俺は地面を見る。
雨のあとだから。
場所によっては足跡が残っている。
だが。
鶏の足跡だけを追うには数が多すぎた。
何羽も同じところを歩いている。
「お父さん」
少し離れたところからノエルが呼んだ。
「どうした?」
「これ」
しゃがみ込んでいる。
近づくと、地面に小さな羽が落ちていた。
茶色。
先の方だけ少し白い。
「この子?」
「たぶん」
「抜けただけにも見えるな」
「うん」
「どっちから来た?」
ノエルは周囲を見る。
地面。
草。
低い枝。
しばらく黙ってから。
「あっち」
指差した先には。
家の横にある、小さな物置があった。
「何で?」
リシェルが聞く。
「羽、もう一個ある」
少し先。
確かに。
もう一枚落ちていた。
ノエルは走らない。
一つ見つけるたびに。
その先を見る。
俺たちもついていく。
「ノエルすごい!」
フェルナが声を抑えながら言った。
「まだ見つけてない」
「でも探してる!」
「みんなも探してる」
「ノエルが一番それっぽい!」
それっぽいとは何だ。
◇
物置の中には。
古い籠。
乾かしている縄。
使う時期まで置いてある道具。
藁の束。
そういったものが入っている。
戸を開けても。
鶏の姿は見えない。
「いない?」
セレスが中を覗く。
「待って」
ノエルが言った。
俺も。
そこで気づいた。
音がする。
小さい。
喉の奥で鳴らすような。
いつもの鶏の声とは少し違う。
「いるな」
「どこ?」
「静かに探せ」
七人が。
本当に静かになった。
フェルナまで。
物置の中を順番に見る。
棚の下。
籠の後ろ。
積んである藁の陰。
やがて。
ノエルが指を差した。
「あそこ」
奥だ。
古い大きな籠と壁の間。
人間なら入れないような狭い隙間。
そこに。
茶色い羽が見えている。
「いた!」
フェルナが声を上げかけ。
自分で口を塞いだ。
俺はゆっくり近づく。
いた。
探していた一羽だ。
だが。
こちらを見ても出てこない。
体を少し膨らませるようにして。
じっと座っている。
「怪我してる?」
セレスが心配そうに聞く。
「待て」
手を出さず。
少し角度を変える。
鶏の腹の下。
藁。
その隙間に。
白っぽいものがいくつか見えた。
「ああ」
「どうしたの?」
「たぶん分かった」
俺は小声で言った。
「卵を温めてる」
七人が。
一斉に身を乗り出した。
「たまご!?」
「静かに」
七人が。
一斉に身を戻した。
◇
鶏を無理に動かさないように。
少し離れて見る。
隙間からでは全部は分からない。
だが。
一個や二個ではない。
「いっぱいある」
ユラが囁く。
「いつ産んだの?」
リシェルが聞いた。
「少しずつここに産んでたんだろうな」
「私たち、気づかなかった?」
「ああ」
普段なら。
鶏小屋にある卵を集める。
だが。
この一羽は。
いつの間にか別の場所を気に入り。
ここへ通っていたらしい。
「だから卵、少なかった日あった?」
セレスが言う。
「そうかもしれないな」
「ノエル知ってた?」
「知らない」
ノエルは鶏を見つめている。
「ここ来るところ、見てなかった」
「ずっと鶏見てるわけじゃないからな」
「うん」
少し悔しそうだ。
「でも今日見つけたのはノエルだぞ」
「羽があったから」
「羽があっても、俺は気づかなかった」
ノエルが俺を見る。
「お父さんも?」
「ああ」
「じゃあ、ノエルが見つけた?」
「そうなるな」
「……そっか」
少しだけ。
嬉しそうになった。
◇
「卵、取る?」
ラグナが聞いた。
「いや。今はそのままにする」
「食べない?」
「食べない」
ノエルが鶏を見る。
「赤ちゃん?」
「ちゃんと育ってる卵なら、そのうち雛が出るかもしれん」
今度こそ。
七人が完全に止まった。
「ひな?」
ユラが聞く。
「ああ」
「ちいさいとり?」
「そうだ」
「いつ!?」
フェルナが小声で叫ぶという器用なことをした。
「すぐじゃない」
「明日?」
「明日じゃない」
「三日?」
「もっと先だ」
「十日!?」
「たぶんそれより先」
正確に何日目から温め始めたのか。
俺にも分からない。
「じゃあ、いつ?」
リシェルが聞く。
「分からん」
「お父さんも?」
「ああ。ここに卵があること自体、今知ったからな」
「全部ひなになる?」
「それも分からない」
「温めてるのに?」
「温めても出てこない卵はあるよ」
七人が卵を見る。
さっきまでの興奮が。
少しだけ静かになる。
「じゃあ」
セレスが聞いた。
「どうしたらいい?」
「なるべく邪魔しない」
「何もしない?」
「水と餌は近くで取れるようにする。それから、この物置へ入る時は気をつける。今できるのはそのくらいだな」
ラグナが眉を寄せる。
「守らなくていい?」
「守るために、触らない方がいい時もある」
「……また待つ?」
「今回はかなり待つな」
ラグナは卵を見る。
「長い」
「まだ始まったばかりかもしれんぞ」
「もっと長い!?」
そこは不満らしい。
◇
家へ戻ると。
予定していた朝の仕事より。
鶏の話の方が大事になっていた。
「物置、入ったら駄目にする?」
リシェルが板を持ち出して聞く。
「全部入れなくなると困る。使う物もあるからな」
「じゃあ、奥だけ?」
「そうだな」
「何て書く?」
フェルナがすぐに答える。
「『ひながいる』!」
「まだいないよ」
セレスが訂正する。
「じゃあ『ひなになるかもしれない』!」
「長い」
「じゃあ絵!」
フェルナが板へ鶏の絵を描こうとする。
「それ鶏か?」
ラグナが言った。
「鶏!」
「足多い!」
「これは草!」
「草が足から生えてる!」
「違う!」
何か始まった。
結局。
リシェルが文字を書き。
ノエルが横に小さな卵の絵を描いた。
『しずかに』
『さわらない』
それだけ。
分かりやすい。
「これならユラも分かる?」
リシェルが聞く。
ユラは板を見る。
「しずかに。さわらない」
「読めた」
「よめる」
「じゃあここに置こう」
物置の入口。
目につく場所へ板を立てる。
フェルナが入ろうとする。
板を見る。
止まる。
忍び足になる。
「そこまでしなくてもいいぞ」
「静かに!」
「普通に歩くくらいなら大丈夫だ」
「でも静かに!」
しばらくは。
物置へ入るたびに全員こうなりそうだ。
◇
昼飯の時も。
卵の話は続いた。
「生まれたら名前つける!」
フェルナが言う。
「まだ生まれると決まってないぞ」
「生まれたら!」
「何羽いるかも分からない」
「全部つける!」
「鶏全部に名前つけたら覚えるの大変じゃない?」
セレスが言う。
「ノエルなら分かる!」
「私が?」
「全部見分ける!」
勝手に仕事を増やされている。
ノエルは少し考えた。
「できるかも」
「やるのか」
「顔違うから」
「俺より鶏に詳しくなりそうだな」
「もう詳しいところあるよ」
そう言うと。
ノエルがほんの少し笑った。
その隣で。
ユラが真剣な顔をしている。
「どうした?」
「ひな、おとうさんいる?」
突然だった。
「鶏の?」
「うん」
「いるはずだけど」
卵が育っているなら。
当然。
雄鶏が関わっている。
だが。
ユラが聞きたいのは、たぶんそこではない。
「ひなのおとうさん、だっこする?」
「鶏はしないと思うぞ」
「しない?」
「人間と同じ育て方じゃないからな」
ユラは驚いた。
「おかあさんは?」
「今、温めてるだろ」
「ずっと?」
「かなり長く座る」
「ごはんは?」
「時々食べに出る」
「ねる?」
「座ったままじゃないか」
質問が止まらない。
するとミレアが。
静かに笑った。
「ユラ、自分と同じだと思ってる?」
「ちがう?」
「だいぶ違うと思う」
ユラは。
少し残念そうだった。
「だっこしない……」
「雛は雛でちゃんと育つよ」
俺が言うと。
「さみしくない?」
「それは鶏に聞かないと分からんな」
ユラは真剣に考え始めた。
あとで鶏へ直接聞きに行きそうなので。
「答えが返ってこなくても、ずっと聞くなよ」
「なんでわかった?」
「お父さんだからな」
◇
午後。
七人は。
驚くほど何度も物置の前へ行った。
ただし。
中へは入らない。
入口から覗く。
戻る。
しばらくして。
また誰かが覗く。
「まだいる」
フェルナが報告する。
「そりゃいるだろ」
「まだ生まれてない」
「さっき見ただろ」
「今は?」
「今もだよ」
「見てくる!」
「だから変わらないって」
待つというのは。
七人にとって。
まだかなり難しいらしい。
それでも。
誰も卵には触らなかった。
ラグナも。
持ち上げなかった。
フェルナも。
近くまで走り込まなかった。
ユラも。
抱っこしようとしなかった。
その一点だけでも。
大したものだと思う。
◇
夕方。
鶏たちが戻る頃。
例の一羽も。
一度だけ物置の奥から出てきた。
「あ!」
ノエルが最初に気づく。
七人全員が。
動きを止めた。
鶏は水を飲み。
少し餌を食べる。
羽を震わせ。
地面をつつく。
「卵大丈夫?」
セレスが小声で聞く。
「このくらいなら大丈夫だろ」
「戻る?」
「たぶんな」
俺たちは。
誰も近づかなかった。
しばらくすると。
鶏は本当に物置へ戻っていった。
七人が。
一斉に息を吐く。
「戻った!」
「ちゃんと戻った!」
「卵分かってる!」
「そりゃ自分で作った巣だからな」
俺より。
鶏の方が。
自分のやることを分かっているのかもしれない。
◇
夜。
寝床へ入ってからも。
まだ話は終わらなかった。
「明日生まれるかもしれない?」
フェルナが聞く。
「可能性だけなら何でも言えるけど、たぶん明日はまだだ」
「明後日?」
「分からん」
「いつ?」
「だから分からん」
「見たら分かる?」
「毎日見てれば、そのうち分かる」
「じゃあ毎日見る!」
「邪魔するなよ」
「見るだけ!」
少しして。
今度はリシェルが言った。
「板に日を書いていく?」
「何の?」
「今日から何日待ったか」
「いいんじゃないか」
「生まれた日も書く」
「生まれたらな」
「生まれなかったら?」
一瞬。
部屋が静かになった。
俺は暗い天井を見る。
「その時は、その時だ」
「悲しい?」
セレスが聞いた。
「たぶんな」
「じゃあ、期待しない方がいい?」
「それは知らん」
「お父さんでも?」
「ああ」
期待すれば。
駄目だった時に悲しい。
だからといって。
最初から何も楽しみにしない方がいいのか。
そんなことは。
俺にも分からない。
「俺なら」
少し考えてから続けた。
「生まれたら嬉しいと思って待つかな」
「生まれなかったら?」
「その時に残念がる」
「先に残念にならない?」
「まだ何も起きてないからな」
また少し静かになった。
やがて。
フェルナが言う。
「じゃあフェルナ、生まれると思って待つ!」
「ラグナも!」
「私は半分くらい」
リシェルは慎重だ。
「半分って何だよ」
「生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない」
「それは俺が最初に言ったことと同じだな」
「あ」
笑い声が起きる。
ノエルは。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「明日も見る」
とだけ言った。
「頼むよ」
「うん」
「でもノエル一人の仕事じゃないからな」
「分かってる」
「見たい時に見ればいい」
「うん」
その返事を聞いて。
俺も目を閉じた。
◇
その日。
家族が増えたわけではない。
まだ。
卵がいくつあるのかさえ。
きちんとは分かっていない。
明日も。
何も変わらないかもしれない。
それでも。
物置の入口には。
今までなかった板が一枚増えた。
『しずかに』
『さわらない』
そして。
七人には。
明日の朝。
起きたら確かめたいものが一つ増えた。
何かが起こる日だけが。
楽しみな日ではないらしい。
まだ起こっていない何かを。
家族みんなで待っている時間も。
この家の暮らしの一つになっていくのだろう。




