第63話 七人が来る前、この家はもっと静かでした
短い棒が一本増えてから、数日が経った。
ユラはすっかり自分用だと思っているらしく、使う必要もないのに物置を覗いては、ちゃんと同じ場所にあることを確かめている。
別に誰も持っていかないのだが。
「お父さん、ユラのぼう、ある」
「ああ。昨日もあっただろ」
「きょうもある」
「明日もたぶんあるよ」
「よかった」
何がそんなに嬉しいのかは分からない。
ただ、新しい道具が増えたせいで、物置の壁際が少し窮屈になった。
長い棒。
短い棒。
薪割りに使う道具。
畑の道具。
籠。
縄。
乾かしておく木材。
以前より明らかに物が増えている。
八人で暮らしていれば当然なのだが、このまま何でも空いているところへ置いていけば、そのうち必要なものを探すだけで一仕事になりそうだった。
「今日はこっちを片づけるか」
朝の仕事を終えてから、俺は物置の一つへ入った。
すると、当然のように七人もついてきた。
「みんなでする?」
セレスが聞く。
「手伝ってくれるなら助かる。ただ、勝手に捨てるなよ。何か分からないものがあったら聞いてくれ」
「分かった」
「宝ある!?」
フェルナが目を輝かせる。
「俺が知る限りない」
「まだ見つけてないだけかも!」
「俺の物置だぞ」
「お父さんも知らない宝!」
「そんなものがあったら、それは誰の宝なんだ」
フェルナは真剣に考え始めた。
考えている間だけ静かなので、そのままにしておく。
俺たちは奥から順番に物を出し、使うものと、ほとんど使っていないものを分け始めた。
◇
しばらくすると、奥の壁際に置いてあった古い棚を動かすことになった。
「ラグナ、こっち持てるか」
「持てる!」
「持ち上げるだけだぞ。投げるなよ」
「棚は投げない!」
「ならいい」
俺とラグナで左右を持ち、少し前へ出す。
その後ろには長い間隠れていた壁があった。
他の場所より色が薄く、木材も少し古い。
「ここ、違う」
最初に気づいたのはノエルだった。
しゃがみ込んで、床板と柱の境目を見ている。
「木の色?」
「ああ。そこは古いからな」
「他より?」
「ずっと古い」
リシェルまで近づいてきた。
壁。
床。
柱。
順番に視線を動かしてから、俺を見る。
「この線、何?」
指差したのは床板を横切る継ぎ目だった。
「ああ、それか」
懐かしいものを見つけた。
「昔は、そこまでが家だったんだよ」
七人が一斉に床を見る。
そして、継ぎ目の向こう側を見る。
さらに、今いる物置全体を見回した。
「ここまで?」
セレスが確認する。
「そう。そっち側は後から広げた」
「いつ?」
「お前たちが来てから」
今度は七人全員が俺を見た。
「私たちが来る前、ここなかったの?」
「なかった」
フェルナが継ぎ目を飛び越える。
「こっち全部!?」
「なかった」
戻ってきて、もう一度飛び越える。
「じゃあ今、外!?」
「昔ならな。今は物置だ」
「昔の外!」
「今は中だって」
どうやら面白いらしい。
ラグナも床の継ぎ目を跨ぎ、自分の足元を見た。
「ラグナ、半分外?」
「だから今は全部中だよ」
「でも昔なら?」
「片足外だな」
「おお……」
何がおおなのか分からない。
その横では、リシェルがもう別のことを考えていた。
「じゃあ、家、前はもっと小さかった?」
「ああ」
「どれくらい?」
「今よりかなり小さいな」
「見たい」
「何を?」
「昔の家」
「もうないぞ。広げたから」
そう答えると、リシェルは少し残念そうな顔をした。
だが、すぐ床の継ぎ目へ目を戻す。
「でも、ここ分かる」
「まあ、家の端だった場所は何となく残ってるな」
「他にもある?」
「探せばな」
その一言で。
片づけは一度中断された。
◇
「ここ!」
フェルナが居間の隅で声を上げた。
「床違う!」
「そこは違う。板を傷めて取り替えただけだ」
「違った!」
「ちゃんと見ろ」
「見た!」
「見た結果が間違ってるんだよ」
リシェルはもう少し慎重だった。
物置で見つけた継ぎ目から柱の位置を確かめ、家の外へ回って壁の形まで見ている。
「ここから、こっちが後?」
「そうだな」
「じゃあこの部屋も?」
「半分くらいは後だ」
「寝るところは?」
「あそこも広げた」
「台所は?」
「少しだけな」
質問が止まらない。
俺自身、普段はもう意識していない。
七人が来た頃は、家の中へ八人入っただけで随分狭く感じた。
座る場所を決めるだけでも七人が戸惑い、寝る場所を作るために家具を動かし、物置に押し込んでいたものを外へ出した。
あれから少しずつ手を入れた。
一度に大きくしたわけではない。
必要になったから壁を伸ばし、寝床が足りなくなったから場所を作り、物が増えたから棚を足した。
気づけば、一人で暮らしていた頃の家とは随分違う形になっている。
「お父さん」
セレスが俺の袖を軽く引いた。
「ん?」
「私たちが来る前は、どこで寝てたの?」
「今の俺の寝床と大体同じ場所だよ」
「みんなは?」
「みんなって誰だ?」
「……あ」
そこで気づいたらしい。
セレスが少し妙な顔をする。
「誰もいなかった」
「ああ」
「本当に一人だったんだ」
「そう言ってるだろ」
知っていたはずなのに。
どうやら今になって実感したらしい。
◇
「ご飯は?」
昼食の支度をしていると、ラグナが聞いてきた。
「何が?」
「七人来る前」
「普通に食ってたよ」
「誰と?」
「一人で」
「毎日?」
「毎日」
ラグナは信じられないものを見るような顔をした。
「ずっと?」
「誰か来た時以外はな。そもそもこんな山奥に人なんて滅多に来ないし」
「一人でいただきますする?」
「ああ」
「誰が返事する?」
「いただきますは返事を待つ言葉じゃないだろ」
今度はフェルナが入ってきた。
「ご飯の時、誰と話すの?」
「誰とも話さない」
「何するの?」
「食う」
「それだけ!?」
「飯を食ってるんだから十分だろ」
「静か!」
「静かだったな」
俺にとっては、それが普通だった。
朝起きれば自分一人。
仕事へ出る時も一人。
戻ってきても、自分が出ていった時と同じ状態の家がある。
夕飯を作り、食べ、片づける。
誰かが匙を落とすこともない。
誰かが自分の皿より隣の皿を気にすることもない。
木苺を先に食べすぎて注意する必要もない。
食卓の下へ何かを落として、そのまま忘れる奴もいなかった。
「じゃあ」
ノエルが食卓につきながら聞く。
「鳥の声、いっぱい聞こえた?」
「聞こえたな」
「今も聞こえる」
「お前らが静かな時はな」
「静かだよ」
「たまにな」
ノエルは自分以外の六人を見回した。
何か納得したように頷く。
「たまに」
「おい」
フェルナが抗議した。
「フェルナ静かにできる!」
「じゃあやってみる?」
ミレアが笑いながら言った。
「できる!」
「飯の間ずっと?」
「できる!」
誰も頼んでいないのに。
昼食が突然、静かに食べる時間になった。
◇
最初の十数息ほどは。
本当に静かだった。
七人が真剣な顔で食事をしている。
匙が器へ触れる音。
火が薪を爆ぜさせる音。
外から聞こえる鳥の声。
風が家の横を抜ける音。
確かに。
以前はこういう音を聞きながら食事をしていた。
懐かしいといえば懐かしい。
だが。
俺は食卓の向こう側を見た。
フェルナが何か言いたそうにしている。
頬が膨らんでいるので、まだ口の中にも何か入っている。
ラグナはそのフェルナを見て、笑いを堪えている。
ユラは自分の器を見たあと俺を見て、また器を見る。
リシェルは何か質問を思いついたらしく、時々口を開きかけては閉じている。
セレスはそんな妹たちを見ながら、たぶん自分も笑いそうになっている。
ミレアは最初から楽しそうだ。
ノエルだけは普段とあまり変わらない。
やがて。
ユラが耐えられなくなった。
「おとうさん」
「はい、終わり」
「まだ何も言ってない!」
フェルナまで一緒に声を出した。
「お前も喋ってるだろ」
「あ!」
ラグナが吹き出す。
「フェルナ負け!」
「勝負じゃない!」
「静かにするって言った!」
「ユラが先!」
「ユラ、ききたいことあった」
「何だ?」
「これ、おかわりある?」
「あるよ」
「よかった」
そこからは。
いつもの昼飯だった。
◇
「お父さん」
食後。
食器を片づけながら、セレスが俺へ声をかけてきた。
「一人の方が静かだった?」
「そりゃ静かだったな」
「今、うるさい?」
「うるさい時はある」
正直に答えると。
七人の手が少し止まった。
「……嫌?」
ユラが心配そうに聞いた。
「うるさいことが?」
こくりと頷く。
「嫌な時は『静かにしろ』って言ってるだろ」
「言う」
「じゃあ、言ってない時は別にいいよ」
「でも、前はずっと静かだった」
セレスが言う。
「そうだな」
「今と、どっちがいい?」
ずいぶん答えにくい質問をする。
一人で暮らしていた頃が嫌だったわけではない。
あの頃には、あの頃の暮らしがあった。
自分のことだけ考えればよくて、自分の好きな時に仕事をし、腹が減ったら飯を作り、疲れたら寝る。
静かなのも嫌いではない。
今だって、たまには静かにしてほしい時がある。
だから。
「比べるものじゃないな」
そう答えた。
七人が首を傾げる。
「昔は昔で普通だった。今は今で普通だ」
「今も?」
「ああ」
「七人いるのが?」
「もうな」
最初の日は。
七人いるだけで、家の中が狭かった。
誰がどこにいるのか分からなくなった。
飯を七人分増やすだけで大仕事だった。
夜になれば、寝息が七つ増えたことに違和感があった。
今は。
一人分の足音しか聞こえない方が気になる。
二人ほど姿が見えなければ、どこへ行ったか考える。
夕飯の器が一つ足りなければ、すぐ気づく。
夜になって家が静かすぎれば。
全員ちゃんといるか確かめたくなる。
「もし明日から」
俺は七人を見ながら言った。
「お前ら全員、一日中ずっと静かになったら、たぶん俺は心配するよ」
「どうして?」
フェルナが聞く。
「何かあったと思うから」
「フェルナ静かでも?」
「特にお前が静かだったらな」
「失礼!」
「じゃあ明日一日やってみるか?」
「やらない!」
即答だった。
◇
午後。
物置の片づけへ戻ると。
朝見つけた古い床の継ぎ目の前で、リシェルがしゃがんでいた。
「まだ見てるのか?」
「覚えとこうと思って」
「何を?」
「ここから家が大きくなったところ」
「別に覚えなくてもいいぞ」
「でも」
リシェルは家の奥を見る。
そこではラグナが棚を移し、フェルナが空になった籠を持って走ろうとしてセレスに止められている。
ミレアは道具についた埃を拭き、ノエルは棚の隙間から出てきた小さな虫を観察していた。
ユラは短い棒を持ち出してよいか迷っているらしく、物置の入口から俺を見ている。
「昔、ここまでだった」
「ああ」
「七人来て、大きくした」
「そうだな」
「これも地図に書く?」
「家の中の地図まで作る気か?」
「だめ?」
「駄目じゃないけど、何に使うんだ」
リシェルは考える。
しばらくして。
「あとで見る」
「未来のリシェルが?」
「うん」
「未来好きだな、お前ら」
リシェルは少し笑った。
「だって、忘れるかもしれないから」
それは。
以前なら俺が言っていたことだった。
今では、七人の方が先に口にする。
「なら書いとけ」
「うん」
「ただし片づけ終わってからな」
「分かってる」
◇
夕方には。
物置がずいぶん使いやすくなった。
長い棒と短い棒にも、ちゃんと置き場所ができた。
ユラはそれだけで満足らしい。
「これなら、なくならない」
「置き場所決めても、使った奴が戻さなかったらなくなるぞ」
「もどす」
「みんなもな」
「はーい!」
七人分の返事が重なる。
やっぱりうるさい。
夕飯でも。
フェルナとラグナが今日見つけた一番古そうな道具について言い争い。
リシェルが俺一人だった頃の家の広さを何歩分だったか確認し。
ノエルが物置にいた虫の話をし。
ミレアが古い棚を残すのか聞き。
セレスが明日は何を片づけるのか尋ね。
ユラが途中から眠そうになった。
一人だった頃なら。
夕飯はもっと早く終わっただろう。
片づけも少なかった。
話が途中で別の話へ飛ぶこともなかった。
それでも。
食事を終えたあと。
七つの器が自分のものと一緒に並んでいるのを見ると。
もう、こっちの方が普通に見える。
◇
夜。
七人がそれぞれの寝床へ入った。
しばらくは今日見つけた「昔の家」の話をしていたが、やがて一人ずつ声が減っていく。
最後まで起きていたフェルナも眠り。
家が静かになった。
風の音。
木が鳴る音。
遠くの虫。
昔は。
毎晩。
こんな感じだった。
俺は天井を見ながら、その頃のことを思い出そうとする。
静かな家。
一人分の寝床。
一人分の明日の予定。
一人で起きて。
一人で出て。
一人で帰ってくる。
別に。
嫌な暮らしではなかった。
ただ。
随分昔のことみたいに感じる。
「……おとうさん」
暗闇から。
ユラの声がした。
「起きてたのか?」
「うん」
「どうした?」
「むかしのおうち」
「ああ」
「ユラ、いなかった?」
「いなかったな」
「セレスも?」
「いない」
「みんな?」
「まだ誰もいなかった」
しばらく。
返事がない。
眠ったのかと思った頃。
「じゃあ」
小さな声が続いた。
「いまのおうちのほうが、おっきい?」
「ああ」
「よかった」
「何が?」
「みんな、はいる」
それだけ言って。
今度こそ、ユラは眠った。
俺は少し笑う。
一人なら。
あの大きさで十分だった。
八人になったから。
家を大きくした。
物を増やした。
寝る場所を増やした。
飯を増やした。
仕事も増えた。
音も。
ずいぶん増えた。
そして。
気づけば。
静かだった頃の家より。
今のこの騒がしい家の方を。
俺はもう。
自分の家だと思っている。




