第62話 長い棒は、長ければいいわけじゃない
翌朝。
雨は夜のうちに止んでいた。
外へ出ると、昨日まで乾いていた土はまだ濃い色をしていて、木の葉からは時々、大きな雫が落ちている。空には雲が残っているものの、その向こうから薄い朝日が差し始めていた。
俺が戸口で空を見ていると、後ろから足音が近づいてくる。
「お父さん」
「おはよう、フェルナ」
「晴れた」
「ああ」
「棒!」
覚えていたらしい。
「朝飯より先か?」
「朝飯食べてから棒!」
「なら先に食え」
「うん!」
ものすごい勢いで食卓へ戻っていった。
昨日寝る直前まで気にしていたのだから、忘れているとは思っていなかった。
とはいえ、昨日使った長い棒は特別な道具というほどのものではない。真っすぐ伸びた丈夫な木を削り、手で持ちやすくしただけだ。
高い場所へ引っかかった枝を落としたり、手の届かない場所を突いたりするときに使う。
便利ではある。
だが、長いものには長いものなりの扱いにくさもある。
たぶん今日は、そっちまで教えることになるだろう。
◇
「これ?」
朝飯が終わると、フェルナは物置の横に立ててある棒をすぐに見つけた。
「それ」
「長い!」
「屋根まで届かせるためだからな」
フェルナが持ち上げようとするので、俺は一度止めた。
「待て。最初から屋根ではやらない」
「どうして?」
「失敗した時に困るから」
昨日なら危険な場所だった屋根も、今日は晴れている。
だからといって、初めて扱う道具をいきなり頭上の屋根へ向ける必要はない。
「先に低いところで使う。ちゃんと扱えると分かってから高いところだ」
「分かった!」
返事をしたフェルナの後ろでは、いつの間にか残りの六人まで集まっていた。
「ラグナもやる!」
「私も見たい」
「何であれで枝が落ちるのか知りたい」
リシェルはすでに棒の先を観察している。
「みんなやるの?」
ミレアが聞くと、セレスは少し迷ってから俺を見た。
「邪魔にならないなら」
「七人くらいなら大丈夫だ。ただし、一人ずつな」
「ユラもする」
「持てそうならな」
「もてる」
そう言いながらユラは、自分の身長の何倍もある棒を見上げていた。
少し不安になった。
◇
練習には、家のそばにある木を使うことにした。
低い枝へ古い布を軽く結びつける。
「今日はこれを取る」
「登った方が早い!」
フェルナが当然のように言った。
「棒の練習にならんだろ」
「あ、そっか」
「それに、届かないからすぐ登るんじゃなくて、別の方法がないか考えるための道具でもある」
俺は棒を持ち、先端を布の近くへ運んだ。
大事なのは力ではない。
先端が長くなるほど、手元を少し動かしただけで先は大きく動く。
布へ棒を当て、結び目の近くを軽く押し上げる。
結び目が枝から外れ、布が落ちてきた。
「おおー!」
ラグナとフェルナが同時に声を上げた。
「すごい!」
「別にすごくはない」
「お父さん、全然力入れてない」
ラグナはそこが気になったらしい。
「必要なかったからな」
「もっと強くやったら?」
「布が向こうまで飛ぶか、棒の先が別の枝に当たる」
「強い方が早くない?」
「こういう道具は、強さより先がどこにあるか分かる方が大事だ」
説明してから、今度はフェルナに持たせた。
「重くはない!」
「重さだけならな。真ん中より少し後ろを持ってみろ」
「ここ?」
「ああ。先を上げて」
フェルナが棒を持ち上げる。
すると棒の先端が大きく左右へ揺れた。
「わっ」
「手元は少ししか動かしてないだろ?」
「うん。でも向こういっぱい動く!」
「長いからな」
もう一度布を結び直してやると、フェルナは慎重に棒を向けた。
最初は右。
戻して左。
少し上。
「あっ、行きすぎた」
「急がなくていい」
「止めるの難しい!」
「だから昨日、雨の中で初めてやらせなかった」
「あー……」
ようやく昨日の話とつながったらしい。
何度か位置を直したあと、フェルナは布の端へ棒を当てることに成功した。
「当たった!」
「そこから少し上」
「少し……」
本当に少しだけ動かす。
布が落ちる。
「取れた!」
フェルナは棒を放り出しそうな勢いで喜んだので、慌てて止めた。
「取れたあとも棒をちゃんと下ろせ」
「はい!」
危ないところまで含めて、まだ練習は必要そうだった。
◇
次はラグナだった。
棒を渡した時点で嫌な予感はした。
「これ、もっと長くできる?」
「何でだ?」
「長かったらもっと高いところ届く!」
「届くな」
「じゃあ長い方が強い!」
「強くはない」
「でもいっぱい届く!」
「その分扱いにくい」
言葉だけでは納得しきれない顔をしていたので、そのままやらせてみた。
布へ狙いを定める。
ラグナは棒をしっかり握り――。
「えい!」
押し上げた。
布が枝から外れた。
勢いよく。
そして俺たちの頭上を越えた。
「あ」
全員で振り返る。
布は少し離れた地面へ落ちた。
「取れた!」
「取れたけど飛ばす必要はなかったな」
「でも取れた!」
「取りに行く距離が増えただろ」
ラグナは落ちた布を見た。
次に、自分の持っている長い棒を見る。
「……必要なだけ?」
「そう」
「またそれだ!」
フェルナが笑い始める。
「大事だから!」
昨日と同じ返事をしながら、ラグナは布を拾いに走っていった。
◇
リシェルは、すぐには棒を持たなかった。
「先に見ていい?」
「何を?」
「みんながやるところ」
「いいぞ」
セレスとミレアにも順番に持たせる。
セレスは最初、棒をできるだけ自分で安定させようとしたが、両手へ力を入れすぎて細かく動かせなくなった。
「力抜いていいぞ」
「落とさない?」
「握ってれば落ちない」
少し肩の力を抜かせると、急に動きが滑らかになった。
「こっちの方が動かしやすい」
「何でも強く握ればいいわけじゃないからな」
「ラグナみたい」
「セレス姉も!」
遠くからラグナが返してくる。
「今のは悪口じゃないよ!」
「分かってる!」
どうやら本当に分かっているらしい。
以前なら力が強いと言われるだけで喜んでいたのに、今はその力をどう使うかの方へ少しずつ興味が移っている。
ミレアは急がなかった。
布を見る。
棒を見る。
自分の手を見る。
それからゆっくり動かした。
一度目は外れた。
二度目も少し届かなかったが、三度目で棒の先を布の下へ入れた。
「ここから?」
「押し上げれば取れる」
「じゃあ、少しだけ」
布が静かに落ちる。
「できた」
ミレアは大きく喜ぶこともなく、落ちた布を拾い上げて丁寧に畳んだ。
「ミレア遅い!」
フェルナが言う。
「でも一回も飛ばさなかったよ」
「……ほんとだ」
「速い方がいい時もあるし、ゆっくりの方がいい時もある」
「フェルナ速い方!」
「知ってる」
たぶん山中の動物まで知っている。
◇
ノエルの番になると、彼女は棒を持ったまましばらく布を見ていた。
「やらないのか?」
「見てる」
「何を?」
「みんな、下から押してる」
「そうだな」
「横からでも取れる?」
「やってみたらいい」
ノエルは少し横へ移動した。
棒の先を布の横へ持っていき、そのまま枝に沿うように動かす。
布が引っかかり、するりと外れた。
「取れた」
「そのやり方もあるな」
「お父さんやってなかった」
「俺がやった方法だけが正解じゃないからな」
ノエルは布を拾いながら首を傾げる。
「じゃあ、もっとある?」
「たぶんな」
「探す」
今日一日、家中の高い物を棒で取ろうとし始めなければいいのだが。
◇
「リシェルはもう分かった?」
フェルナに聞かれ、ずっと見ていたリシェルが頷いた。
「たぶん」
ようやく棒を受け取る。
「長いと遠くまで届く。でも、先がいっぱい動く。だから届くことと、扱いやすいことは別」
「そうだな」
「持つところ変えたら?」
「やってみろ」
リシェルは持つ位置を少し前へずらした。
棒の先までの距離が短くなる。
「こっちの方が動かしやすい」
「その代わり後ろが長くなるから、後ろに誰かいる時は気をつけろ」
全員が一斉に数歩離れた。
「ちゃんと離れるんだな」
「当たりたくない」
「それでいい」
リシェルは何度か持つ位置を変え、自分が一番扱いやすいところを探した。
そして布を落としたあと、棒ではなくユラを見る。
「ユラ、これ無理じゃない?」
「むりじゃない」
ユラが抗議した。
「たぶん長すぎる」
「もてる」
「持つだけなら」
俺も少し気になっていた。
「やってみるか」
「うん」
ユラへ棒を渡す。
両手でしっかり持ったところまではよかった。
「おもくない」
「じゃあ先を上げてみろ」
「うん」
持ち上げる。
途中までは上がった。
だが、棒が横へ傾き始める。
「んん……」
「無理するなよ」
「できる」
さらに持ち上げようとして、先端がぐらりと動いた。
セレスがすぐ手を添えようとしたが、その前にユラ自身が棒を地面へ戻した。
「……ながい」
「だな」
「ユラ、ちいさいから?」
少しだけ残念そうな声だった。
俺が答える前に、フェルナが物置の方を見る。
「短い棒なら?」
「短いと布まで届かないだろ」
俺が言うと。
リシェルが布の高さを見る。
「もっと低くすればいい」
「練習ならな」
セレスも頷いた。
「ユラが使える長さで練習して、大きくなったら長いのにすればいいんじゃない?」
「それでもいいな」
そう答えたところで。
七人が揃って俺を見た。
「何だ?」
フェルナが言った。
「短い棒作る!」
「今から?」
「うん!」
「何本?」
「ユラの!」
「それだけ?」
「フェルナのも!」
「何で増えた?」
「フェルナはこの長いのでいいでしょ」
セレスに言われ、フェルナは考える。
「じゃあいらない!」
諦めるのが早い。
◇
結局。
午前中の残りを使って、少し短い棒を一本作ることになった。
俺がちょうどよさそうな木を選び、余計な枝を落としている横で、七人は長さについて相談している。
「ユラよりちょっと大きいくらい?」
「それじゃ高いところ届かない」
「でも長すぎたらまた持てないよ」
「ユラ、これくらい」
本人が両腕を広げて示す。
「それ、ユラ二人分くらいあるよ」
「ふたりいない」
「長さの話」
話し合いを聞きながら、俺は少し笑った。
俺なら。
屋根へ届く棒を一本作れば、それで十分だと思っていた。
必要な時に大人が使う。
それだけの道具だったからだ。
だが七人にとっては違うらしい。
「お父さん」
リシェルがこちらを見る。
「何だ?」
「長い棒一本じゃだめ?」
「駄目ではないぞ」
「でもユラ使えない」
「今はな」
「じゃあ、短いのあってもいい?」
「いいんじゃないか」
「使う人に合わせる?」
「そうなるな」
自分で答えてから、少し考えた。
子供に道具を合わせる。
当たり前といえば当たり前なのだが、俺は昨日使った棒をそのまま七人へ教えようとしていた。
「どうしたの?」
セレスが聞く。
「いや」
削っていた木を見ながら答える。
「今日は俺の方が一つ教わったかもしれん」
「何を?」
「同じ道具を全員に渡せばいいってもんじゃないな」
「お父さん、知らなかった?」
「考えてなかった」
「お父さんも分からないことある!」
フェルナが妙に嬉しそうだ。
「そりゃある」
「いっぱい?」
「いっぱいある」
「じゃあフェルナが教える!」
「何を?」
「走るの速くする方法!」
「それはたぶん俺より詳しいな」
「あと木登り!」
「それもお前の方が上手いかもしれん」
「あと――」
「危ない登り方はいらんぞ」
「まだ言ってない!」
「顔に出てる」
七人が笑った。
◇
昼前。
短い棒が完成した。
屋根へは到底届かない。
だが、ユラが両手で扱うにはちょうどいい。
練習用の布を低い枝へ結び直す。
「やってみろ」
「うん」
ユラは棒を持つ。
今度は先端が大きく揺れない。
ゆっくり近づけて。
布へ当てる。
「そこから少し上だ」
「ちょっと?」
「ちょっと」
押す。
外れない。
もう一度。
少しだけ強く。
布が落ちた。
「とれた!」
「取れたな」
ユラが満面の笑みで布を拾い上げる。
「ユラも棒できた!」
「屋根はまだ無理だけどな」
「うん」
そこは分かっているらしい。
「でも、これできる」
「ああ」
「おおきくなったら、あれ」
ユラが昨日屋根の枝を落とした長い棒を指差す。
「そうだな。その頃には使えるだろ」
「じゃあ、これつかう」
「それでいい」
できないから何もしない。
できないのに無理をする。
その二つだけではない。
今できる形に変えてみる。
そんなやり方まで、七人は少しずつ覚え始めている。
◇
昼飯のあと。
物置の壁には二本の棒が並んでいた。
長いもの。
短いもの。
リシェルが板を持ってきて、それぞれの横へ文字を書く。
『たかいところ』
『ひくいところ』
「人の名前じゃないんだな」
「みんなで使うから」
「なるほど」
「あと」
リシェルは少し考え、下へもう一行書き足した。
『むりなら ながさをかえる』
それを見たフェルナが首を傾げた。
「届かなかったら長くする?」
「長すぎたら短くする」
「ああ!」
ラグナも横から覗き込む。
「強すぎたら弱くする?」
「それも似てる」
「いっぱい持てなかったら減らす!」
「うん」
「一回でできなかったら三回!」
ミレアが小さく笑う。
「それは昨日やったね」
いつの間にか。
一つの棒の話から。
昨日までに覚えたことが、いくつもつながっていた。
俺は板を見る。
七人を見る。
そして。
「その板、残しておくか」
と言った。
「大事?」
リシェルが聞く。
「たぶん」
「じゃあ残す」
◇
その夜。
布団へ入ってしばらくした頃。
暗い部屋の中から、フェルナが声をかけてきた。
「お父さん」
「何だ?」
「明日は何覚える?」
「まだ決めてない」
「じゃあ今決めよう」
「寝ろ」
「未来のフェルナが困る!」
「明日のフェルナだろ」
「未来!」
昨日よりずいぶん近い未来だった。
すると別の寝床から、ラグナまで声を上げる。
「ラグナ、もっと強くならない練習する!」
「それ何するの?」
セレスが笑いながら聞いた。
「必要なだけ強くする!」
「それは強くならない練習じゃないよ」
「じゃあ何!?」
「力加減じゃない?」
「それ!」
さらにノエルが。
「棒、横から取るのもっと探す」
ミレアが。
「私はゆっくりやるのでいい」
リシェルが。
「明日、短い棒でも他に何ができるか調べる」
そしてユラが。
「ユラ、ぼうする」
それぞれ勝手に明日の予定を増やし始めた。
「お前ら」
俺が呼ぶと。
七人の声が止まる。
「一つ忘れてるぞ」
「なに?」
「明日になってから考えても遅くない」
少しの沈黙。
やがてフェルナが答えた。
「じゃあ明日考える!」
「それでいい」
今度こそ静かになる。
物置には。
長さの違う二本の棒が増えた。
家の中には。
また一つ。
七人なりのやり方が増えた。
同じことをする時でも。
同じ力。
同じ速さ。
同じ道具でなくていい。
必要なのは。
その時、その人に合ったやり方を探すこと。
もっとも。
七人全員がそれを完全に理解しているかは分からない。
ただ。
「お父さん……」
眠りかけたユラが、小さく呼ぶ。
「何だ?」
「ユラのぼう……しまわないでね」
「ちゃんと物置にあるよ」
「うん……」
それで安心したらしい。
すぐに寝息へ変わった。
長い棒一本で済んでいた家に。
短い棒が一本増えた。
八人で暮らすというのは。
たぶん。
こういう物が、これからも少しずつ増えていくことなのだろう。




