第61話 雨が降る前に、七人で家を守りました
七人の名前の由来を話した翌日、朝から空には薄い雲が広がっていた。
雨になるほどではないと思っていたが、山の天気は変わりやすい。昼を過ぎる頃には風向きが少し変わり、木の葉が朝とは違う音を立て始めていた。
「今日は遠くまで行かない方がよさそうだな」
俺が空を見上げながら言うと、薪を運んでいたフェルナも真似をして上を向いた。
「雨?」
「まだ分からん。ただ、降るかもしれない」
「地図に書く?」
「天気まで書き始めたら毎日地図が変わるぞ」
最近は何かあるたびに記録したがる。文字を覚えたのはいいことだが、残す必要のないものまで板へ書き始めるので、薪より板の消費が増えそうだった。
その日は家から少し上った場所にある水の流れを確認する予定だった。雨が続く前に、枝や落ち葉で細い溝が塞がれていないか見ておきたい。
「俺は上を見てくる。そんなに時間はかからない」
「フェルナも行く!」
「今日は家に残ってくれ。干してるものがあるだろ」
家の前には洗った布が干してあり、その横では保存用の草と薄く切った根菜も乾かしている。晴れが続くと思って朝から広げたものだ。
フェルナは少し残念そうにしたが、すぐ乾燥棚の方を見た。
「雨きたら入れる?」
「ああ。ただし慌てて全部抱えようとするなよ。順番を考えろ」
「分かってる!」
返事だけなら完璧だった。
「それと、屋根には登るな」
「まだ何も言ってない!」
「言う前に禁止しておく」
昨日までなら、「どうして?」と聞かれただろう。
けれどフェルナは屋根と空を見比べたあと、自分で答えた。
「雨の前、風強くなるかもしれないから?」
「それもある。濡れ始めれば滑るしな」
「じゃあ登らない」
「よし」
それだけ確認して、俺は道具を持って家を離れた。
◇
最初に変化へ気づいたのは、ノエルだった。
鶏小屋の近くで地面を眺めていた彼女は、さっきまで動いていた小さな虫が、次々に葉の裏へ隠れていくのを見つけた。
「セレス姉」
「どうしたの?」
「虫、いなくなる」
「どこか行った?」
「隠れてる。風も変わった」
セレスは顔を上げる。
空は朝より明らかに暗くなっていた。山の向こう側には灰色の雲が集まり、木々の上だけがざわざわと揺れている。
「雨、早いかも」
そう呟いた直後、家の前に干していた布が大きくはためいた。
それを見たフェルナがすぐ駆け出そうとして――途中で足を止めた。
「走らない!」
「外なら走ってもいいけど、物持ったら気をつけてね」
セレスに言われ、フェルナは「分かった!」と答えながら干し場へ向かった。
以前なら全員が思いついたものへ一斉に飛びついていただろう。
今日は違った。
「先に何する?」
リシェルが尋ねる。
七人は一度、空と家の周りを見渡した。
◇
「洗った布!」
フェルナが真っ先に言った。
「乾かしてる草も濡れたら駄目だよ」
ミレアが乾燥棚を見る。
「薪は?」
ラグナが薪置き場を指差す。
「上に屋根あるから、すぐは大丈夫」
セレスが答えると、ノエルも頷いた。
「風、こっちから。雨入るなら端だけ」
「鶏は?」
ユラが小屋を見る。
「中に入ってれば大丈夫。でも水と餌が外に出てる」
少しずつ。
やるべきことが見えてくる。
リシェルは文字を書く板を取りに行きかけたが、途中で止まった。
「今、書かなくていい」
「珍しいね」
ミレアが笑う。
「雨の方が先」
「そうだな!」
ラグナが元気よく頷いた。
役割はすぐに決まった。
セレスとフェルナが洗った布を取り込む。ミレアとノエルは乾かしていた草と根菜。ラグナは外へ出してある薪や道具を濡れない場所へ移し、ユラは鶏の餌入れを片づける。リシェルは一つずつ終わったものを確認しながら、まだ残っているものを探す。
誰が一番偉いわけでもない。
誰か一人が全部指示しているわけでもなかった。
◇
「フェルナ、そっち持って!」
「うん!」
セレスとフェルナは、長い布の両端を一枚ずつ外していく。
風が強くなっているので、一人でまとめて抱えればすぐ地面を擦る。最初の一枚でそれに気づいたフェルナは、二枚目からは勝手に外さず、セレスと呼吸を合わせるようになった。
「次、今!」
「待って、端まだ取れてない!」
「分かった!」
いつものフェルナなら、そこで「早く!」と急かしていたかもしれない。
けれど空が暗くなっていく中でも、今日はちゃんと待った。
布を家の中へ運び込むと、まだ少し湿っているものを重ねず、棚へ掛け直す。
「全部入れた?」
「あと一枚!」
「どこ?」
「あれ!」
フェルナが指差した先では、小さな布が枝に引っかかっていた。
取ろうと手を伸ばすが、少し高い。
「登ったら届く!」
「何に?」
「木!」
「風強いよ」
セレスに止められ、フェルナは悔しそうに枝を見上げた。
それから家の方へ大声を出す。
「ラグナ! ちょっと来て!」
「なにー!」
「これ取れる!?」
薪を運んでいたラグナがやってきて腕を伸ばすと、背伸びだけで布へ手が届いた。
「取れた!」
「ありがと!」
「フェルナ登らなかったの?」
「危ないから!」
誇らしげに言うフェルナを見て、セレスは少し笑った。
「ちゃんと誰か呼べたね」
「だってラグナ届く!」
「うん。それでいいんだよ」
◇
乾燥棚では、ミレアとノエルが別の問題にぶつかっていた。
乾かしていた草は軽い。
そのため風が吹くたび、束ねていないものが少しずつ動く。
「全部一度に持ったら飛ぶ」
ノエルが言う。
「籠に入れる?」
「籠、向こう」
取りに行く間にも飛ばされそうだ。
ミレアは周囲を見回し、棚の下に置いてあった空の浅い箱へ気づいた。
「これ使える」
「小さい」
「一回じゃ入らないけど、何回かなら」
「じゃあそれ」
二人は無理に全部を抱えず、箱へ入る分だけ詰めて家へ運んだ。
一度。
二度。
三度。
その途中、ノエルがふと空を見上げる。
「近い」
「雨?」
「匂い変わった」
ミレアも鼻を動かした。
「ほんとだ」
湿った土の匂いが、風に混じり始めている。
「急ぐ?」
「うん。でも落とさないくらい」
その言葉にノエルが頷く。
二人は足を速めたが、走らなかった。
◇
一方、ラグナは薪置き場の端に出ていた薪を抱えていた。
一度に持てる量なら、七人の中で一番多い。
だから最初は。
全部一気に運ぼうとした。
「んんっ……!」
腕いっぱいに薪を積み、さらに一本追加しようとする。
「ラグナ」
後ろからリシェルの声がした。
「なに?」
「それ、前見える?」
「……ちょっと」
「足元は?」
「見えない」
「じゃあ減らした方がいい」
「でも雨くる!」
「転んだらもっと遅い」
ラグナはしばらく薪とリシェルを見比べた。
以前なら「持てるから大丈夫」と押し通しただろう。
今日は二本戻した。
「これなら見える」
「うん」
「必要なだけ?」
「たぶん」
「よし!」
その量なら安定して運べる。
結局二往復になったが、一度も落とさなかった。
◇
ユラは一人で鶏小屋へ向かっていた。
外に置いてある小さな餌入れなら持てる。
水桶は重い。
そこまで分かっていたので、最初から無理に触らなかった。
「えさ、しまう」
餌入れを両手で抱え、家の軒下へ運ぶ。
戻る。
水桶を見る。
少し考える。
持ち手へ触れる。
ほんの少し持ち上げて。
すぐ戻した。
「おもい」
そこで。
近くを通ったリシェルへ声をかける。
「リシェル」
「なに?」
「これ、ひとりむり」
「ラグナ呼ぶ?」
「ラグナ、まき」
「じゃあ二人で持つ?」
「うん」
二人で左右を持つと、何とか軒下まで運べた。
「できた」
「二人で」
「うん」
ユラは満足そうだった。
自分の仕事なのだから一人でやらなければならない。
そんな考えは。
もう少しずつ。
家の中から消え始めていた。
◇
最初の雨粒が落ちたのは。
ほとんど片づけ終わった頃だった。
ぽつり。
家の前の土へ。
一滴。
「きた!」
フェルナが空を見る。
次の一滴。
さらにもう一滴。
「みんな中!」
セレスが言う。
七人が家へ入りかけた時。
ラグナが屋根を見上げた。
「あそこ!」
屋根の端に。
朝にはなかった細い枝が引っかかっている。
風で飛んできたらしい。
「取る?」
フェルナも見る。
「屋根、だめってお父さん言った」
ユラがすぐ答えた。
「でも雨降ったら詰まる?」
セレスが少し迷う。
枝は屋根そのものを壊すほどではない。
雨水の流れを多少邪魔するかもしれないが、今すぐ危険になるものでもなさそうだった。
「お父さん呼ぶ?」
ミレアが聞く。
家から少し上へ行っただけだ。
大声を出せば。
聞こえるかもしれない。
リシェルは枝と雨を見比べた。
「今取らなくてもいいなら、中で待つ」
「でもお父さん帰ってくる前に雨強くなったら?」
「その時も屋根登らない」
「じゃあどうする?」
「お父さん帰るまでそのまま」
セレスも頷いた。
「そうしよう。家の中が濡れてないなら、今すぐ取る必要ない」
フェルナは少しだけ不満そうだった。
自分たちだけで全部終わらせたかったのかもしれない。
けれど。
「じゃあ、お父さんの仕事残す」
「それでいいよ」
七人は。
屋根の枝をそのままにして。
家の中へ入った。
◇
雨脚が少し強くなった頃。
俺は家へ戻った。
「ただいま」
「お父さん!」
扉を開けた瞬間。
七人が集まってくる。
「雨早かったな。干してたもの――」
「全部入れた!」
フェルナが胸を張る。
「草も」
ミレア。
「薪も」
ラグナ。
「鶏の餌と水も」
リシェルが続ける。
「洗った布は少し湿ってるから、家の中で干し直したよ」
セレス。
「屋根、枝ある」
ノエルが外を指差す。
「屋根?」
「あれ」
見ると。
確かに端へ細い枝が引っかかっている。
「取らなかったのか?」
「登るなって言われたから」
フェルナが答える。
少しだけ。
悔しそうな顔。
「正解」
「でも全部できなかった」
「全部やる必要ないだろ」
「でも家守るって決めた」
「屋根に登らないで待ったのも、家を守ったうちだよ」
「……そう?」
「ああ。怪我したら、俺が帰ってきてから屋根だけじゃなくお前まで何とかしないといけなくなる」
「それは仕事増える」
「だろ?」
フェルナは少し考えてから。
「じゃあ、お父さん枝お願い!」
「はいよ」
◇
雨が弱くなった隙に。
俺は長い棒を使って地上から枝を落とした。
わざわざ屋根へ上るほどでもなかった。
落ちた枝を見て。
フェルナが目を丸くする。
「登らなくても取れた!」
「そういうこともある」
「フェルナでもできた?」
「棒の扱い方を知ってればな。でも今日は俺がやった方が早い」
「次教えて!」
「晴れた日に教える」
「今日じゃない?」
「雨の中で新しいこと覚える必要ないだろ」
「……また待つ」
「そう。また待つ」
最近。
七人の暮らしには。
待つことがずいぶん増えた気がする。
◇
家の中へ戻ると。
雨音が屋根いっぱいに広がっていた。
けれど。
濡れたものはほとんどない。
布は室内へ。
乾燥させていた食材も無事。
薪も。
道具も。
鶏も。
問題なし。
「よくやったな」
何気なく言うと。
七人が。
揃ってこちらを見る。
「ほんと?」
セレスが尋ねる。
「ああ。俺が帰るまで待っててもよかったけど、自分たちで見て、できることはやったんだろ?」
「うん」
「誰が何するかも?」
「みんなで決めた」
リシェル。
「俺に聞かずに?」
「聞けなかったから」
「そうだな」
「でも」
リシェルは屋根を指差した。
「分からないのは残した」
「それが一番いい」
◇
ラグナが。
少し不思議そうな顔をした。
「全部できる方がすごくない?」
「場合による」
「一人で全部」
「一人で全部やろうとして失敗するより、できる人に頼んだ方がいい時もある」
「でもラグナ、もっとできるようになりたい」
「それはいいよ」
「じゃあいっぱい覚える」
「ああ。ただ、覚えたからって何でも一人でやる必要はない」
ラグナは。
以前より。
その言葉を受け入れるまでが早かった。
「必要なだけ?」
「そう」
「またそれ!」
フェルナが笑う。
「ラグナそれ好き!」
「大事だから!」
いつものやり取りに。
雨音が重なる。
◇
雨で外の仕事ができなくなったので。
七人は今日の出来事を話し始めた。
「フェルナ、木登らなかった!」
「そこは褒めてほしいところなのか?」
「前なら登った!」
「自覚あるんだな」
「ラグナもいっぱい持たなかった!」
「何本?」
「最初より二本減らした!」
「それは偉い」
「ユラは水、ひとりでしなかった」
「持てないって分かったから?」
「うん。リシェルとした」
「それも正解だ」
ノエルは。
虫が隠れたことで。
雨が近いと気づいた話をする。
「虫が全部そうするとは限らないけど、周りを見る材料にはなるな」
「次も見る」
「それで天気決めつけるなよ」
「空も見る」
「ならいい」
ミレアは。
箱を使って草を少しずつ運んだことを話した。
「一回で全部できなかった」
「別に一回でやる必要ないだろ」
「うん。三回ならできた」
「できないやり方に無理に合わせるより、その方がいい」
セレスは。
そんな妹たちの話を聞きながら。
少し嬉しそうにしていた。
◇
「セレスは?」
俺が聞く。
「何が?」
「今日、自分でやったこと」
「私?」
「ああ」
セレスはすぐには答えなかった。
「みんなのこと見てた」
「それ以外」
「洗った布をフェルナと入れた」
「ああ」
「あと……」
考える。
「屋根の枝を見た時、すぐ自分で何とかしなきゃって思った」
「それで?」
「でも、待った」
「じゃあそれだな」
「何が?」
「今日できたこと」
「何もしなかったのに?」
「危ないことをしないって決めただろ」
セレスは。
少し驚いたように。
屋根を見上げる。
「何もしないのも、することになる?」
「必要ならな」
「……難しい」
「大人でも難しいよ」
そう答えると。
セレスは少しだけ笑った。
◇
夕方になっても。
雨は続いた。
家の中で夕飯を作り。
七人で食卓を囲む。
外は暗く。
屋根から落ちる水の音が途切れない。
それでも。
家の中は乾いている。
「今日」
ユラが。
匙を持ったまま言った。
「おうち、だいじょうぶだった」
「ああ」
「おとうさん、いなかった」
「少しの間な」
「でも、みんな、いた」
「ああ」
「だから、だいじょうぶ?」
俺は少し考えた。
「それもあるな」
家が家である理由。
昨日。
リシェルが地図へ書いた。
『かえるところ』
帰る場所が。
俺一人で作られているわけではないことを。
今日。
七人自身が。
少し証明してしまったらしい。
◇
夜。
雨音を聞きながら。
それぞれの寝床へ入る。
ノエルは壁際で。
しばらく外の音を聞いていた。
「今日、鳥いない」
「雨だからな」
「虫も少ない」
「明日晴れたら出てくるだろ」
「うん」
少し離れた場所から。
フェルナの声。
「お父さん」
「何だ?」
「今日、七人だけで家守った?」
「まあな」
「強い?」
「何でそこへ行く」
「ラグナが言いそうだから先に聞いた!」
「フェルナ!」
暗闇の中から。
ラグナの抗議が飛んできた。
「やっぱり言うつもりだった!」
「家守ったから強い!」
「強さだけじゃないって何度も話してるだろ」
「じゃあすごい?」
「それならいい」
「七人すごい!」
フェルナが満足そうに言う。
◇
少しして。
ユラが。
隣から小さく呼んだ。
「おとうさん」
「ん?」
「つぎ、あめきたら?」
「今日みたいにすればいい」
「おとうさん、いる?」
「いる時もあるし、近くにいない時もある」
「そのときは?」
「できることをする。分からなければ待つ。危なければ呼ぶ」
「みんなで?」
「ああ」
「じゃあ、だいじょうぶ」
それだけ言うと。
ユラは安心したように目を閉じた。
◇
俺がいなくても。
七人だけで。
少しの間なら。
家を回せるようになってきた。
それは。
以前なら。
心配の方が大きかったはずなのに。
今は。
少し違う。
できることが増えたことも嬉しい。
でも。
それ以上に。
できないことへ。
無理に手を出さなかったことが。
嬉しかった。
自分で考える。
誰かと分ける。
助けを呼ぶ。
待つ。
全部。
同じくらい大事だ。
「お父さん……」
フェルナの眠そうな声。
「今度は何だ」
「明日晴れたら……」
「ああ」
「屋根の棒……教えて……」
「覚えてたらな」
「板……」
「今から書くなよ」
「……未来のフェルナ……」
「寝ろ」
返事はなかった。
雨が降っても。
明日の予定を増やすことだけは。
誰に教わらなくても。
相変わらず上手だった。




