第60話 七つの名前には、七つの「最初」がありました
七人を見つけた場所へ行った翌朝。
俺が起きると、食卓の上に七枚の小さな板が並んでいた。
そこに書かれているのは、見慣れた名前だった。
『せれす』
『らぐな』
『ふぇるな』
『みれあ』
『のえる』
『ゆら』
『りしぇる』
昨日使った地図も、その隣に置かれている。
七つの「はじまり」と、家まで続く道。
どうやら昨日の続きらしい。
「朝から何してるんだ?」
声をかけると、一番早く起きていたリシェルが、自分の名前が書かれた板を持ち上げた。
「これ」
「リシェルだな」
「うん。お父さんがつけた」
「ああ」
「なんで?」
そこでようやく質問の意味が分かった。
「何でリシェルって名前にしたか?」
「うん」
今まで何度か、名前について話したことはある。
七人とも、俺が見つけた時には名前を持っていなかった。少なくとも、それと分かるものは何も残されていなかったから、俺が一人ずつ名前をつけた。
そのこと自体は全員知っている。
ただ。
どうしてその名前になったのか。
そこまでは、まだ話したことがなかった。
「朝飯の前にする話か?」
「聞きたい」
「飯食いながらじゃ駄目か?」
「みんな起こす?」
「どうせ聞いたら全員起きるだろ」
案の定だった。
◇
「なんでフェルナはフェルナ!?」
朝飯が始まってすぐ。
まだ俺がパンを一口も食べていないうちに、フェルナが身を乗り出してきた。
「順番」
「誰から!?」
「最初に名前つけたならセレスじゃない?」
セレスが少し照れたように自分を指差す。
「七人を見つけた順番と、名前をつけた順番は大体同じだな。最初はセレスだ」
「やった」
「何が?」
「一番最初」
「また順位にするな」
セレス自身は笑っていたが、フェルナはすでに自分が何番目になるのか数え始めていた。
「でも先に言っておくぞ。大した理由じゃない名前もあるからな」
七人の視線が集まる。
「え?」
フェルナが明らかに期待を裏切られた顔をした。
「もっとすごいのじゃないの!?」
「どんなのを期待してるんだ」
「生まれた時に山が光ったとか!」
「光ってない」
「空から何か降ってきたとか!」
「降ってない」
「すっごい鳥が鳴いた!」
「普通の鳥なら鳴いてただろうな」
フェルナは残念そうだった。
「じゃあ適当?」
「適当ではない」
「大した理由じゃないのに?」
「名前なんて、つける時には正解が分からないんだよ。本人が大きくなってから似合うかどうかなんて、もっと分からない」
当時の俺にあったのは。
目の前にいる小さな子と。
これから何度も呼ぶことになるだろうという感覚だけだった。
「だから、その時のお前を見て、これがいいと思った名前にした。それだけだ」
リシェルは、納得したような納得していないような顔で板を見ている。
「じゃあ今と関係ない?」
「あるやつもいるし、偶然みたいなやつもいる」
「聞く!」
フェルナが即答した。
「だから食いながら聞け」
◇
最初はセレスだった。
「お前を連れて帰った日のことは昨日話しただろ」
「うん。ずっと泣いてた」
「家に着いてからも、しばらく俺の服を離さなかった」
セレスが少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「その頃の家には、今みたいに子ども用のものなんて何もなかった。寝かせる場所を作って、食べられるものを考えて、それだけで一日終わった」
「名前はすぐ?」
「その日のうちには決めてない」
「え?」
セレスが驚く。
「じゃあ何て呼んでたの?」
「おい、とか」
「ひどい」
「赤ん坊相手だぞ。返事もしない」
妹たちが笑い始める。
「セレス姉、『おい』だった!」
「名前じゃない!」
「俺もこのままじゃ困ると思ってな。次の日だったか、その次だったか……寝てる顔見ながら考えた」
「それでセレス?」
「ああ。静かな響きが似合うと思ったんだ」
「静か?」
「見つけた時も、大声じゃなく泣いてただろ。家へ来てからも、俺の動きをずっと見てた。小さいのに妙に我慢してるような顔をするから、柔らかくて落ち着いた名前がいいと思った」
今のセレスを見る。
妹たちを気にして。
自分のことを後回しにして。
それでも最近は、少しずつ自分自身を見ることも覚えてきた。
「今も似合うと思うぞ」
セレスは少しだけ頬を赤くし、自分の板を胸元へ寄せた。
「……じゃあ、この名前好き」
「今まで嫌いだったのか?」
「嫌いじゃなかった。でも、もっと好きになった」
◇
「次ラグナ!」
本人が待ちきれずに手を挙げる。
「お前は早かった」
「すぐ!?」
「ああ。声が大きかったからな」
「やっぱり!」
「何で喜ぶんだ」
昨日、自分がセレスより大きな声で泣いていたと聞いてから、そこを妙に誇っている。
「家へ連れて帰っても元気に泣くし、足も動かすし、抱いてもじっとしてない。丈夫そうな響きの名前がいいと思って、ラグナにした」
「強い名前?」
「俺の中ではな」
ラグナの目が輝く。
「最初から強かった!」
「だから赤ん坊の頃の話だって」
「でもお父さんが強い名前にした!」
「丈夫に育ってほしいとは思ったよ」
「育った!」
胸を張る。
「まだ育ってる途中だ」
「もっと強くなる!」
「そこは昔から変わらないな」
ただ。
名前をつけた時。
今のように力の使い方を考える子になるとは思っていなかった。
単純に。
生きる力がありそうな声だと思っただけだ。
「力だけじゃなくなったけどな」
「何が?」
「今のラグナは、強くしない方がいい時も考えるだろ」
「必要なだけ!」
「そういうところも含めて、今のラグナだ」
ラグナは少し考えたあと。
「じゃあ名前より強くなった?」
「比較できるものじゃない」
「また!」
◇
フェルナは。
自分の番になる前から前のめりだった。
「フェルナは!? 絶対すごいやつ!」
「お前は足だ」
「足!?」
予想外だったらしい。
「昨日話しただろ。抱いた時もずっと足を動かしてた」
「うん!」
「寝かせても、起きたらまた動く。布を蹴る。俺を蹴る。とにかく落ち着かない」
「今と同じ!」
「本当にな」
七人の中で。
一番、赤ん坊の頃の印象と今が繋がりやすいのはフェルナかもしれない。
「フェルナって名前は、呼んだ時に軽くて、前へ転がる感じがしたんだ」
「転がる?」
「言葉がな。フェルナ、って短く呼べるだろ」
「フェルナ!」
「自分で試すな」
「速い!」
「名前に速さはない」
「ある!」
本人があると言うなら。
もうそれでいい気もしてきた。
「明るくて、動き回るお前に合いそうだと思った。それが理由だ」
「じゃあフェルナ、昔からフェルナ!」
「名前つけてからはな」
「今も!」
「ああ」
「未来も!」
「それはたぶんな」
フェルナは満足したように、自分の名前の板を何度も眺め始めた。
◇
ミレアの番になると。
少し空気が落ち着いた。
「私は静かだった?」
「ああ。見つけた時も眠ってたし、家へ来てからも比較的よく寝た」
「じゃあ寝る名前?」
「そんな名前のつけ方はしてない」
ミレアが笑う。
「お前は、起きてる時も静かだったんだよ。声が小さいって意味じゃなくて、抱いてると落ち着く感じがした」
「お父さんが?」
「ああ」
「赤ちゃんなのに?」
「赤ん坊だからこそ、ずっと気を張ってたんだと思う。ちゃんと息してるか、食べてるか、寒くないかって。でもお前は抱いてると、妙にこっちまで静かになった」
ミレアは目を少し丸くした。
「今と同じ?」
「一人で静かにしてるのが好きなところは、少しな」
「みんなといるのも好き」
「それも今のお前だ」
名前を決めた時には。
そんなことまで考えていない。
ただ。
柔らかく。
呼んだ時に耳へ残る名前がいいと思った。
「ミレアって呼んだら、一番しっくりきた」
「何個か考えた?」
「いくつかな」
「他の名前は?」
「忘れた」
「ええ」
「採用しなかった名前まで何年も覚えてられるか」
ミレアは少し残念そうだったが、すぐに自分の板を撫でた。
「じゃあ、残ったのがミレア」
「そういうことだ」
「それならいい」
◇
ノエルは。
自分の番になると。
最初に聞いた。
「目?」
「よく分かったな」
「昨日、見てたって言った」
「ああ。お前は本当によく見てた」
小さな顔。
まだ何も分からないはずなのに。
俺が動けば目で追い。
火が揺れれば火を見る。
窓から光が入れば、そちらへ顔を向ける。
「だから、見る子になるかもしれないって?」
「そこまでは思ってない。ただ、目が印象に残った」
「名前と目、どう繋がる?」
「直接は繋がらない」
「じゃあなんでノエル?」
「呼びやすくて、少し澄んだ感じの音だったから」
「澄んだ?」
「俺の中ではな」
ノエルはしばらく自分の名前を小さく口にしていた。
「ノエル」
「ああ」
「見る感じする?」
「今はお前の名前だから、お前しか浮かばない」
「じゃあ最初と違う?」
「名前をつけた時は音を選んだ。今は、その音を聞けばお前が出てくる」
ノエルは。
その答えを。
妙に気に入ったらしい。
「名前の意味、あとから増えた?」
「そうとも言えるな」
「じゃあこれも書く」
すぐ板を持ってくる。
『なまえは あとから ふえる』
「言葉足りてなくないか?」
「分かる」
「本人にしか分からない板が増えてきたな」
◇
ユラは。
自分の名前の板を両手で持ちながら。
ずっと順番を待っていた。
「ユラは?」
「お前は短い名前にしたかった」
「なんで?」
「呼ぶ回数が多かったから」
「いっぱい?」
「かなり」
ユラは。
七人の中でも。
小さい頃から人の気配を求めることが多かった。
一人にすると泣く。
抱けば落ち着く。
寝かせる。
離れる。
また泣く。
「ユラ、ユラって何度も呼ぶことになりそうだったから、短くて柔らかい名前がいいと思った」
「ほんとにいっぱい呼んだ?」
「ああ」
「いまも?」
「今も結構呼んでるな」
「じゃあいい」
「何が?」
「いっぱい呼ぶ名前」
「そういう名前じゃないんだけどな」
ユラには。
それで十分らしい。
「おとうさんがつけた?」
「ああ」
「わたしの?」
「ああ」
「みんなとちがう?」
「七人全部違う」
ユラは。
自分の名前を見て。
それから。
姉たち六人の板を見る。
「でも、ぜんぶおとうさん」
「ああ」
「じゃあ、いっしょ」
「そこは同じだな」
満足そうに笑った。
◇
最後はリシェル。
「お前は一番時間かかった」
「一番?」
フェルナが反応する。
「時間の話だ」
「どれくらい!?」
「正確には覚えてないけど、何日か考えた」
リシェルは少し驚いた。
「どうして?」
「お前、ずっと俺を見るんだよ」
「昨日も聞いた」
「ああ。泣いても抱けばすぐ静かになる。でも、そのあとずっと見てくる」
「怖かった?」
「少し」
「え」
「赤ん坊に無言でじっと見られ続けてみろ。何考えてるか分からなくて怖いぞ」
フェルナが笑い。
ラグナまで真似して、無言で俺を見つめ始める。
「やめろ。二人でやるともっと怖い」
リシェルだけは真面目に聞いていた。
「それで、決まらなかった?」
「適当に呼んだら、お前に『違う』って顔されそうな気がしてな」
「赤ちゃんなのに?」
「俺の気分の問題だ」
いくつか名前を考え。
呼んでみて。
違う気がして。
また考えた。
そうして最後に残ったのが。
リシェルだった。
「理由は?」
「一番、考える余白がある音に感じた」
「余白?」
「全部決まってない感じだ」
「名前なのに?」
「ああ。何になるか分からないお前に、決めつけすぎない名前がいいと思った」
今思えば。
妙な選び方だ。
けれど。
分からないことを分からないまま抱え。
答えを急がず。
考え続ける今のリシェルを見ると。
あながち。
外してはいなかったのかもしれない。
「今は?」
リシェルが聞く。
「似合ってる?」
「ああ」
「どこが?」
「説明すると長い」
「聞く」
「朝飯冷める」
「あとで」
「覚えてたらな」
すると即座に板へ、
『あとで おとうさんに きく』
と書き始めた。
「そうやって逃げ道塞ぐのやめないか?」
◇
朝飯が終わっても。
名前の話は終わらなかった。
「お父さん」
セレスが七枚の板を並べる。
「名前つける時、困らなかった?」
「困ったぞ」
「七回?」
「七回」
「同じ名前じゃ駄目だった?」
「呼んだ時に全員振り向くだろ」
「それ面白い!」
フェルナは喜んだ。
「フェルナ!って呼んだら七人フェルナ!」
「絶対嫌だ」
「なんで!?」
「誰を呼んでるか分からない」
「じゃあフェルナ一号、二号――」
「もっと嫌だ」
ラグナが笑いながら、「ラグナ一号は強そう」と言い始める。
「お前まで乗るな」
結局。
名前は。
区別するためにも必要だった。
でも。
七人を育ててきた今なら。
それだけではないと分かる。
◇
「名前って」
ミレアが。
自分の板を見ながら言った。
「最初はお父さんが決めたんだよね」
「ああ」
「今は?」
「何が?」
「今のミレアがどんな人かは、お父さんが決めてない」
「当たり前だ」
「じゃあ名前も」
少し考え。
「もらった時と、今で違う?」
昨日の地図の話に。
少し似ている。
同じ場所でも。
七人が見れば。
それぞれ違うものが見える。
名前も。
つけた日の理由だけで。
ずっと決まるものではないのだろう。
「俺がつけた時は、ただの名前だった」
「今は?」
「セレスって聞けばセレスが浮かぶ。ラグナならラグナ。七人ともそうだ」
「いっぱいある?」
ノエル。
「何が?」
「名前の中」
「ああ。今までのお前たち全部な」
泣いたこと。
笑ったこと。
喧嘩したこと。
失敗したこと。
できるようになったこと。
七人で食べた飯。
雨の日。
滝。
地図。
曲がった縫い目。
未来への手紙。
「名前をつけた時には、そんなもの一つも入ってなかった。でも今は入ってる」
「見えないのに?」
ユラ。
「見えなくてもな」
◇
リシェルは。
その日の午後まで。
何度も名前の板を見ていた。
そして。
文字の棚に。
新しい大きな板を一枚加えた。
そこには。
七人の名前。
その下へ。
短い言葉が並んでいる。
『せれす しずか』
『らぐな じょうぶ』
『ふぇるな うごく』
『みれあ やわらかい』
『のえる みる』
『ゆら いっぱいよぶ』
『りしぇる まだわからない』
「最後だけ雑じゃない?」
セレスが笑う。
「お父さん言った」
「『まだ分からない』とは言ったけどな」
「でも」
リシェルは。
その横へ。
さらに書いた。
『いまは もっといっぱい』
「これで?」
「ああ。それならいい」
◇
夕方。
フェルナは。
自分の名前を大きく書いた板を持って外を走っていた。
「何してる?」
「速い名前か試してる!」
「どうやって」
「走りながら呼ぶ!」
「意味あるのか?」
「フェルナ!」
走る。
「フェルナ!」
また走る。
「ほら速い!」
「お前が速いだけだ!」
ラグナも参加しようとしたが。
「じゃあラグナは強い!」
と言って薪を持ち上げたところで。
話がおかしくなってきたので止めた。
◇
夜。
灯りを消したあと。
ユラが隣の寝床から、小さな声で呼んだ。
「おとうさん」
「ん?」
「ユラ」
「ああ」
「よんで」
「ユラ」
「もういっかい」
「ユラ」
「もういっかい」
「何回やるんだ」
「いっぱいよぶ名前」
朝の話を。
まだ覚えていたらしい。
「ユラ」
「うん」
「ユラ」
「うん」
「ユラ」
「いる」
「分かったよ」
暗闇の向こうで。
小さく笑う気配がした。
◇
「お父さん」
今度はセレス。
「セレス」
「まだ名前言ってないよ」
「今日はそういう流れだろ」
「じゃあ……呼んで」
「セレス」
「うん」
少し離れた場所から。
「ラグナも!」
「ラグナ」
「いる!」
「フェルナ!」
「自分で言うな。フェルナ」
「はい!」
「ミレア」
「うん」
「ノエル」
「いる」
「リシェル」
「うん」
最後に。
ユラが。
「おとうさん」
「今呼んだだろ」
「ちがう」
「何が?」
「おとうさんの名前」
「ああ」
そういうことか。
「アルド」
自分で自分の名前を言うと。
妙に変な感じがする。
すると。
七人が。
今度は順番もなく。
「アルド」
「アルド!」
「お父さん、アルド!」
「アルドおとうさん」
好き勝手に呼び始めた。
「やめろ。落ち着かない」
「なんで?」
「お前らに名前で呼ばれるの慣れてないんだよ」
「じゃあ未来まで呼んだら慣れる!」
「慣れなくていい!」
◇
七人の名前は。
俺がつけた。
でも。
今ではもう。
俺だけのものではない。
七人が。
毎日。
自分の名前で笑い。
怒り。
考え。
失敗して。
大きくなっていく。
そのたび。
最初は何も入っていなかった名前の中へ。
少しずつ。
その子自身が増えていく。
だから。
もし今。
もう一度。
七人へ名前をつけろと言われても。
たぶん。
同じ名前しか選べない。
「お父さん……」
眠そうなフェルナの声。
「今度は何だ?」
「フェルナ……いい名前?」
「ああ」
「一番?」
「最後までそれ聞くのか」
「…………」
返事がない。
もう寝たらしい。
「七人とも、いい名前だよ」
小さく言う。
聞こえたかどうかは。
分からない。
ただ。
隣から。
ユラの。
「うん」
という声だけが。
返ってきた。




