第58話 同じ山なのに、七人の地図は全部違いました
ノエルが寝坊した翌日。
朝の仕事を終えた俺は、家の前で薪を割りながら、妙に静かなことに気づいた。
フェルナとラグナがいるのに静か。
それだけで少し警戒した方がいい。
「……何してる?」
家の中を覗くと、七人が床を囲んでいた。
中心にいるのはリシェルで、その前には少し大きな木の板が置かれている。覚えた文字を書くための細い炭も何本か並べられていた。
「地図」
リシェルが答えた。
「地図?」
「お父さん、前に描いた」
「いつの話だ?」
「雨のあと。畑の水がどっちに流れるか考えた時」
言われて思い出した。
畑の縁へ石を置く場所を決めるため、簡単な見取り図を描いたことがある。家と畑、沢、それから斜面の位置を線で示しただけのものだったが、リシェルには随分印象に残っていたらしい。
「同じの作るのか?」
「もっといっぱい」
板を見ると、真ん中にはすでに四角い家が描かれている。その横には畑らしい区画と、小さな鶏の絵まであった。
「山も書く!」
フェルナが炭を持ったまま割り込んでくる。
「山の中に住んでるんだから、全部描いたら板が足りないぞ」
「じゃあ大きい板!」
「そういう問題じゃない」
「滝は絶対!」
「それは分かった」
フェルナが以前俺と二人で行った小さな滝を気に入っていることくらい、もう十分知っている。
するとノエルが静かに口を挟んだ。
「沢も」
「沢は必要だな」
「青い羽見つけたところも」
「それは必要か?」
「ノエルにはいる」
そう言われると、否定できない。
「じゃあ、自分たちが覚えてる場所を一回出してみるか」
俺が薪割りを中断して中へ入ると、七人の表情が一斉に明るくなった。
◇
最初に描いたのは、家だった。
そこから畑、鶏小屋、薪置き場、沢へ続く道。
この辺りまでは七人とも意見が一致している。
問題は、その先だった。
「滝はこっち!」
フェルナが板の右上を指差す。
「違う」
リシェルが即座に否定した。
「なんで!?」
「家から沢へ行って、そのあと曲がるから、ここ」
「でも歩いた時こっちだった!」
「どっち向いて歩いてた?」
「前!」
「そういう意味じゃない」
早くも揉め始めた。
俺は二人の間に板を引き寄せる。
「地図は、自分が向いている方向で右左が変わるとややこしい。最初に上をどっちにするか決めるぞ」
「上?」
ユラが首を傾げる。
「この板の上側が、山のどっち側を表すかってことだ」
七人は揃って板を見る。
当然だが。
板に。
本当の上下以外の意味はない。
「太陽が朝出る方をこっちにするか」
俺が一方を指すと、ノエルがすぐ家の窓を見る。
「朝、こっち明るい」
「ああ。じゃあそっちを基準にする」
基準が決まると、リシェルは改めて家と沢の位置を確認し、フェルナの滝を描き直した。
「……こっち?」
「ああ。これなら近い」
「さっきフェルナ違った?」
「頭の中では合ってたのかもしれない。ただ、板へ置く場所が違った」
「難しい!」
「だから地図を作るんだよ」
◇
セレスは、家の周りから描き始めた。
「ここ、雨の時滑る」
「ああ」
「それから、この辺はフェルナが走ると危ない」
「何でフェルナだけ!?」
「一番走るから」
「ラグナも走る!」
「私は止まれる!」
「フェルナも止まれる!」
「この前水桶にぶつかりそうだったでしょ」
「止まった!」
「セレス」
俺が笑いながら止める。
「地図に『フェルナ危険』って書くなよ」
「書かないよ」
「じゃあ何を書く?」
「滑りやすいところ」
セレスは小さな印をつけ、その横へ『あめ すべる』と書いた。
「お姉ちゃんらしい地図だな」
「そう?」
「危ない場所ばっかり見てる」
そう言うと、セレスは少し困ったように笑った。
「またみんなのこと見すぎ?」
「悪いとは言ってない。役に立つ」
「じゃあ残していい?」
「もちろん」
ただし。
そのすぐ横へ。
俺は炭で小さな花を一つ描いた。
「何?」
「そこ、春になると花が多いだろ」
「あ……」
「危ない場所だけじゃない」
「うん」
セレスはその花を見てから、もう一つ自分でも描き足した。
◇
ラグナの地図に増えたのは。
岩だった。
「ここ大きい!」
「あるな」
「こっちはもっと大きい!」
「ある」
「これ登れる!」
「登るなって言ったやつだろ」
「今は登らない!」
「今は?」
「大きくなったら!」
「その時また考えろ」
ラグナは山道の横に大きな岩をいくつも描いていく。その一つ一つに、自分なりの違いがあるらしい。
「この岩、持てる?」
「無理だ」
「未来のラグナなら?」
「岩の大きさによるけど、たぶん無理なものは無理だ」
「じゃあもっと強くなる!」
地図を見ても結局そこへ戻る。
だが。
よく見ると。
一番大きな岩の横に。
『あめのあと いかない』
と書いてあった。
「これ、覚えてたのか」
「滑るから」
「そうだな」
「強くても滑る?」
「滑る」
「じゃあ行かない」
力があれば何でもどうにかできると思っていた頃より。
随分と。
まともになった。
◇
ミレアが描いたのは、場所そのものより。
そこで何をしたかだった。
小さな滝の近くには、『ふたりで あるいた』。
家の裏には、『しずか』。
少し開けた場所には、『かぜ』。
「地図って、こういうのも書く?」
「好きにすればいい。自分たちで使う地図だろ」
「じゃあ残す」
「ここは?」
俺が『かぜ』の文字を指差す。
「前に一人で行ったところ」
「ああ。葉っぱが揺れるの見てた場所か」
「うん」
その時。
フェルナが覗き込んだ。
「フェルナも今度行く!」
「一緒に行く時はね」
「今日!」
「今日は地図作ってるでしょ」
「じゃあ明日!」
「それならいいよ」
以前なら。
ミレアが一人でいた場所と聞いた時点で、自分もすぐ入り込もうとしたかもしれない。
今は。
「一緒に行く時」。
その言葉を。
ちゃんと待てている。
◇
ノエルの番になると。
地図が急に細かくなった。
「ここ蟻」
「場所まで覚えてるのか?」
「大きい巣」
「それから?」
「ここトカゲ」
「いつもいるわけじゃないぞ」
「見つけたところ」
「なるほど」
「ここ、白い石。ここ青い羽。ここ木に傷ある」
俺ですら。
言われなければ思い出せないものが次々出てくる。
フェルナは途中から呆れたような顔になっていた。
「そんなの全部書いたらいっぱいになる!」
「うん」
「大事?」
「ノエルは」
「…………」
フェルナは以前。
似たことをノエルへ聞いている。
そして。
その答えも。
もう知っている。
「じゃあ書いていい」
「うん」
「でもフェルナの滝消さないでね」
「消さない」
それで話は終わった。
◇
ユラは。
しばらく何も描かなかった。
「思いつかない?」
「ある」
「じゃあ?」
炭を持ったまま。
家の絵を見ている。
「ここ」
「家?」
「うん」
「もう描いてあるぞ」
「もっと」
ユラは家の四角を。
少しだけ。
太くなぞった。
そしてその中へ。
小さな丸を。
八つ描く。
「八人?」
「うん」
「地図なのに家の中まで描くのか」
「ここ、いちばんいる」
「まあ、そうだな」
「おとうさんも」
「ああ」
「みんなも」
「ああ」
「だから、ここだいじ」
ユラにとって。
山の地図を作っても。
一番最初に見るのは。
結局。
家らしい。
フェルナが横から覗き込み。
「じゃあフェルナも家にいる!」
丸を一つ指差す。
「どれ?」
「これ!」
「決まってない」
「じゃあこれフェルナ!」
「名前書く?」
リシェル。
「書く!」
「八個全部?」
「書く!」
そこから。
家の中に。
八人の名前まで入り始めた。
「地図がどんどん細かくなるな」
「いい!」
ユラは嬉しそうだった。
◇
最後まで。
リシェルは。
全体を見ていた。
「何も足さないのか?」
「足す」
「何を?」
「道」
「もう描いてあるだろ」
「途中まで」
リシェルは。
家から。
畑。
沢。
滝。
開けた場所。
岩。
それぞれを繋ぐ線を見比べる。
「ここ、繋がる?」
「ああ。少し遠回りになるけどな」
「じゃあ」
新しい線を一本。
慎重に。
引く。
「こっちから滝にも行ける」
「行ける。ただし雨の後はやめた方がいい」
「ラグナの印ある」
「そうだな」
「じゃあ」
線の途中へ。
『あめ だめ』
と書く。
少し考えてから。
その下へ。
『なんで だめ?』
さらに。
『すべる』
と足した。
「前に作った板の続きか」
「理由も書く」
「いいと思う」
◇
七人で一枚の地図を作る。
最初は。
もっと簡単に終わると思っていた。
でも。
昼を過ぎても。
まだ終わらない。
「ここも!」
「それも!」
「これ忘れてる!」
同じ山に住んでいるのに。
見ているものが。
全然違う。
セレスは危ない場所とみんなが歩く道を見ている。
ラグナは岩と力を使える場所。
フェルナは遊べる場所。
ミレアは静かだった場所や、思い出。
ノエルは小さな生き物や、誰も気づかない印。
ユラは家。
リシェルは全部をどう繋げるか。
誰か一人だけで作ったら。
こんな地図には。
絶対ならなかった。
◇
「お父さん」
セレスが聞く。
「お父さんのも描いて」
「俺の?」
「お父さんが大事だと思うところ」
「もう大体出てるぞ」
「一個くらいない?」
七人。
期待するように俺を見る。
「そうだな……」
しばらく板を眺める。
家。
畑。
沢。
滝。
道。
岩。
風が通る場所。
虫の巣。
危険な斜面。
七人の思い出。
ほとんど。
出ている。
それでも。
一つだけ。
まだなかった。
「ここ」
家から少し離れた場所へ。
小さな丸を描く。
「何?」
フェルナ。
「七人を最初に見つけた辺りだ」
その瞬間。
七人が。
静かになった。
「ここ?」
セレスが聞く。
「正確には、それぞれ少し違う。近い場所ってだけだ」
「わたしたち?」
ユラ。
「ああ」
「拾った?」
「ああ」
今まで。
場所そのものを。
細かく教えたことはなかった。
ただ。
山で見つけた。
それだけ。
「行ける?」
ラグナが尋ねる。
「行けるぞ」
「今日?」
「もう遅い。近いうちにな」
フェルナが。
珍しく。
すぐ「行く!」とは言わなかった。
地図の中の。
小さな丸を見ている。
「そこから」
ミレアが。
家までの距離を見る。
「お父さんが連れてきた?」
「ああ」
「一人ずつ?」
「そうだ」
「重かった?」
「小さかったからな」
「泣いた?」
「泣いたやつもいる」
「誰?」
「それはまた行った時に話す」
「覚えてる?」
「かなり」
七人の視線が。
今度は俺へ集まる。
「お父さんだけ?」
リシェル。
「何が?」
「その時の私たち知ってる」
「ああ。お前たちは覚えてないからな」
「じゃあ」
リシェルは。
その場所から家まで。
細い線を引いた。
「最初の道」
「…………」
「七人が家に来た道」
「そうなるな」
◇
フェルナが。
ようやく炭を持った。
「ここ」
その線の横へ。
ゆっくり。
文字を書く。
『おとうさんと かえった』
「お前は覚えてないだろ」
「でも帰った!」
「まあな」
「七人とも!」
「そうだな」
すると。
ユラが。
家の周りを。
もう一度。
太くなぞった。
「ここに?」
「ああ」
「きた?」
「ああ」
「じゃあ」
嬉しそうに。
「よかった」
何が。
とは聞かなかった。
◇
夕方。
ようやく地図らしいものが完成した。
正確な距離も。
方角も。
かなり怪しい。
絵の大きさもばらばらで。
フェルナの滝は実物以上に大きく。
ラグナの岩も妙に目立ち。
ノエルの小さな印は。
そこら中にある。
家だけは。
ユラが何度も線を重ねたせいで。
一番濃かった。
「これ、地図?」
フェルナが聞く。
「地図だよ」
「お父さんのよりごちゃごちゃ!」
「俺が前に描いたのは、畑の水を見るためだけだったからな」
「こっちの方がすごい?」
「比べるものじゃない」
「また!」
「目的が違うんだよ」
リシェルが頷く。
「お父さんのは水を見る地図。これは」
「これは?」
七人。
考える。
「みんなの!」
フェルナ。
「山の」
ノエル。
「家の周り」
セレス。
「思い出もある」
ミレア。
「強い岩も!」
ラグナ。
「おうち」
ユラ。
最後に。
リシェルがまとめる。
「八人が知ってる場所の地図」
「それでいいんじゃないか」
◇
地図は。
文字の棚の横へ置くことにした。
ただし。
まだ完成ではない。
「また見つけたら増やす」
ノエル。
「新しい道も」
リシェル。
「もっと大きい岩!」
ラグナ。
「滝もう一個!」
フェルナ。
「滝は勝手に増えないぞ」
「探す!」
「遠くへ行くなよ」
「言ってから!」
「それならいい」
少し前まで。
「勝手に遠くへ行かない」
と何度も教えていた。
今は。
どこへ行きたいか。
何を見るか。
戻る道はどこか。
そんなことまで。
七人自身が考え始めている。
◇
夜。
寝床へ入る前。
ユラが地図の前に立っていた。
「まだ見てるのか?」
「うん」
「何見る?」
「ここ」
やっぱり。
家。
八つの丸。
「みんないる?」
「今?」
「うん」
「いるぞ」
ユラは。
寝床を見る。
セレス。
ラグナ。
フェルナ。
ミレア。
ノエル。
リシェル。
俺。
全員確認してから。
もう一度地図を見る。
「ほんとだ」
「地図見なくても分かるだろ」
「でも、ここにもいる」
「絵だけどな」
「うん」
満足したらしい。
◇
灯りを落としたあと。
フェルナの声がした。
「お父さん」
「何だ?」
「山の外も地図ある?」
一瞬。
少しだけ。
考えた。
「あるぞ」
「すっごい広い?」
「ああ。この板じゃ全然足りないくらいな」
「山より?」
「ずっと」
「滝いっぱい?」
「いっぱいあるだろうな」
「岩は?」
「それも」
「虫」
ノエルまで参加する。
「知らないのいる?」
「たくさん」
少し離れた場所から。
リシェルが聞く。
「お父さんは知ってる?」
「全部は知らない」
「大人でも?」
「ああ」
「じゃあ地図見ても?」
「知らない場所はいっぱいある」
しばらく。
静かになる。
外の世界。
今の七人には。
まだ。
地図の外側にある言葉でしかない。
それでいい。
「いつか見る?」
ミレアが聞いた。
「見たくなったらな」
「今じゃなくて?」
「ああ。今はこの地図だけでも、まだ増やせる場所がいっぱいあるだろ」
するとフェルナが。
すぐ元気を取り戻した。
「じゃあ明日増やす!」
「朝の仕事してからな」
「滝!」
「近いところだけだぞ」
「分かってる!」
◇
地図には。
端がある。
でも。
七人の暮らしが。
そこで終わっているわけではない。
まだ描いていないだけ。
まだ知らないだけ。
今は。
この家と。
この山と。
八人で歩ける範囲を。
少しずつ。
知っていけばいい。
同じ場所を歩いても。
七人が見つけるものは。
きっと違う。
だから。
一枚の地図は。
これからも。
何度でも。
賑やかになっていく。
「お父さん……」
もう寝たと思っていたフェルナが。
眠そうな声を出した。
「今度は何だ?」
「地図……」
「ああ」
「二階も書く……」
「まだないものを書くな」
「未来……」
「便利に使うな」
「いつか……」
「作るとも言ってないぞ」
返事はなかった。
どうやら。
地図の中だけなら。
我が家はすでに。
二階建てになる予定らしかった。




