第52話 大きくなった自分へ、今の自分から手紙を書く
翌朝、俺が目を覚ますと、昨日八人分の背丈を残した柱の前にリシェルが立っていた。まだ朝飯の支度を始めるにも少し早く、家の中には薄い朝日しか差し込んでいない。他の六人は寝床の中で静かな寝息を立てていた。
「早いな」
声をかけると、リシェルは一度だけこちらを振り返り、「起きた」と短く答えてから、また柱へ目を戻した。
昨日引いた八本の線。その横にはそれぞれの名前と、『春』という文字が残っている。リシェルは自分の線へ指を当てると、そこからゆっくり視線を上へ動かしていった。
「何を見てるんだ?」
「未来」
「柱に未来は書いてないぞ」
「まだ書いてないだけ。次は夏、その次は秋、冬、それからまた春。続けたら、もっと上に線が増える」
なるほど。昨日からずっと、それを考えていたらしい。
「その時の私は、今の私と違う?」
「背はたぶん違うな。髪も切れば変わるし、できることだって増えてるだろう」
「考えてることも?」
「変わるかもしれない」
そう答えると、リシェルはしばらく柱を見上げたまま黙り込み、それから文字を覚えるために作った棚へ視線を移した。
「今の私が考えてること、大きくなった私は忘れる?」
「全部覚えてる方が難しいだろうな」
その瞬間、リシェルの目つきが変わった。
また何か思いついた顔だった。
◇
「お父さん、未来に手紙書く!」
朝飯の途中で元気よく宣言したのは、なぜかフェルナだった。
「何でお前が言うんだ」
「リシェルが教えた!」
俺が朝飯を作っている間に、もう六人へ話が広まっていたらしい。リシェルは特に否定もせず、パンを食べながら静かに頷いている。
「未来ってどこ?」
ユラが首を傾げると、リシェルは少し考えてから「今よりあと」と答えた。
「明日も?」
「明日も未来」
「夏も?」
「未来」
「おおきくなったわたしも?」
「それも未来」
説明されるたびに、ユラの眉間へ少しずつ皺が増えていく。見かねて俺が「まだ来ていない時間のことだ」と付け加えると、ようやく少し分かったらしい。
「じゃあ、お父さんがおじいちゃんになるのも未来?」
「随分遠くまで飛んだな。まあ、それも未来だ」
その言葉に真っ先に食いついたのはフェルナだった。
「お父さん、おじいちゃんになるの!? 髪白くなる!? 腰曲がる!? 昨日言ってたみたいに小さくなる!?」
「一気に聞くな。全部ずっと先の話だ」
将来の自分へ手紙を書く話だったはずなのに、このままでは俺の老後について七人で考える会になりそうだった。
「それより未来の自分への手紙はどうした」
「あっ」
フェルナがようやく本題を思い出し、慌ててパンを口へ放り込んだ。
◇
朝の仕事を終えたあと、七人は机を囲んだ。薄い木の板と炭、それから、これまで覚えた文字をまとめた板も並べておく。まだ書けない言葉があれば俺へ聞く、という形だ。
「誰に書くの?」
セレスが尋ねると、リシェルは「自分」と答えた。
「いつの自分?」
「大きくなった自分」
「どのくらい大きくなった時?」
「そこは決めなくていいと思う。読んだ時に、今より大きくなってたらそれでいい」
セレスは少しだけ笑った。
「ほんと、リシェルらしいね。私は次の春くらいでもいいかな。今とどれくらい変わったか見てみたい」
「フェルナは、お父さんより大きくなったフェルナ!」
「いつになるんだ、それ」
「なるまで開けない!」
「一生開けられない可能性もあるぞ」
「なんで!?」
「俺より大きくなるとは限らないからだ」
するとフェルナは胸を張り、「いっぱい食べるから大丈夫!」と言い切った。
昨日から成長する方法が食事しかない。
◇
「未来の自分へ書くなら、今の自分のことも残しておいた方が面白いぞ」
俺がそう言うと、七人の手が止まった。
「好きなものとか、今できることとか、これからできるようになりたいこととか。未来の自分は、今の自分が何を考えてたか忘れてるかもしれないだろ」
真っ先に反応したのはラグナだった。
「じゃあラグナは、もっと強くなるって書く!」
「それは今でも知ってるけどな」
ラグナは気にせず炭を握り、
『いまも つよい』
『もっと つよくなる』
と続けて書いた。
「変化が分かりにくいな」
「分かるよ! 『もっと』が増えてる!」
「そこだけか」
本人にとっては十分な違いらしい。
◇
フェルナは最初から長かった。
『おおきくなった ふぇるなへ』
『いまの ふぇるなは はしるのが すき』
『たきも すき』
『きのぼりも すき』
『おとうさんも だいすき』
そこまで書いたところで、急に炭が止まった。
「お父さん」
「何だ?」
「大きくなったら、お父さん好きじゃなくなる?」
思わぬ質問だった。
「それは俺にも分からん」
「嫌!」
「何がだ」
「好きじゃなくなるの嫌!」
「別に、そうなるって決まってるわけじゃないだろ」
「じゃあずっと好き!」
言い切るフェルナに、俺は少し笑った。
「気持ちは約束して固定するものじゃない。変わることもあるし、変わらないこともある」
「じゃあ未来のフェルナは、今のフェルナじゃない?」
「そういう意味じゃない。背が伸びても、髪を切っても、お前はお前だろ。好きなものが変わったって、それまで好きだったことが嘘になるわけじゃない」
フェルナは手元の板へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
「今、お父さんが好きなら、今はそう書けばいい。未来のフェルナが読んだ時に、『この頃はこう思ってたんだ』って分かるからな」
「……じゃあ」
フェルナは先ほどの文へ少し文字を足して、
『いまは おとうさんが だいすき』
と書き直した。
「『今は』っている?」
「入れたかったんだろ?」
「うん」
「なら、それでいい」
ようやく納得したらしく、フェルナは満足そうに頷いた。
◇
ミレアはなかなか書き始めなかった。
「好きなものならいっぱいあるんだけど、どれを書けばいいか分からない」
「全部書く必要はない。今日、一番残しておきたいものを選んだらどうだ?」
「今日?」
「ああ。未来のための手紙でも、書いてるのは今日のミレアなんだから」
そう言うと、ミレアはしばらく考えたあと、ゆっくり炭を動かした。
『いまは みんなで ごはんを たべるのが すき』
『ひとりで しずかに いるのも すき』
そこで一度止まり、少し間を空けてから、
『どっちも すき』
と書き足した。
「変じゃない?」
「全然。むしろミレアらしい」
「未来の私は、どっちか嫌いになってるかもしれない」
「それなら、読んだ時に『昔は両方好きだったんだ』って思えばいい」
「……うん。じゃあ残す」
ミレアは板を撫でるように持ち直し、柔らかく笑った。
◇
ノエルは、しばらく一度も俺へ文字を聞かなかった。覚えた文字を組み合わせながら、黙々と小さな字を書いている。
「何を書いてる?」
「見ていいよ」
覗き込むと、
『いま しらないものが いっぱいある』
『むしも とりも くさも ぜんぶ しりたい』
『おおきくなった のえるは どれくらい しってる?』
と書かれていた。
「未来の自分に質問したのか」
「うん」
「返事はどうする?」
ノエルは、わざと空けておいた板の下半分を指差した。
「読んだ時、ここに書く」
「考えたな」
「未来のノエルが答える」
「じゃあ、なくすなよ」
「箱に入れる」
自分なりの使い方を、もう考えている。
◇
ユラの手紙は短かった。
『おおきくなった わたし』
『ごはん つくれる?』
『おとうさんと はんぶん できる?』
読んだ瞬間、胸の奥を少し掴まれたような気がした。
「まだ覚えてたのか」
「なに?」
「大きくなったら、俺の仕事を半分やるって話だよ」
「うん。する」
「無理に半分やらなくてもいいぞ」
「する。おとうさん、つかれたら、ねる」
「まだ俺を休ませる気か」
「うん」
ユラは当然のように頷き、それから少し考えたあと、さらに一文を書き足した。
『おとうさん げんき?』
「これも?」
「おおきくなったら、おとうさんにきく」
「じゃあ手紙に書いたのは?」
「わすれない」
「そうか」
それなら。
忘れないように。
残しておけばいい。
◇
セレスは、何度も書きかけては手を止めていた。木の板は紙と違って、簡単に消して書き直せない。それが余計に慎重にさせているらしい。
「間違えてもいいぞ」
「文字?」
「内容も」
「内容も?」
「未来まで残るからって、完璧に書こうとしたら何も書けないだろ。今の気持ちでいい」
「……そっか」
ようやく炭が動き始めた。
しばらくして、セレスが俺へ見せた板には、
『らいねんの せれすへ』
『みんなの おねえちゃん できてる?』
と書かれていた。
「来年もそれを気にするのか?」
「たぶん。でも、もう一個ある」
その下には、
『ちゃんと じぶんのことも してる?』
と続いていた。
以前のセレスなら、書かなかったかもしれない一文だ。
「忘れないように?」
「うん。みんなを見るのも大事だけど、私もお父さんの娘だから」
「ああ」
「来年、忘れてたら困る」
「俺が覚えてたら聞いてやる」
「板もあるから大丈夫」
「俺より板を信用するのか」
「お父さんも聞いて」
「はいはい」
笑うセレスの顔は、少し前よりずっと柔らかかった。
◇
最後まで書き始めなかったのは、言い出した本人のリシェルだった。
「まだ決まらないのか?」
「書きたいことじゃなくて、聞きたいことが多い」
「未来の自分に?」
「うん。でも多すぎる」
「じゃあ一番聞きたいこと」
「一番はない」
「またそれか」
七人で何度も「誰が一番」「何が一番」と騒いできたせいなのか、リシェルはむしろ、何でも順位をつける必要はないとよく分かるようになっていた。
「なら、一枚に収めようとしなくていい。必要なだけ使え」
「必要なだけ?」
「そう」
すると少し離れたところから、ラグナが嬉しそうに「必要なだけ!」と復唱した。
「完全にお前の言葉みたいになってるな」
「大事だから!」
◇
結局、リシェルは三枚使った。
一枚目。
『おおきくなった わたしへ』
『いまも かんがえるの すき?』
二枚目。
『わからないこと へった?』
『それとも ふえた?』
三枚目。
『おとうさんと みんなと まだ いっしょ?』
最後の一文だけ、書き始めるまで少し時間がかかったらしい。文字の前に、炭を置いた小さな跡が残っている。
「書くか迷った?」
「うん。未来だから、分からない」
「ああ」
「でも、分からないことも書いていい」
「そうだな」
「だから書いた」
リシェルは三枚の板を重ね、大事そうに抱えた。
◇
七人の手紙が書き終わると、今度はいつ読むかという話になった。
「明日!」
真っ先に言ったのはもちろんフェルナだった。
「未来には違いないけど、早すぎるだろ」
「じゃあいつ!?」
「次に背を測る時」
ノエルが柱を見ながら言った。
「夏?」
「うん」
「それいい!」
フェルナは勢いよく賛成したが、数秒後には表情が変わった。
「夏って、あとどれくらい?」
「数か月」
「長い!」
「一日よりはな」
「……でも待つ!」
ずいぶん成長した。
少なくとも、昨日よりは。
◇
問題は。
手紙をどこへ置くかだった。
普段使っている自分の箱へ入れれば、フェルナあたりは明日にでも開けるだろう。棚の上も、ラグナなら届く。床下や天井という案まで出たが、家を壊してまで隠す必要はない。
「俺の寝床の近くにある古い箱へ入れるか」
普段使わない布や予備の道具をしまってある大きな木箱だ。
「お父さん、勝手に見ない?」
フェルナが疑うように聞く。
「人の手紙を勝手に見るなって教えたのは俺だぞ」
「じゃあ大丈夫!」
「信用の仕方が雑だな」
それでも七人は納得し、一人ずつ自分の手紙を箱へ入れていった。
最後に蓋を閉じる。
ユラが箱を見つめながら、不思議そうに聞いた。
「未来にいった?」
「行ってない。ただ箱に入っただけだ」
「でも、あとでよむ」
「ああ」
「じゃあ、未来」
「そういう意味ならな」
◇
夜。
寝床へ入っても、フェルナは何度も木箱の方を見ていた。
「お父さん」
「開けるなよ」
「まだ何も言ってない!」
「絶対、少しだけ見てもいいか聞こうとしただろ」
「……ちょっとだけなら?」
「何のためにしまったんだ」
「未来まで!」
「なら待て」
「明日も未来!」
「夏に読むって決めただろ」
「未来いっぱいある!」
「都合よく使うな」
布団へ潜り込んでも、まだ納得していないらしい。
少しして、今度はミレアの静かな声が聞こえた。
「お父さん。未来って、怖い?」
「どうした、急に」
「分からないから」
他の娘たちも寝てはいないらしい。暗闇の中で、こちらへ意識を向けているのが分かった。
「怖い時もあるよ」
「お父さんも?」
「ああ。大人でも、分からないものは怖い」
「じゃあ、楽しみな時もある?」
「もちろん」
「両方?」
「両方だな」
ミレアはそれを聞くと、少し安心したように息を吐いた。
「いいこと、ある?」
今度はユラ。
「あると思う」
「わるいことも?」
「それもあるかもしれない。でも、まだ起きてないことを全部心配しても仕方ないだろ」
「今できることやる」
リシェルが続ける。
「そう。それで本当にその時が来たら、また考える」
「それでも怖かったら?」
「誰かに言え」
「八人?」
「今ならな」
◇
「お父さん」
セレスが少し間を置いてから尋ねた。
「一年後も八人?」
「そのつもりだ」
「夏も?」
「ああ」
「明日も?」
「もちろん」
ユラが安心したように「じゃあいい」と呟く。
七人にとって、未来という言葉はまだあまりにも大きい。
今まで山の中で暮らすだけなら、明日の天気と冬までに必要な薪を考えていれば十分だった。それが文字を覚え、今日という時間を残せるようになったことで、自然とその先を見るようになった。
大きくなった自分。
今とは違うものを好きになっている自分。
今と同じものを大事にしている自分。
家族と一緒にいる自分。
まだ何も分からない。
だからこそ。
今日の七人は。
未来の七人へ。
今の自分を少しだけ預けた。
◇
「お父さん」
「今度は何だ」
「夏になったら、絶対教えてね」
「手紙のことか?」
「うん!」
「覚えてたらな」
「じゃあ板に書く!」
「その板をどこに置く?」
「…………」
フェルナはしばらく黙り込み、それから木箱を指差した。
「未来の手紙と一緒!」
「それじゃ夏まで見えないだろ」
「じゃあ柱!」
「好きにしろ」
「今書く!」
「もう寝ろ!」
「忘れる!」
「明日書けばいい!」
「じゃあ明日のフェルナに手紙書く!」
「話が一周してるぞ!」
未来について考え始めても。
今すぐやりたいことを我慢するのは。
まだ。
かなり難しいらしかった。




