第50話 「だめ」だけ書いても、何がだめなのか分からない
文字を覚え始めてから、七人は家のあちこちに板を置くようになった。
最初は棚の中身や仕事を忘れないためだったはずなのだが、数日もすると用途が増え、朝起きて居間へ出るだけでも何枚もの文字が目に入る。
『みず』
『まき』
『にわとり』
『あさ ごはん』
『ふぇるな はしる』
「最後のは何だ」
俺が板を持ち上げると、ちょうど外へ出ようとしていたフェルナが振り返った。
「今日すること!」
「朝からわざわざ書いたのか?」
「忘れないように!」
「お前が走ることを忘れる日は来ないと思うぞ」
「来るかもしれない!」
「その心配はいらない」
板を棚へ戻そうとして、ふと気づく。
その下にも一枚あった。
『ふぇるな はしりすぎ だめ』
「……これは?」
「セレス姉」
なるほど。
「勝手に書かれた!」
「必要だったから」
台所からセレスの声が飛んでくる。
「昨日、フェルナが家の中走って水桶にぶつかったでしょ」
「こぼしてない!」
「私が押さえたから!」
「じゃあ大丈夫!」
「大丈夫じゃない!」
朝から元気だ。
しかし。
問題は。
それだけではなかった。
◇
朝飯を食べ。
鶏の世話をしようと外へ出る。
扉の横。
『あめのひ すべる』
これはいい。
昨日俺が教えた。
濡れた板は滑りやすいから、注意するためにセレスが書いたのだろう。
少し歩く。
薪置き場。
『ぬれた まき こっち』
『かわいた まき こっち』
これも分かりやすい。
「お父さん!」
ラグナが得意そうに指差す。
「ラグナ書いた!」
「読めるぞ」
「間違ってない!?」
「大丈夫だ」
「やった!」
以前なら。
乾いた薪と湿った薪をどこへ置くか、毎回俺へ確認していた。
今では。
自分たちで書いて。
自分たちで見て。
思い出せる。
「文字、便利だな」
「うん!」
ラグナは嬉しそうに頷いた。
そのまま畑へ向かう。
すると。
「…………」
また板。
『ここ ふむな』
「何だこれ」
リシェルが来る。
「昨日、芽出た」
「ああ」
「小さいから踏まないように」
「いいな」
次。
『くさ ぬく』
その隣。
『やさい ぬくな』
「……まあ、分かる」
さらに。
『わからない くさ ぬくな』
「これは大事だな」
以前。
草か野菜か分からないものは。
すぐ抜かず。
育つまで待つ。
そう教えた。
ちゃんと。
残っている。
「よく考えたな」
「うん」
リシェルは。
満足そうだった。
◇
そこまでは。
良かった。
昼前。
家へ戻った俺は。
扉を開けて。
止まった。
「…………」
椅子。
『らぐな のるな』
「なんで?」
ラグナが聞く。
「お前が書いたんじゃないのか?」
「違う!」
「誰だ」
「フェルナ!」
「昨日ラグナ立った!」
「棚の上取るため!」
「椅子壊れそうだった!」
「壊れてない!」
「だから書いた!」
「自分で取れない物は呼べよ」
「ほら!」
フェルナが勝ち誇る。
だが。
そのフェルナの席には。
『ふぇるな あし のせるな』
「これは?」
ラグナが胸を張った。
「ラグナ!」
「やり返すな」
「昨日机に足乗せた!」
「ちょっとだけ!」
「だめ!」
「じゃあ」
フェルナが。
別の板を指差す。
『らぐな ごはん とるな』
「それはフェルナの!」
「何だこれ」
「昨日ラグナがフェルナの肉取った!」
「一個だけ!」
「一個でも!」
「お前ら」
俺は。
机を見る。
まだある。
『のえる むし つくえに おくな』
「…………」
ノエルを見る。
「誰が書いた?」
「セレス姉」
「昨日、食事する机に虫の抜け殻置いてたから」
「きれいだった」
「食事の時は嫌!」
「分かった」
ノエルは納得している。
その横。
『ゆら ねるまえ みず のむ』
「これは誰だ?」
「わたし」
ユラ。
「自分で?」
「わすれるから」
「それはいいな」
さらに。
『みれあ なんでも だいじょうぶ いうな』
「…………」
これは。
少し違う。
「誰が書いた?」
ミレアが。
困ったように。
セレスを見る。
「私」
「なんで?」
「ミレア、何か困ってても『大丈夫』って言う時あるから」
「…………」
気持ちは分かる。
だが。
「セレス」
「なに?」
「これ、本人に聞いて書いたか?」
「……聞いてない」
「ミレア」
「ああ?」
「これ置かれるの嫌か?」
ミレアは。
少し迷った。
「嫌っていうか」
板を見る。
「ずっと見られてる感じする」
セレスの顔が。
変わった。
「あ……」
「心配したんだよな」
「うん」
「それは悪くない」
「でも」
セレス自身が。
もう分かったらしい。
「勝手に書くのは違った?」
「ああ」
「……ごめん、ミレア」
「うん」
「板、外す」
「ありがとう」
セレスが板を取る。
フェルナとラグナも。
少しだけ。
自分たちの板を見る顔が変わった。
◇
「お父さん」
リシェルが聞く。
「文字にしたら駄目なことある?」
「文字が駄目なんじゃない」
「じゃあ?」
「書く内容と使い方だな」
「…………」
「例えば」
俺は。
畑を指差す。
「『ここを踏むな』は?」
「芽があるから」
「ああ。踏んだら育たなくなるかもしれない」
「うん」
「じゃあ、『ラグナは椅子に乗るな』は?」
「椅子壊れる」
フェルナ。
「でも」
ラグナが言う。
「棚の上取る時、必要だった」
「そうだな」
俺は頷く。
「なら本当に駄目なのは、椅子に乗ること全部か?」
「…………」
二人とも。
考える。
「壊れそうな乗り方?」
セレス。
「それもある」
「高いところから落ちる?」
ミレア。
「ああ」
「じゃあ」
リシェルが。
元の板を取る。
『らぐな のるな』
その文字を見る。
「これだけだと足りない」
「そういうことだ」
◇
「『駄目』って書くの簡単だろ」
「うん」
七人が聞いている。
「でも」
俺は続ける。
「何で駄目なのか分からないと、別の時に困る」
「別の時?」
ユラ。
「ああ。椅子じゃなくて箱なら?」
「乗っていい?」
ラグナ。
「丈夫で低くて、危なくなければ使うこともある」
「じゃあ椅子だけ駄目じゃない」
「そうだな」
「でも高い箱は?」
「危ない」
「じゃあ」
リシェルが。
すぐ言う。
「物じゃない」
「ああ」
「落ちる高さとか、壊れるかとか」
「そう」
「考えることが大事」
「そういうことだ」
フェルナが。
難しい顔。
「でも」
「ん?」
「毎回考えるの面倒!」
「そこは考えろ」
「なんで!」
「怪我したくないだろ」
「したくない!」
「なら考えろ」
「分かった!」
納得は早い。
◇
そこから。
七人による。
板の見直しが始まった。
「これは?」
セレスが。
『ふぇるな はしりすぎ だめ』
を持つ。
「消す?」
「何で走りすぎが駄目なんだ?」
「ぶつかる」
ラグナ。
「ころぶ」
ユラ。
「家の中狭い」
リシェル。
「じゃあ」
フェルナが炭を持つ。
「こう!」
新しい板。
『いえのなか はしらない』
「……分かりやすくなった」
「なんで?」
ノエル。
「外は走っていいから」
「なるほど」
「でも」
俺が言う。
「火の近くでは外でも走るなよ」
「…………」
フェルナが。
板を見る。
「増える!」
「全部書こうとするな」
「じゃあどうするの!」
「覚えろ」
「文字いらない!」
「極端だな!」
◇
ラグナの。
『ごはん とるな』
も。
見直す。
「人のもの勝手に取るな」
セレスが言う。
「ご飯だけじゃない」
「ああ」
「箱も」
ノエル。
「お手紙も」
ミレア。
「じゃあ」
リシェルが。
板へ書く。
『ひとのもの かってに とらない』
「これなら?」
「いいんじゃないか」
「貸してって言えば?」
ラグナ。
「本人がいいって言えば借りられる」
「じゃあ肉も?」
フェルナ。
「嫌」
即答。
「まだ昨日の怒ってる!?」
「肉は大事!」
「ラグナより?」
「その話またする!?」
「やめろ」
以前の皿の喧嘩まで戻りそうなので。
止めた。
◇
ノエルの。
『むし つくえに おくな』
は。
本人から。
「食事の時だけ?」
と聞いた。
「俺はそう思う」
セレスを見る。
「私も」
「じゃあ」
『ごはんのとき むし つくえに おかない』
ノエルが書く。
「長い」
「でも分かる」
「うん」
「食事じゃない時は?」
「見せていい?」
ノエル。
「俺はいいぞ」
セレスは。
少し迷い。
「抜け殻なら」
「生きてる虫は?」
「……先に言って」
「分かった」
ノエルは。
さらに。
小さく書き足した。
『いきてるの いう』
「何か妙だな」
「分かればいい」
「まあな」
◇
そして。
一番難しかったのが。
人の気持ちに関する板だった。
「これ」
セレスが。
さっき外した。
『みれあ なんでも だいじょうぶ いうな』
を見る。
「どうしたらいい?」
「別に板にしなくてもいいんじゃないか?」
「でも忘れそう」
「何を?」
「ミレアが大丈夫って言っても、本当に大丈夫か分からないこと」
「なら」
ミレア本人が。
少し考えて。
「セレス姉の箱に入れたら?」
「私の箱?」
「みんなに見えるところじゃなくて」
「……ああ」
「セレス姉が覚えるためなら」
「いい?」
「うん」
板は。
家全体の決まりではなく。
セレス自身への覚え書きになった。
「それなら」
セレスが。
書き直す。
『みれあの かおも みる』
「…………」
ミレアが笑う。
「それならいい」
「顔?」
フェルナが覗く。
「大丈夫って言ってても、本当に大丈夫か見るの」
「フェルナも見る!」
「全員でじっと見るのやめて」
ミレアがすぐ困った。
「なんで!?」
「余計言いにくい」
「難しい!」
本当に。
人の気持ちは。
畑より難しい。
◇
夕方には。
家の中の板が。
朝よりかなり減った。
「減った」
ユラが言う。
「いっぱいあったのに」
「ああ」
「忘れない?」
「全部板にしなくてもいい」
「どうして?」
「毎日の中で覚えていくこともある」
「でも、わすれる」
「忘れたら?」
「みる」
「板がなかったら?」
「きく」
「誰に?」
「おとうさん」
少し考えて。
「みんなにも」
「それでいい」
◇
残った。
家の決まりらしい板は。
ほんの数枚。
『ひとのもの かってに とらない』
『あぶないとき むりしない』
『とおくへいくとき いう』
『わからないとき きく』
そして。
リシェルが。
一番最後に。
もう一枚作った。
『なんでか かんがえる』
「これも決まり?」
セレスが聞く。
「分からない」
「じゃあ何?」
「覚えたいこと」
「誰が?」
「みんな」
「お父さんも?」
俺を見る。
「俺もだな」
「じゃあここ」
棚の。
一番見える場所。
そこへ置いた。
◇
夕飯の時。
フェルナが。
何度も板を見る。
「なんでか考える」
「ああ」
「ご飯食べるのなんで?」
「腹減るから」
「寝るのなんで?」
「眠いから」
「走るのなんで?」
「楽しいからだろ」
「当たり!」
「試すな」
「お父さん好きなのなんで?」
「…………」
急に。
難しくなった。
「それ答えある?」
フェルナが聞く。
「あるけど」
「何!?」
「一つじゃない」
「いっぱい?」
「ああ」
「教えて!」
「飯食ってからな」
「今!」
「冷めるぞ」
「じゃあ食べる!」
◇
すると。
ラグナも。
「ラグナ強くなりたいのなんで?」
「前に言ってただろ。みんな守りたいから」
「あ」
「自分で忘れてどうする」
「書く!」
「飯食え」
ノエル。
「虫見るのなんで?」
「知りたいからじゃないか?」
「たぶん」
「自分で聞いてたのに自信ないのか」
「まだ他にもあるかも」
ミレアは。
「一人でいたい時があるのは?」
「それは本人にしか分からないこともあるな」
「うん」
セレスも。
何か考える。
「私がみんなのこと気にするのは?」
「お姉ちゃんだから?」
フェルナ。
「それだけかな」
「好きだから」
ユラ。
「…………」
セレスが。
少しだけ。
笑った。
「それもあるかも」
◇
夜。
灯りを落とす前。
リシェルは。
『なんでか かんがえる』
の板を。
もう一度見ていた。
「気に入ったか?」
「うん」
「でもな」
「なに?」
「何でも理由がすぐ分かるとは限らないぞ」
「考えても?」
「ああ」
「ずっと?」
「分からないこともある」
「じゃあどうする?」
「分からないって覚えておく」
「……それでいい?」
「ああ」
「答えないのに?」
「無理に答え作るよりいい」
「…………」
リシェルは。
しばらく板を見る。
「それも書く?」
「板増やしすぎるな」
「じゃあ覚える」
「そうしてくれ」
◇
布団へ入る。
少しして。
「お父さん」
フェルナ。
「なんだ?」
「家の中走っちゃ駄目なの」
「ああ」
「なんで?」
「今日散々話しただろ」
「確認!」
「ぶつかったり転んだりするから」
「じゃあ」
嫌な予感。
「誰もいなくて、何も置いてなかったら?」
「…………」
「走っていい?」
「お前」
「ああ?」
「ちゃんと考えたな」
「うん!」
「でも家は狭いから走るな」
「なんでえええ!」
暗い家の中で。
笑い声が広がった。
◇
これから。
七人は。
もっとたくさんの文字を覚える。
たくさんの決まりも。
きっと知る。
けれど。
ただ。
「駄目だから駄目」
と覚えてほしくはなかった。
危ないなら。
何が危ないのか。
誰かが嫌がるなら。
なぜ嫌なのか。
昨日は駄目でも。
今日は大丈夫なことだってある。
場所が違えば。
方法が違えば。
答えが変わることもある。
だから。
覚えるだけじゃなく。
考える。
分からなければ聞く。
それでも分からなければ。
分からないまま。
しばらく持っておく。
そんな癖が。
少しずつ。
七人につけばいい。
「お父さん」
今度はユラ。
「なに?」
「おとうさんのいうことも?」
「ああ?」
「なんでか、かんがえる?」
「…………」
少し驚いた。
「ああ」
「いいの?」
「もちろん」
「おとうさん、まちがえる?」
「間違える」
「じゃあ」
眠そうな声で。
「へんだとおもったら、きく」
「ああ。そうしてくれ」
「うん」
やがて。
小さな寝息に変わる。
俺の言うことだから。
正しい。
父親だから。
従えばいい。
そんなふうには。
育ってほしくない。
今は。
この山しか知らなくても。
いつか。
七人が。
自分の足で何かを決める時。
最後に頼れるのは。
誰かが書いた「駄目」ではなく。
自分で考え。
選ぶ力なのだから。
ただし。
「お父さん……」
「今度は誰だ」
「ふぇるな……」
「寝言か」
「いえのなか……はしる……」
「走るな」
「なんで……」
「寝ながら復習するな」
そこだけは。
理由を考える前に。
まず止まってほしかった。




