第49話 書いておけば、お父さんに何度も聞かなくていい
文字を教え始めてから、家の中の様子が少し変わった。
七人とも、何か思いつくたびに薄い木の板と炭を持ち出すようになったのだ。
朝起きれば、自分の名前を書く。鶏へ餌をやれば「にわとり」と書く。昼飯に使った野菜を見ては名前を聞き、夜になると覚えた文字を箱へしまう。
特にひどいのがフェルナだった。
「お父さん!」
「今度は何だ?」
「『はしる』ってどう書く!?」
「さっき教えた」
「忘れた!」
「板に書いただろ」
「どの板!?」
「それを俺に聞くな」
昨日だけで何枚使ったのか分からない木の板を、フェルナは床いっぱいに広げている。その横ではラグナも似たようなことをしていた。
「お父さん、『つよい』!」
「昨日教えた」
「もう一回!」
「自分で探せ」
「いっぱいあって分かんない!」
「だから整理しろって言っただろ」
「文字増えすぎ!」
「まだ大して教えてないぞ」
文字を覚えれば便利になると思っていたが、覚え始めたばかりの今は、むしろ俺を呼ぶ回数が増えている気がする。
「お父さん」
今度はノエル。
「なんだ?」
「『むし』」
「……昨日教えたよな?」
「これは書ける」
「じゃあ何だ」
「『ぬけがら』」
「増やすのか」
「うん」
俺はため息をつきながら、また板を一枚引き寄せた。
◇
そんな様子を、リシェルは朝から黙って見ていた。
自分も文字を練習しているものの、他の六人ほど頻繁には俺を呼ばない。分からない文字があっても、まず昨日までの板を探し、自分で組み合わせられないか考えている。
「お父さん」
ようやく呼ばれたのは、昼が近くなってからだった。
「今度は何を書く?」
「書かない」
「じゃあ?」
リシェルは床に散らばった板を指した。
「これ、よくない」
フェルナがすぐ反応した。
「なんで!?」
「探せないから」
「探せる!」
「じゃあ『走る』の板どれ?」
「…………」
フェルナは床を見回した。右を探し、左を探し、ラグナの板までひっくり返す。
「これ!」
「それ『速い』」
「似てる!」
「意味違う」
「じゃあ……これ!」
「『滝』」
「なんで滝!?」
「フェルナが書いたから」
「自分で書いたのに分かんない!」
「だからよくない」
淡々と言われ、フェルナが黙った。
珍しく反論できないらしい。
「じゃあどうする?」
セレスが聞くと、リシェルは新しく作った棚を見た。
「同じ言葉、同じところに置く」
「箱みたいに?」
「うん。でも一人ずつじゃない」
「じゃあ何ごと?」
「意味ごと」
それだけ言って、リシェルは俺を見る。
「できる?」
「……面白いな」
「何が?」
「文字を覚え始めたばかりなのに、もう整理すること考えてるところが」
「探すの時間かかる」
「実用的な理由だったか」
◇
昼飯のあと、八人で相談することになった。
まずリシェルが提案したのは、覚えた言葉を一か所へまとめることだった。
「ここ」
棚の一段を指す。
「文字の場所」
「全部?」
セレスが聞く。
「全部」
「すぐいっぱいにならない?」
「板を一枚ずつ増やしたらなる」
「じゃあどうする?」
「一枚にいっぱい書く」
なるほど。
俺は少し大きめの板を持ってきた。
「こんなのか?」
「うん」
「でも一枚に全部書いたら、今度は探しにくいぞ」
リシェルは少し考えたが、そこでノエルが口を開いた。
「似てるの、一緒」
「似てる?」
「山のもの。家のもの。食べるもの」
「……それはいいな」
俺が頷くと、ノエルは少し嬉しそうな顔をした。
「虫も?」
「山のものでもいいし、生き物で分けてもいい」
「生き物」
「鶏も?」
ユラが聞く。
「ああ」
「くま!」
ラグナ。
「熊も生き物だ」
「ラグナも?」
「お前も生き物だよ」
「じゃあ書く!」
「自分たちまで一覧に入れるのか?」
「七人!」
フェルナまで乗ってきた。
こうなると止まらない。
◇
結局、最初に作ることになったのは四枚だった。
一枚目は「家で使うもの」。
鍋、皿、匙、薪、水、布、箱。
二枚目は「食べるもの」。
パン、肉、魚、野菜、木の実。
三枚目は「山にあるもの」。
木、石、川、滝、花、雨、雪。
四枚目は「生き物」。
鶏、鳥、虫、狐、鹿、熊。
「お父さん」
ノエルが四枚目を見る。
「トカゲない」
「書くか」
「蟻も」
「書こう」
「魚は?」
「生き物にも食べ物にも入るな」
そこでリシェルが止まった。
「同じもの、二つにあっていい?」
「いいんじゃないか?」
「でも一個なのに」
「魚そのものは一匹でも、見方はいくつもあるだろ」
「見方?」
「食べ物として見る時もあれば、生き物として見る時もある」
リシェルは魚という文字を見つめた。
「じゃあ」
別の板に同じ文字を書く。
「二つ」
「ああ」
「意味は違う?」
「使う時による」
「…………」
新しい問題を見つけた時の顔だ。
「また考える」
「文字って、お前に向いてるな」
「分からないこと増えるから?」
「それで喜ぶやつは珍しい」
◇
一覧ができると、今度は棚へ置く順番で揉めた。
「生き物が一番上!」
ラグナが言う。
「なんで?」
「熊強い!」
「熊だけじゃないよ」
セレスが呆れる。
「鶏もいる」
「鶏は弱い」
「順位の話じゃない」
「食べ物上!」
フェルナ。
「なんで?」
「お腹減ったら見る!」
「文字見ても腹は膨れないぞ」
「でも食べたいの思い出す!」
「余計腹減るだろ」
ミレアは笑いながら、「よく使うのを真ん中にしたら?」と言った。
「前に棚作った時、お父さんそうしたよね」
「よく覚えてたな」
「毎日使うのは取りやすいところ」
「ああ」
「じゃあ家のものが真ん中?」
セレス。
「一番見るかも」
「食べ物も見る!」
「フェルナは食べ物じゃなくて文字を覚えて」
「覚えるために見る!」
結局、真ん中に「家」と「食べ物」、その上に「山」と「生き物」を置くことになった。
フェルナだけは最後まで、食べ物を一番取りやすい場所へ置きたがっていた。
◇
それから数日。
文字の一覧は、思っていた以上に役に立った。
「お父さん!」
朝、フェルナがいつものように叫ぶ。
「何だ?」
「『雨』!」
「一覧」
「……あ」
棚へ走る。
「山!」
「あった!」
「自分で見つけたな」
「うん!」
そのまま戻ってこない。
「何書くんだ?」
「秘密!」
「お前まで秘密覚えたのか」
「手紙!」
「誰に?」
「秘密!」
声の大きさで秘密になっていない気もする。
◇
ラグナも。
「お父さん、『強い』!」
「それは一覧にない」
「ない!」
「じゃあ?」
「増やす!」
自分で新しい板を持ってきた。
「どこに入れる?」
「…………」
考える。
「生き物?」
「なんで」
「熊強い」
「強いは熊専用の言葉じゃない」
「じゃあラグナ!」
「自分専用でもない」
「難しい!」
そこで。
セレスが言った。
「動く言葉とか、様子の言葉も作ったら?」
「様子?」
「強い、速い、綺麗、大きい、小さいとか」
「おお!」
俺が教える前に。
新しい分類が増えた。
リシェルはすぐ板を取り出す。
「作る」
◇
さらに数日。
棚には。
七枚の一覧が並んだ。
家。
食べ物。
山。
生き物。
動き。
様子。
気持ち。
最後の一枚を作ったのは。
ミレアだった。
「『好き』はどこ?」
と聞かれ。
どこへ入れるか。
七人で考えた結果だった。
「気持ち?」
セレス。
「たぶん」
ミレア。
「大好きも?」
フェルナ。
「うん」
「嬉しい!」
ユラ。
「それも」
「悔しい」
ラグナ。
「入る」
「怖い」
ノエル。
「それも気持ち」
「分からない」
リシェル。
「それは気持ちなの?」
「……場合によるな」
俺が答えると。
「じゃあ書く」
「何で」
「分からないも残したい」
「お前らしいな」
◇
そして。
文字の一覧を作って。
一番大きく変わったことがあった。
「お父さん」
ある朝。
セレスが俺へ声をかける。
「今日、畑は?」
「昨日雨だったから、水やりは――」
「待って」
リシェルが棚へ行く。
以前。
俺が教えた言葉を使って。
小さな板を一枚持ってきた。
『雨の次の日 土が濡れていたら 水はまだいらない』
「…………」
俺が読む。
「これ、いつ書いた?」
「昨日」
「俺が言ったのを?」
「うん」
「じゃあ」
セレスが畑を見る。
「先に土を見る」
「そうだな」
「濡れてたら水なし」
「ああ」
「乾いてたら?」
「必要ならやる」
「分かった」
三人。
そのまま畑へ向かう。
「…………」
俺は。
少しだけ。
その場に残った。
◇
「お父さん?」
ユラが袖を引く。
「どうした?」
「いや」
「いかない?」
「行くよ」
「でも、みてた」
「ああ」
棚を見る。
俺が教えたこと。
昨日までは。
七人の頭の中にしか残らなかった。
忘れたら。
また俺に聞く。
それでよかった。
けれど。
今は。
板に残っている。
「おとうさん」
「ん?」
「きかなくていい?」
「何が?」
「みず」
「ああ」
少し。
答えるまで時間がかかった。
「聞かなくても分かるなら、それでいい」
「おとうさん、さびしい?」
「……何でそう思った」
「かお」
「そんな顔してたか?」
「ちょっと」
よく見ている。
「寂しいっていうか」
俺は。
言葉を探す。
「嬉しいんだよ」
「うれしい?」
「ああ」
「でも、へんなかお」
「嬉しい時も変な顔になるんだ」
「むずかしい」
「俺もそう思う」
◇
昼。
畑から戻ったセレスが報告する。
「水いらなかった」
「ちゃんと土見た?」
「うん」
「表面だけじゃなく?」
「少し掘った」
「ならいい」
「リシェルの板、合ってた」
「俺が教えたことだからな」
「でも」
セレスが。
棚を見る。
「お父さんに聞かなくてもできた」
「ああ」
「これから」
少しだけ。
不安そうになる。
「聞いちゃ駄目?」
「なんでそうなる」
「だって書いてあるから」
「分からなかったら聞け」
「書いてあっても?」
「もちろん」
「何回でも?」
「何回でも」
「じゃあ」
笑う。
「安心した」
◇
その日の午後。
今度は。
俺が七人に聞くことになった。
「昨日、薬草をどこへ移した?」
「棚!」
フェルナ。
「どの?」
「…………」
「お前に聞いた俺が悪かった」
「待って!」
フェルナが一覧を見る。
「家?」
「言葉の一覧じゃない」
「じゃあどこ!?」
ミレアが。
別の小さな板を持ってくる。
「これ」
『乾かした薬草 上の棚 右』
「……書いたのか?」
「セレス姉」
「忘れそうだったから」
セレスが答える。
「お父さんも忘れた?」
「ああ」
「じゃあ」
フェルナが。
得意そうに胸を張った。
「文字すごい!」
「お前は何もしてないだろ」
「読んだ!」
「途中までな」
「それでも!」
◇
夕方。
俺は。
新しい板を一枚。
棚へ置いた。
「何?」
リシェルが。
すぐ気づく。
「俺も使う」
「何書く?」
「忘れちゃ困ること」
「お父さんも忘れる?」
「前に言っただろ」
「うん」
「だから」
板へ書く。
『明日 屋根の西側を確認』
「屋根?」
フェルナ。
「今日見たら少し浮いてるところがあった」
「直す!?」
「確認してから」
「フェルナも!」
「屋根には上がるな」
「下から!」
「それならいい」
リシェルは。
俺が書いた板を見ていた。
「お父さんも文字使う」
「そりゃ使うよ」
「私たちに教えるだけじゃない」
「ああ」
「お父さんも助かる?」
「ああ」
「…………」
何だか。
嬉しそうだ。
「じゃあ」
仕事分けの板の横。
俺が使う板の場所を。
少し空ける。
「ここ」
「また俺の場所増えたな」
「いるから」
ユラと同じことを言った。
◇
夜。
寝る前。
七人は。
棚の前へ集まっていた。
「明日何する?」
ラグナ。
「仕事の板見る」
リシェル。
「フェルナは?」
「朝ご飯手伝う!」
「書いとけば?」
セレス。
「書く!」
板へ。
『あさ ごはん てつだう』
「これで忘れない!」
「お前の場合、書いたこと自体忘れそうだな」
「忘れない!」
「どこ置く?」
「…………」
止まる。
「お父さん」
「何だ」
「朝、これ見るって書いとく!」
「その板をどこに置くんだよ」
「…………」
七人。
笑い出した。
◇
文字は。
まだ。
七人にとって新しい遊びみたいなものだ。
書き間違える。
読み間違える。
板をどこへ置いたか忘れる。
覚えた言葉を。
何でも書きたがる。
それでも。
少しずつ。
使い方が変わってきた。
名前を書くためだけだった文字が。
手紙になり。
覚えたことを残すものになり。
明日の自分へ伝えるものになった。
そして。
俺がいなくても。
俺が一度教えたことを。
七人だけで思い出せるものにもなった。
「お父さん」
暗くなってから。
リシェルが呼ぶ。
「なんだ?」
「いつか」
「ああ」
「お父さんに聞かなくても、全部できる?」
「全部は無理だろ」
「どうして?」
「俺だって全部一人ではできない」
「…………」
「誰かに聞いたり、考えたり、残ってるものを読んだりする」
「ああ」
「できることが増えても、分からないことがなくなるわけじゃない」
「うん」
「だから」
「だから?」
「聞かなくて済むようになるんじゃなくて」
少し考える。
「誰に何を聞けばいいか、自分で考えられるようになる方が大事かもな」
リシェルは。
しばらく黙っていた。
「それ」
「ん?」
「明日書く」
「何を?」
「忘れたくない」
「俺が今書こうか?」
「ううん」
暗闇の中。
少しだけ。
笑った気配がした。
「明日の私が、覚えてたら自分で書く」
「忘れてたら?」
「お父さんに聞く」
「それでいい」
◇
少しして。
七人の寝息が聞こえ始める。
俺は。
棚を見る。
暗くて。
もう文字までは読めない。
それでも。
そこに。
七人が覚えたこと。
書きたいと思ったこと。
忘れたくないことが。
少しずつ増えている。
俺が教えたものもあれば。
七人だけで決めたものもある。
そのうち。
俺の知らないことまで。
あの棚に増えるのだろう。
それは。
たぶん。
悪いことじゃない。
「……でも」
俺は小さく呟く。
「板、足りるかな」
すると。
「また つくる……」
寝ていたはずのフェルナが答えた。
「起きてるのか?」
「ねてる……」
「寝言で返事するな」
「にかいも……」
「棚の話から二階に戻すな」
返事は。
今度こそなかった。
どうやら本当に寝たらしい。
文字を覚えても。
家を二階にしたがるところだけは。
まだ変わらなかった。




