『のぼり』
「友達から聞いた話なんだけどね」
小学生の頃の話だ。
友達が通っている学習塾の前には、顔写真の載っているのぼりが立っていた。快活な笑顔を浮かべた女の子の写真が、ポップな字体の横に印刷されているものだ。
通い始めて少しして、友達はそののぼりが『のんちゃん』と呼ばれていることを知った。
通っていた塾生のひとりが気まぐれに渾名をつけたものが、広まったものだという。友達が見る限り、のんちゃんは随分と親しみを込めて扱われていた。
なんでも、『のんちゃん』にお願いすると、いつもより集中出来るらしく、成績が上がると評判だったそうだ。
友達も、試してみなよと言われてお願いをしたことがあったが、確かになんだか妙に頭がすっきりするような気がしたそうだ。
ただのプラシーボだよ、と笑う子もいたが、たとえそうだとしても、本当に成果として表れるなら、信じた方がお得だと思っていた。
そんな風に親しまれていた『のんちゃん』だったが、ある雨の日に、ひどい泥跳ねで汚れてしまった。
濁った色が染みついてしまったので処分しようかという話にもなったそうだが、『のんちゃん』を気に入っていた塾生が可哀想だと言うので、目立たない位置に入れ替えて立てられていたそうだ。
そんな中、一人の男子が、『のんちゃん』に向かって「ブス」だと笑うようになったらしい。汚れのせいか、どうも顔自体が崩れて見えるようになり、それを面白がっての発言だったようだ。
元々、女子が『のんちゃん』を可愛がっているのをからかっているような子でもあったので、その延長だったのだろう。
女子の間では『のんちゃん』の人気は高く、お願い事を叶えてくれる特別な存在だと思われているようで、可哀想だから早く綺麗にしてあげてほしい、という声が多かった。
染みついてしまっているし、素材の性質上難しい、というのが答えだったが、希望が多かったためか、一度きちんと洗うことになった。
それも、希望を出した女子たちが自分で洗うと言い始めたそうだ。自分たちにとっては『のんちゃん』は本当に大切な存在なので、大事に扱いたい、という主張だった。
友達はそこまで『のんちゃん』に興味がなかったので、どうして底まで熱心になるのか、少し不思議に思っていたくらいだった。
ただ、興味がある子もない子も、その後の騒ぎは全員が耳にしたそうだ。
なんでも、洗い終えた『のんちゃん』の顔が、怒りの形相に変わってしまったのだという。とても元は可愛らしい女の子とは思えないほどの表情だったそうで、洗いたいと集まった子達からは悲鳴が上がったそうだ。
見てしまった子が怖がってしまったので、処分することに決まったが、その後も異変は続いた。捨てた筈の『のんちゃん』が、何度も何度も、建物の前まで戻ってきたらしい。すり切れてぼろぼろになり、原型が分からなくなっても扉にへばりついていたそうだ。
最終的に供養をしてもらったそうだが、それ以来、塾生の成績不振が続いてしまい、結局、その学習塾は潰れてしまったのだという。
「怖かった?」
「そうだな、怖かったよ」
元々怖いと思っていた存在より、愛着を持った存在から怒りを向けられる方が、より恐ろしいように思う。更に言えば、人の顔が変貌するのも、完全な異形の怪異が襲ってくるのとは違う恐怖があるような気がした。
人形なんかも、人間に似せていくと不気味に感じる段階があるらしいが、やっぱり自分たちと似た見目だからこそ、ちょっとした変化が起きた時に恐怖を感じ取りやすいのかもしれない。
「せっかく仲良くやってたのに、なんか可哀想だよな」
それも、悪口を言っていない子まで巻き込まれて嫌われてしまったなら、更に可哀想な話だとは思った。
心ない言葉で罵られた時点で、愛着のあった筈の子供たち全員が敵に見えてしまったのだろうか? 『のんちゃん』が好きだった子にとっては、悲しい話のようにも思える。
「そうだねえ」
なんだかしみじみしたような声で相槌を返した隣人が、鼻歌交じりにグミの袋を開ける。まだこいつが食べたことのない中から選んだ、コーラ味のグミだ。
別に機嫌を取ろう、としている訳ではない、とも言い切れない。あれから賭けの話になることはなかったが、何か、よくない方向に流れているような気もしている。
仲良くし続けたいとは思っているのだから、示せる時には友好の証を示したい、という訳で、グミだった。
ひょい、と摘まんだグミの一粒が此方に差し出されるのを、手のひらで受け取る。くれるのか、と思ったが、多分違った。
大袋から取り出されたグミは個包装になっていて、隣人の指先で摘まんで開けるには、あまりに小さかった。
「あかない……」
「あー、悪い」
今回のグミはネットで購入したものである。届いた際の袋でそのまま渡してしまったので、作りのことはさっぱり考えていなかった。
受け取った一つを開けながら、そもそも割と開けにくい包装だな、などと思う。取り出したグミを差し出された手のひらに転がしてやると、すぐに口に放り込まれた。
数度の咀嚼ののち、個包装のグミが三個ほど渡されるので、再び開けて返すと、ぽそりと呟きが落ちた。
「ちょっと変わった味」
「ライムコーラだってさ」
「らいむ」
「見たことないか? こういうの」
調べた画像を見せると、くにゃりと首が傾けられた。
「すだちってこと?」
「いや、すだちではないと思う」
見た目は似ているが、香りが結構違った筈だ。画像で見るとそんなに違いが分からないのかもしれない。かぼすまで出てきたので、ややこしくて仕方がないが、それだけ混同されているからこんな結果になるんだろう。
隣人は目も出さぬまま摘まんだグミをしげしげと眺めて、二粒同時に放り込んだ。
「おいしいね」
「そりゃよかった」
どうやら、大分お気に召したらしい。大袋だったので、時間がある時にでも、全部開けてやった方がいいだろう。
そんなことを考えながら、ライムの検索画面を閉じる際に、最近調べたばかりの役所のページが表示されて、つい手が止まった。
あれから、神藤さんの言葉を受け、祖母の戸籍謄本を取りに行った俺は、本籍地である千葉の役所宛に必要書類を郵送した。記録にある住所であって、必ず現在の住まいに辿り着くとは限らないそうだが、一定の年代で存命ならほとんどの確率で現住所だろう、という話だった。
返送にはしばらくかかるそうだが、何にせよ、伊乃平さんが帰ってこないことには解決の手立てもないので、どうにかそれまでに確認できればよい、と思うことにしておく。
父にしても祖母にしても、今になってあの人以外の親族と関わることになるとは思わなかった。
俺にとっては、この世に存在する〝家族〟というのは、あの人と俺の二人しかいなかったのだ。少なくとも、あのアパートにいる内は、あの人にとっても同じだっただろう。
薄暗いアパートに住んでいた頃が、もう何十年も昔のことに思えてきて、そんな風に思える自分の感覚がまた、奇妙で仕方なかった。
気づいた時には口から溜息が落ちていて、それと同時に、隣から響いていた鼻歌が止まった。
どうも、おざなりに聞いていたと思われたかもしれない、と目を向けると同時に、少し素っ気ない声が響いた。
「あのねえ、ナギミヤに戻してもいいよ」
「……なんだって?」
不意に聞こえてきた言葉の意味が理解できず、本当にただただ聞き返してしまった俺の視界で、隣人は何を思うでもない様子でゆらゆらと身体を揺らしていた。
思いついたから言ってみた、というように聞こえた。
「ミホが死ぬか、ナギミヤが死ぬかなら、ナギミヤがいいでしょ?」
「…………」
いいか、悪いか、で問われたのなら、どちらも答えたくはなかった。
自分の選択で人が死ぬかもしれないという事実そのものが嫌だった。それこそ、それならまだ、自分の方がマシだと思えるくらいには。
いや。どうだろうか。もしも、仮に、凪宮さんの代わりに死ななければならない、という状況になったりしたら、それは流石に。嫌かもしれない。
死にたくないとは思っている。ただ、生きたいとまでは思えていない気がしているのも確かだった。
その二つは割と似ているけれど違うものだし、俺にはその違いに辿り着くまでの何かが足りないんじゃないか、とはずっと思っている。
「……どっちも、嫌な場合は?」
「ジュリナをユキにする」
また知らない名前が出てきた。が、これについてはなんとなく分かる。ユキ、というのが澄江由奈の母親の名前なのだろう。あの人は澄江由奈の母親になった筈だが、今はそうではなくなってしまった。
澄江由奈はそれはもう寂しがっている様子で、近頃は手紙を書くこともなく、ただただ玄関ポーチの辺りに黒い涙の池が出来ている。排水口に流れていっているが、あれは、どうなんだ。流れてしまってもいいものなんだろうか?
「してもいいよ」
よくないだろうな、とは思った。別に、グミの礼だと言うわけでもないだろうし。
もしかしたら祖母は、俺が考えているよりも危ない状態なのかもしれない。伊乃平さんに頼んでいたら間に合わないんだろうか? いや、でも、それならきっと、戻ってくるかどうかなんて気にしていなかった筈だ。あの賭け自体が、本当にただ面白いと思って口にしたものだということも考えられるけれども。
この場合、どう判断するのが正しいのだろう。いや、まあ、その判断の先にある選択肢自体に、そもそも正しいものがあるかも分からないのだが。
「しなくてもいいよ」
視線を向ける俺の前で軽い調子で呟いた隣人は、グミの大袋を此方の手に渡して去って行った。
とりあえず、開けておいてね、の意であるのは確かだった。
***
翌週。休暇を取ったという神藤さんと予定を合わせて、岩手の××神社へと向かうことになった。
少し山を登るから歩きやすい格好でね、との言葉を貰ったが、革靴以外にはいつものスニーカーしか持っていないので、ほとんど普段通りである。神藤さんは普段のきっちりした服装と比べると少しラフな格好だった。
新幹線を降り、駅からレンタカーで目的地に向かう中、ハンドルを握る神藤さんが口を開いた。
「前に一度だけ聞いたことがあるんだけど、兄は元々、異界を探すのが目的で今の仕事をしているみたいでね」
「異界……ですか?」
異界を探す、という現実味のない響きに面食らう俺の前で、神藤さんも曖昧な様子で頷いた。異世界、みたいなものが本当に存在するんだろうか、などと考えたところで、頭の片隅に、いつぞやに隣人から聞いた、「イノヒラはきさらぎ駅が好きだよ」という言葉が浮かんだ。
その後に、別に伊乃平さんは好きでも嫌いでもないらしい、とも聞く機会があったので、隣人の思い込みか何かだと思っていたのだが、あれは、きさらぎ駅そのものが、という話ではなく、異界にまつわる話が、ということだったんだろうか。
あれだけ色んな怪異が存在するような場所なのだから、それこそ異界に関わるような階もあるに違いない。
隣人いわく、伊乃平さんは年明けくらいしかマンションには寄りつかないそうなので、目当てのものは見つからなかったのかもしれない。
ともかく、伊乃平さん自身は明言こそしないものの、あんまりにも連絡が取れない時には大体、異界――というか、それに近いものに関わっている最中であるらしい。つまり、今現在もそのような状態で連絡がつかないのだろう、というのが神藤さんの予測だった。
ただ、ややこしいことに、ごく普通の理由で連絡が取れない時もあるそうだ。たとえば、充電が切れているだとか。返信を面倒がっているだとか。
少し呆れた様子で付け足した神藤さんは、それでも、隣人の反応も見る限り、今回の件はそうではなさそうだと思っている、とも続けた。
「詳しくは聞いていないんだけど、マンションに関わったのも、その都合絡みらしいからね」
「そうなんですか?」
「何処かの部屋を見せてもらいたかっただけで、管理までするつもりはなかったみたいだけれど。困っているところにちょうど兄さんみたいな人が来たから、そのまま協力してもらいたくなったんだろうね」
「ああ……それは確かに……」
あんな奇妙なマンションを管理している割に、大家さん自身は特別そういったものに詳しい訳ではないようだった。困っているところに伊乃平さんのような人が来てくれたなら、力を借りたくもなるだろう。
現在進行形で伊乃平さんの力を借りようとしている側の人間からすれば、非常に共感出来る状況だった。
「あそこに見える山に、小さな社があるんだ」
停めた車から降りた神藤さんが、視界に見える山を指さした。近くに他に停まっている車が見えない辺り、観光目的で訪れるような人は滅多にいなさそうだった。
天候を確かめるように空を見上げてから歩き出した神藤さんの後について歩くことしばらく。思っていたよりも深い場所だな、と思ったところで、丸木を埋め込んだ階段の手前で神藤さんが此方を振り返った。
「ここを登った先だよ」
急斜面に段を掘って、丸木を埋め込んだ形の階段だった。手すりはない。多分だが、俺が想像するよりも、随分長いと見える。
神藤さんと俺の間で、『少し』という言葉の認識に齟齬があるかもな、と今更ながらに思った。
運動不足が祟っている。俺よりも神藤さんの方がよっぽど健康的な生活をしているのは想像に容易い。
こんなことなら、近所にあるジムにでも通っておくべきだったかもしれないな、と思った。情けないことに、既に息が切れ始めている。
「連絡――手段ってのは、神社のことなんですか?」
「僕はそう思っているんだけど……どうだろう、もしかしたら間違ってるかもしれない。付き合ってもらってるのに、曖昧でごめんね」
「いえ。元々、来る予定ではあったので」
いつ、とは決まっていなかっただけである。神社について聞いた時の神藤さんの顔からして、どうも、俺が気軽に行けるような場所にはない予感はしていたのだ。全く間違っていなかった。
景色を眺めているような顔をしつつ少し立ち止まり、大きく息を吸う。
「ち、小さい頃に遊び場にしてたって言ってましたよね」
「そう。兄が一緒にいないと来てはいけないって言われてたけど……まあ、慣れた頃には無視していたね」
前方を行く神藤さんは昔を懐かしんでか、小さく笑った。まだまだ余裕の様子である。数段空いてしまった間を埋めるように、後を追う。
見た目だけだと全くそうは思えないが、伊乃平さんは神藤さんの十個上だと聞いている。年が離れている兄弟だからこその思い出が沢山あるのだろう。生憎と俺は一人っ子なので上手いこと想像は出来なかったが、少し羨ましいなとは思った。
階段を登った先にあったのは、手入れもされていないらしき無人の神社だった。
古びた社の手前に、苔むした階段が数段ついている。名を示すものが何処にもないので、何を奉っているのかはさっぱり分からなかった。
神藤さんは少し緊張した面持ちで社を眺めると、周辺に生えている木々を見回した。
「此処でお願い事や相談をすると、どういう訳か兄がそれを知っていたことがあってね。声に出さずに神様にだけ伝えるつもりで話したことなのに、どうして知っているのか、いつも不思議だったんだ」
クリスマスや誕生日のプレゼントの希望から、親に心配を掛けまいと黙っていた、乱暴をしてきた上級生の名前まで知っていたらしい。おかげで、神藤さんは随分と長くサンタを信じていたそうだ。
なるほど。神藤さんがこの神社が連絡手段になりうる、と判断した理由が、俺にも少し分かった。
「神社の話になった時に、『神藤伊乃平さんが助けてくれました』って報告しておいてくれって言われたんですけど……それが伝わった方が嬉しいような相手が此処に、えーと、いらっしゃるってことなんですかね」
「そうだといいな、とは思ってるんだけどね」
あまり自信がなさそうに微笑む神藤さんと共に、社に目を向けてみる。
穏やかな空気が流れる、落ち着いた場所だとは思ったものの、何か特別なものがいるようには見えなかった。
まあ、黒い皮膚を持つ謎の化け物だとか、顔だけが浮いている少女だとか、謎の肉の塊がはっきりと姿を現していることの方がおかしいに決まっているので、そういったものを求めるのは違うんだろうが。
隣に並ぶ神藤さんと共に手を合わせて礼を取り、頭の中でお礼を告げる。
神藤伊乃平さんに助けていただきました、ありがとうございます――と伝えてから、他に何か言っておくべきだろうか、と迷う。
伊乃平さんに何か連絡ができるとしたら、それは神藤さんしかいないので、俺がお礼以上の何かを伝えても余計な真似になるだろう。素直に、真剣にお礼だけ伝えておくことにした。
目を閉じている間も、開けてからも、特に何か起こるようなことはなかった。劇的なことは何もない。
隣を確かめると、目を開いた神藤さんはしばらく社を眺めた後、少し不安げにしながらも、俺に声をかけて踵を返した。
急な階段というのは、降りるときの方が大変なものだ。苔むした丸木なら尚更である。
恐る恐る、及び腰で降りる情けない俺とは違い、神藤さんは慎重ではあるもののスムーズに降りていく。
「ありがとう。一緒に来てもらえてよかったよ」
「いや、そんな、お礼を言うのは俺の方というか……」
「思い出の場所ではあるんだけれど、ちょっとね」
苦笑を浮かべる神藤さんが何を思っているのかは分からないが、何か大事なことなのだろう、とは思った。
車に戻ってからすぐ、神藤さんは手にしたスマートフォンでトークアプリを開くと、小さく息を吐いた。一分ほど経ってから、再びの謝罪と共に、そっと俺の方向に画面が向けられる。
既読はついたようだが、返事はないようだった。どうやら本当にあれで何やら伝わった、らしい。偶然ではないだろう。
「少し待つことになってしまうと思うんだけど……本当に猶予がなかったら、流石にすぐに返事をくれると思うから」
「大丈夫、だと思います」
自信を持って肯定は出来なかったが、そうだと信じたいという思いも込めて頷いておいた。
参拝から三日ほどして、神藤さんから連絡があった。
今週中には帰ってくるそうで、軽く話は伝えておくとのことだった。




