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高良家 ー高良美帆ー

1/2


 母のような親にだけはなるまい。初めの子供を授かった時に、喜びよりも先に決意のような嫌悪が湧いたのを、今でも後悔している。

 愛した人との子供を宿したのだから、胸に抱くのは心からの祝福だけでありたかった。


 一人目の子供である真奈美が三歳になった頃、早く二人目を作りなさい、と母から言われた。出産直後には「二人目はどうするの?」という問いかけの形を取っていた筈だが、痺れを切らしたように告げられたそれは提案ですらない、命令だった。

 あまり考えたくはない選択だった。私は悪阻が重く、一番酷かった時期には、近場に住む義母の世話になることでようやく生活を成り立たせていた。真奈美だけでも手一杯だというのに、これ以上の負担は私には難しいものだと分かっていた。


 一人っ子じゃ可哀想でしょう、と母は言った。何かあった時に弟妹がいないと大変だもの、と諭すような口振りで執拗に繰り返した。


 母の言葉が心からの純粋な忠告であるとするならば、母は、姉に何かあった時のために私を産んだのだろうか。姉の助けにするために産んだというのだろうか。

 ぞっとする考えだった。私の生そのものが姉のために用意されたものだなんて、あまりにも悍ましい考えだ。

 母は単に、頼れる親族は多い方が良いと言っているだけだ。どう足掻いたって親が先立つのだから、助け合える者は多い方が良いと諭しているだけだ。そのように納得させようとして、納得に足る材料がそもそも存在しないことに気づいた。

 果たして、私が姉に助けられたことなどあっただろうか?


 人生の答え合わせが始まっているかのようだった。ようやく落ち着いた生活が脅かされているような錯覚がして、目眩と吐き気がした。

 遠方から口ばかり出してくる頼りにならない母に、人生を定められる謂れなどない。ただ、それでも二人目を望んだのは、近くで助けになってくれていた義母もまた、言葉こそ違うものの同じ考えのようだったためだ。

 その義母も、私が珠璃奈を授かってから少しして事故で足を悪くしてしまい、義姉夫婦の家へと移り住むことになった。


 珠璃奈、と名付けたのは私ではない。母が、姉の郁佳《ふみか》に名付けさせると決めてしまったのだ。『お姉ちゃんは子供が産めない身体なのだから、そのくらいは譲ってあげなさい』と、普段は近づきもしないのに、くだらない説得をする時にはわざわざ新幹線まで使って訪ねてきた。

 母にとっては、どうして私が想像力を働かせて自らそのように申し出ないのか心底不思議で、不愉快に思っているようだった。

 気の利かない子、と面と向かって言われたが、私の姉が子供を産めないことと、私の子供に姉が名前をつけることにどんな関係があるのか、不思議でならなかった。不可解で、不快で、気味が悪かった。それでも結局は母の言葉に異を唱えられず、結局二人目の名前は姉の郁佳《ふみか》が名付けてしまった。自分の意見が通ると信じて疑わない人間を相手に何時間も、それこそ何日も戦えるだけの心の余裕は、その時の私には残っていなかった。


 母は、自分を絶対の正義と信じて疑わない人だった。頼りない父を引っ張り家を取り仕切って私たち姉妹を育て上げたのだから、自分以上に立派な母親は居ないと固く信じていた。

 私が母を反面教師にしていた、と聞いたら、母は何を思うだろうか。母に劣る私が負け惜しみを言っていると笑うに違いない。想像に容易い。

 母は、自分が全幅の信頼を置く姉の言葉以外は、何もかもが戯れ言だと思っている。父の諭すような言葉が届いたことは一度もないし、私が告げた正論はただの反発に聞こえている。自分にとって都合よく整えられた世界で生きている人だった。


 母がどうしてそこまで姉ばかりを大事に思うのか、理由は明白だった。


 姉の郁佳は父と母の顔からよいところばかり集めて出来たような顔立ちで、私はその真逆だった。父母の悪いところばかり集めて生まれたのだから、当然、視界に入るだけでも辟易したことだろう。好ましく思えない部分ばかり持ち合わせた顔で、性格まで合わないとくれば致命的だ。


「器量が悪くとも愛嬌があればいいけれどね。美帆はどうも――なんだろうねえ? あの子って、すごく鼻につくのよ。大した頭も持ってないくせに、自分を賢いと勘違いしてるの」


 ああいうのはどう言えば治してやれるんだろうね、と母が父に愚痴を零しているのを耳にしたことがある。

 何よりも残酷な現実として、姉は私よりも優れた人間だった。成績も容姿も私が敵うところなどなく、母が姉ばかり褒めそやすのも理解出来てしまった。父は早々に諦めて、家に寄りつかなくなった。


 夫はあまり要領が良いとは言えない人だが、家族思いの優しい人でもあった。不満はない。私と母の間にある淀んだ歪みについても、彼から触れられたことはなかった。寄り添われると一際惨めになるのだと分かっていたのだろう。

 義母の方が、実母よりもよほど私を助けてくれた。優しい人だった。こういう優しい人が育てたから、夫も優しい人に育ったのだろう。

 私は恵まれている。頭では分かっているのに、心には常に不安がへばりついていた。


 珠璃奈が我が儘を言うたびに、私は恐怖を抱いていた。〝娘〟を育てている気などしなかった。姉の分身に振り回されているような気分だった。それでも私は、娘に出来る限りのことをした、と自負している。

 声を荒げることはあれどあくまでも躾の範疇であった(これは、誰に聞いてもそうだと言われたので間違いがない)し、望むものを与えられるよう尽くしてきたし、真奈美との扱いで差をつけたことなどなかった。

 私は珠璃奈に、真奈美のように落ち着いた子になってほしかった。私が彼女を愛した分だけ、安心させてくれる材料を返してほしかった。


 珠璃奈が家を出ていった時に、安堵しなかったと言えば嘘になる。出来る限りの手段で探そうと試みて、結局突き止めるのは難しいとなった時に、私は確かに、諦められることに安堵したのだ。

 珠璃奈を正しく幸せな道へと導くことが、私の正しさを証明する手立てになると信じていた。けれども、これが一生続くのだと思うと、それこそ、ぞっとした。


 珠璃奈が家を出たと知っても、姉は身勝手な物言いで放るだけだった。あれだけ可愛かったらなんだって上手くいくでしょう、と。名前をつけた後はろくに興味も持たず、時折身勝手に、華やかな生活をする伯母として振る舞いに来るだけで、一度として珠璃奈のためになるようなことなどしなかった。


 あの子の夢を応援する気持ちがなかった訳ではない。けれども、仮に、珠璃奈が自らの望むように華々しい舞台に立てたとして、到底長続きするとは思えなかった。

 はっきり言ってしまえば、あの子はあまり、賢い子ではなかった。そんなところばかりが私に似てしまった。賢く、上手く立ち回っているつもりで、気づいた時には取り返しがつかなくなってしまうのだ。


 だから、家の中で〝珠璃奈の頭〟を見るようになった時にも、ああ、きっと、碌な死に方をしなかったのだ、と思うだけだった。実の親にも、亡くなったことすら伝わりようがない死に方をしたのだ、と。

 あの子の頭は縦に割れていて、半分しか残っていなかった。あんなに愛らしく美しかった顔が、目も当てられない程に醜く歪んで、崩れてしまっていた。


 何処か遠くで幸せにやっているのだ、と思いたかった。そう考えることで、何かしらの罰から逃れようとしていた。

 私は痛いほど理解している。珠璃奈は私に似て賢くはないのだから、普通に過ごして、おおらかな夫を見つけて、なるべく難しいことはしないで、日々を健全に過ごす生活を手に入れるべきなのだと。

 私は決して珠璃奈に不快な思いをさせる言葉を吐くつもりはなかった。私の母のように、自分を惨めに思わせるような扱いをしたことはなかった。あの子を危ない目に遭わせたくなかった。


 ようやく帰ってきたあの子に、何か言葉をかけるべきなのだと思った。

 建て替えた二世帯住宅には夫と娘夫婦と孫娘が住んでいたが、その誰もが珠璃奈の顔を見ることはなかった。私だけが、突如現れたそれに怯えていた。

 暗がりから這い出てくるように宙に浮くそれを見て、気が触れる前兆だと自分を疑った。こんな話をしたら、みんな私がおかしくなったと思うだろう。けれども、一人で口を閉ざしているのには耐えられなかった。


「珠璃奈がいる」


 瞬く間に挙動不審になった私を心配する真奈美に、勇気を出してそう訴えた時、真奈美は私を落ち着かせるように、ゆっくりと言葉を選んで話をした。


「お盆に、久々に珠璃奈の話をしたでしょう。そのせいで変に思い出してしまったんじゃない?」


 そんな筈はない、と思った。

 その言葉が本当だとしたら、あの、悍ましいほどに鮮明な顔はなんなのだろう。半分に割れてしまった頭は、私の脳の何処から想像したものなのだろう。私はあの子の顔が崩れることなど想像したことはない。望んだこともない。


 本当にそうだろうか。


 珠璃奈は美しかった。私はあの子と顔を合わせる度に、自分が馬鹿にされているような気がしていた。写真を撮るために共に並ぶ度、恥ずかしくなって逃げ出したくなった。小さな手が必死に私の手を握る時、握り返すのがどうしてか苦痛で、たまらなく自分を恥じた。

 私は珠璃奈が妬ましかった。それがかつての姉への感情による想起だと自覚していた。母のような育て方だけはするまい、と誓った。

 私は間違いなく珠璃奈に愛情を注いでいた。それがあの子の望む形ではなかったとしても、今は締め付けられていると感じたとしても、いつか必ず、私の本当の愛情が伝わる筈だと信じていた。

 だって、あの子は姉とは違うのだから。私の娘なのだから、必ず、私の諭した道が最適で最良なのだと理解してくれる日がやってくると信じていた。


 本当に、そうだろうか?


 視界に映る崩れた顔の、不格好に開いた口からは、碌に言葉らしきものが出てくる気配はなかった。それは、そうだろう。舌がない。あの子の、崩れた顔の残りと、身体は何処にいってしまったのだろう。それが戻ってきたら、昔のようにしゃべり出すのだろうか。私を責める言葉を吐き出すのだろうか。


 ごめんなさい、と言ってみようとして、喉が引きつったようになって欠片も言葉に出来なかった。そうは思っていないから? 本当は申し訳ないなどとは思っていなくて、死んで清々したと思っているから?

 そんな筈はない。私は此処まで崩れ果てた顔を見ても、それが自分の娘だと分かったのだから。


 珠璃奈は泣いていた。恨めしそうに私を睨みつけながら、涙を零していた。


 家の鍵を閉められなくなった。扉を常に開けておかなければ、と不安になった。窓を閉められず、扉を閉められず、施錠される度に心が張り裂けそうになった。どうしてそんな風になってしまうのか考えて、考え抜いて、戻ってくるかもしれない、あの子の残りの身体を待っているのだ、と気づいた。

 鏡を恐ろしく思った。窓を恐ろしく思い、テレビを恐ろしく思い、鏡面として働きそうなものは全て耐え難くなった。生活がままならない。


 何度か真奈美に病院へ連れて行かれたが、異常は特に見られなかった。何か見つかった方がまだ良いと思えた。私が異常(・・)なのだと客観的に判断できる材料が欲しかった。少しも見つからず、私は間違いなく健康であった。今この時は。


 恨めしげに此方を見つめる珠璃奈が恐ろしくてならなかったが、同時に、同じくらい哀れにも思った。私がもっときちんと育てていたら、こんな有様にはならずに済んだかもしれない。

 あの子があと少しでも、姉さんに似ていなかったなら。あるいは、真奈美のように、私に似た子だったら。


 全てが愚かしい願望だった。私が母の言葉を拒みさえすれば、それで済んだ話だ。真奈美がいてくれるだけで十分すぎるほどに幸せだったのだから、母の戯れ言など聞き流せばよかったのだ。それが出来なかった。


 珠璃奈がいる。私を見ている。何故私なのだろう。もしもあの子が恨みを持つとしても、それは愛情を捧げた私ではなく、あの子を苦しめた存在に向かうべきではないか。

 この世で最もあの子を苦しめた存在が私だとでも言うつもりなのだろうか?


 振り払うように投げたグラスが砕ける傍らで、真奈美が恐怖に引きつった顔で私を見ていた。



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― 新着の感想 ―
気になって第一章の母の部分読み返してたらひどい疲労感を得た。こういう人だったな。
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