『蝉』
「友達から聞いた話なんだけどね」
高校生の頃の話だ。
玄関前に蝉が転がっていることが多くて困る、とぼやいている友人がいた。
夏場にはよくある話だ。友人であるNの家の裏には木々の多い公園があり、毎年のように大合唱しているそうなので、遭遇率も高いのだろう。
死んでいるものと思った蝉の傍を通ったら、まだ息のあったそれが勢いよく飛んでくる、なんて経験は友達も何回もしていた。
開けた道で遭遇しても嫌なのだから、それが必ず通らなきゃならない玄関に頻繁に転がっているなんて、気が滅入る話だった。
地面に転がっている蝉は、脚を閉じていれば死んでいるらしい。
飛びかかられる度に調べるものの、少しするとどちらだったか忘れてしまうのが常だった。
Nにとっては当然の知識だったようで、脚が、という話をした時点で苦笑が返ってきたそうだ。
Nの家の玄関には、蝉を追い払う用の箒が置いてあるらしい。
死んでいればそのまま掃いてゴミに出すし、生きていて飛ぶようなら自分の方に来ないように追い払う。
流石に慣れてきた、とNは笑っていた。母親と姉が大の虫嫌いなので、父が出てしまった後は、彼が片付けをさせられるのだそうだ。
寝ている時には叩き起こされるのだと参ったように言うのを聞いて、友達も笑った。
そんな笑い話をしてから少し経った頃、Nから、家に遊びに来ないかと誘われた。友達が聞いていた蝉の話を思い出したのは、玄関先に転がる数匹の蝉を見てからのことだった。
脚を見るに、どうやら全て死んでいるらしい。踏まないようにだけ気をつけて家へと上がる。
飛んでこないにしても、これだけあると流石に嫌な気分になるな、と零した友達に、Nは少し妙な顔をした。
「最近気づいたんだけどさ、ちょっとおかしな形してるのが混じってるんだよな」
Nはそう言うと、中くらいのサイズの白いレジ袋を取り出した。
何度か使っているのか皺の多いそれの底の方に、薄らと小さい影が固まって透けている。
彼がゴミとして集めたらしい蝉の死骸であることには、すぐに気づいた。数匹が転がっているだけならまだいい。ただ、こうして集められていると、素直に気持ち悪いとは思った。
やや身を引いて様子を窺っていると、Nくんは玄関の三和土に置いた袋から、干からびた一匹を取り出してみせた。
「ほらこれ、羽化しきってないんだよ」
見せてくれた蝉は確かに、身体の下半分が抜け殻に収まっていた。あまり覚えの無い形状をしている。
Nの説明によると、羽化する際に失敗してしまった蝉はこういう形で死んでしまうことがあるそうだ。鬱陶しく思うくらいに蝉の声を聞いているとそうは思えないが、羽化自体、成功率は半々くらいなのだという。
へえ、と思いながら聞いていた友達の前で、中途半端な形の蝉が袋に戻された。
あの袋の底に溜まっている影は、全て同じような形の蝉なのだろうか。別に見たいとは思わなかったので、友達はNに話の続きを促した。
見慣れない状態の蝉が転がっているのは分かった。ただ、それをどうしておかしく思うのかは分からなかった。羽化は失敗しやすいというのだから、蝉の多い場所ならよく見るものなんじゃないか、と思ったのだ。
不思議に思う友達の前で、Nは説明を続けた。
「羽化に失敗したような奴ってその場で落ちちゃったり、飛べないままそこで死んだりするらしいんだよ。うちは庭ないし、家の前は羽化につかえるような木もないから、これって変だと思わないか?」
つまりNは、飛べもしない蝉が玄関先まで来ているのはおかしい、と言っているのだった。家に来て欲しいと誘ったのは、友達にも玄関先の状況を見てほしかったからだろう。
「飛べないやつらに関しては、誰かがわざとうちの前に置いてるんじゃないかと思うんだよね」
Nが言った通り、彼の家の周りは蝉が潜るような土はないし、木も生えていない。ただ、郵便ポストから玄関扉までの間に蝉が数匹落ちていたのは、友達も自分の目で確認した。
脚を確認した時の記憶を思い出すに、友達が目撃したものは全て羽化しきっていた。Nも、そうではないものを確認したいと思って、袋に集めているのだろう。ただ、証拠とするにも、原因を探るにも、わざわざ死骸を集める意味は少し分からなかった。
防犯カメラがあるのだから、嫌がらせのつもりで置いている人間がいるならそれで見られるんじゃないか、と言った友達に、Nは首を振った。
「うちのカメラ、ダミーなんだよ。知りたいなら見張るしかないけど、俺の部屋からは見えないし、玄関で待ち伏せてるのも変だし」
語り口を聞くに、Nも本気で犯人を捕まえようと考えている訳ではなさそうだった。捕まったら嬉しいが、そこまで頑張りたい訳ではなさそうな様子に見えたという。
それにしては丁寧に死骸を集めているのが気になったが、尋ねた友達に、Nは軽い調子で答えた。
「これ? もし犯人見つけたら突き返してやろうって思ってさ」
わざと持ち込まれているかも、と思った時点でそう決めていたそうだ。袋に詰められた死骸を見た時は正直少し気持ち悪く思ったが、そういう理由なら、気持ちは分からなくもなかった。
次にNから蝉の話を聞いたのは、一月後だった。
死骸を集めていた袋は、あのあとすぐに母親に見つかって処分されてしまったらしい。驚いた母親が尻餅をついて腰を痛める事態にまでなったそうで、今後は蝉を集めるのは禁止になったと話していた。
「高校生にもなって馬鹿な真似しないで、って怒られちゃってさ」
普段は叱られてもあまり響いていない様子のNだったが、珍しく落ち込んでいる様子だった。勝手な話だが、せっかく集めた死骸を処分されたのもショックだったのかもしれない。
結局犯人は見つからなかったのか、と尋ねた友達に、Nは少し迷ってから、ぼやくような口振りで語った。
何度か見張ってみたものの、決まって人目のない時に落ちているらしい。Nが玄関先に居座るのを見て、また集めるつもりかと怒り始めた母親に事情を説明したところ、呆れたように、とある話を聞かされたそうだ。
「あんたがそうやって遊んでるから、恨みでも買ったんでしょって言われたんだよ。なんか俺、子供の頃に羽化前の蝉で遊んでたことがあるらしくて」
母親の話によると、Nは小さい頃、裏の公園で遊んでいた時に羽化途中の蝉を見つけて、無理に抜き出そうとしたことがあるらしい。
結局、無理に手を加えられた蝉は気づいた時には死んでしまっていたそうだ。母親は元から虫嫌いで、どうしても触ることが出来ず、そのまま脇に避けて帰ったらしい。
母親としては、本気でそんな風に考えて口にした訳ではないのだろう。ただ、聞かされた側のNとしては、少し思うところがあったようだった。
「犯人に渡してやろうと思って集めてた、って話しただろ? 今思うとさ、最初に拾った時から、なんかそうしなきゃいけない気持ちになってたんだよな」
その『犯人』が自分自身かもしれない、とは考えていなかったのだろう。
Nはそれからも夏になると少し浮かない顔をしていたが、起こることと言えば、家の前に蝉が転がるだけである。それ以降、蝉の話を聞くことはなかった。
Nから再び蝉の話をされたのは、就職して数年が経った頃、結婚するつもりだった彼女と別れた、と聞いた時だった。
彼女と同棲していたマンションの部屋の前に、おびただしいほどの蝉の死骸が転がっていたらしい。その全てが、羽化に失敗したものだったそうだ。
「それは今まで通り普通に片付けたんだけど。その後しばらくして、彼女が妊娠してたのが分かってさ」
彼女からその話を聞いた時、Nの頭には、部屋の前に転がっていた蝉の死骸が浮かんだそうだ。集めなければ、と感じたのと同じくらい自然に連想されたのだという。
Nは、彼女と別れた経緯について、詳しくは語らなかった。友達も、深くは聞かなかったそうだ。ただ、蝉の話を彼女にしても何の言い訳にもならないと分かっているから、こうして友達に話しに来たのだろう、とは思った。
それからNとは疎遠になってしまったが、道に落ちている蝉を見ると、今でもたまに彼のことを思い出すのだという。
「怖かった?」
「ああ、怖かったよ」
蝉に恨まれるのも、蝉に恨まれることで不幸になる人間がいるのも、随分と嫌な話だった。
こういう時、こいつの話は嘘だと分かっているからまだいいな、とは思う。蝉に呪われたNくんも、幸せになる筈が別れを切り出されたNくんの彼女も存在しない。蝉に一際恨まれてしまったのだろう、二人の子供も。存在しない。
少しはマシだというだけで嫌な気分にはなるのだが、それはそれだ。こいつは一応、怖い話をしようと思って話している。
「なんていうか、Nくんだけがそういう目に遭っているってのが嫌だよな。同じようなことをした奴はいくらでもいそうなのに」
数年を土の中で過ごして、ようやく出たと思ったら人の手で失敗させられるなんて、蝉からすればいい迷惑なのだから、恨むのもおかしくはないと思う。
虫に恨み辛みなんて感情があるかは知らないが、害虫の怪異がいるのだから、蝉にも一際強い恨みを持つ個体だって居てもいいだろう。
それでも、幼い頃の一度の過ちが人生につきまとう呪いになるのは流石に釣り合いが取れない気がしてしまうのは、相手が虫だからなのだろうか。
元々、羽化自体があまり成功しないとも言われていたからかもしれない。もしもNくんが何もしなかったとして、そいつが綺麗に羽化出来たとも限らない訳で。
そんな風に思いながら、少しぼやくように言った俺に、隣人は手遊びのように指を揺らしながら答えた。
「それはもう、運だね」
「運かあ……」
運の話になるのなら、ある意味では蝉もNくんも平等ではある。そこまであっさり言い切られると、逆に諦めがつくような気がした。
人生において、過ちに見合わない報復を受けることなどいくらでもある。それこそ、化け物みたいになってしまったあの人だって、そうだったろう。
半分に割れた頭と、長く伸びた舌を思い出しかけたせいで、浮かない顔になるのが自分でも分かった。
どうにかして思考から追い払おう、と逃げ場を探す。逃げ込んだ先では、別の生首が浮かんでいた。肩におじさんの顔が、という言葉を思い出す。
「……あのさ」
「うん?」
「俺の肩におじさんの顔が浮いてるって言われたんだけど」
「へえ、やだね」
ちょっと面白がるような響きだった。完全に他人事だった。まあ、隣人からすれば他人事以外の何物でもないのだが。
思わず無言で目を向けてしまった俺の視界で、管状の口が首でも傾げるように緩く傾く。
「あれ。タカヒロはやじゃない?」
「いや、俺だってやだよ」
勿論嫌だよ。知らんおっさんの顔が浮いているのも嫌だし、知ってるおっさんの顔が浮いてるのも嫌だよ。そもそもおっさんでなくても嫌だ。
お首を持ち歩いて動物園にも行ったことのある身としてはあまり説得力がないかもしれないが、あれは一応、ご近所さんである澄江由奈の首だから連れて歩く覚悟が出来たのであって、わざわざ首と縁など持ちたくない。
「一応聞くけど、これってナギミヤとかいう人なんだよな?」
「顔はね」
「…………顔以外は分からないって話か?」
「顔はそう」
情報は一切増えなかったが、少なくとも父親であることは確定したのはありがたい話だった。
知らないおっさんに恨まれているかもしれない、という不安はなくなる。知りもしない父親に恨まれているかもしれない、という不安は生まれたが。
「頑張ってるね、ナギミヤ」
「……何を?」
「いろいろ」
なんとも思っていないような声で告げた隣人が、挨拶を残して自室に引っ込む。
どうやら、俺の父親はいろいろと頑張っているらしい。多分、あんまり良い方向に働く頑張りじゃないんだろうな、とは思った。




