ぬいぐるみ
八月頭の晴れた日、俺はとある雑貨屋に来ていた。
以前に、澄江由奈に贈った兎のぬいぐるみを購入した店である。地を這うように動いていたあれは、『元気に動いている命』として身代わりになってしまった。元は害虫騒ぎのお詫びとして贈ったものを此方の都合で譲ってもらってしまった形になるので、更なる代わりの品を用意しよう、と思った次第だ。
ただ、グミなどとは違って、形の残るものをあまり頻繁に贈るのはよくないそうだ。少し間を空けようと思っている内に神藤さんと顔を合わせる日になったので、約束の前に雑貨屋に寄ることにした。
軽く覗いた限り、以前に来た時とさほどラインナップは変わっていない様子だった。ぬいぐるみが並べられた棚へと赴き、以前に購入したものと同じ兎を手に取る。
芸が無いと思われるかもしれないが、手元に置くならやはり好きな生き物が良いだろう。
……また動き始めたらどうしようかな、という点については心配はあるが、その場合は俺が勝手に目を逸らしておけばいいだけである。重要なのは、これが感謝の思いを込めた贈り物であるという事実だ。
肉塊に連れ去られた少年を取り戻すことが出来たのは、澄江由奈のおかげだ。本来は弧見さんを連れて行くつもりだった肉塊の代わりにさせられてしまったのだから、あのままにならずに済んでよかった、と思う。弧見さんにとっても友達が無事でよかっただろうし、俺にとっても、連れてきた少年が変に巻き込まれずに済んでよかった。
『凪宮愁一』の住所を残して去って行って以来、弧見さんからの連絡はない。そもそも彼は自分の興味がある事柄と自分が不利益を被る事態以外では全く連絡が取れないタイプなので、二人とも元気でやってるんだろう。
灰色の柔らかい毛並みのぬいぐるみが入った袋を受け取り、店を出る。日除けのために被ったキャップはどうも力不足で、時間よりも早くついてしまいそうだったが、待ち合わせているファミレスに向かうことにした。
先に入って待っているつもりでいたのだが、踏み入れた店内には既に神藤さんの姿があった。その対面には、ワンピース姿の、見覚えの無い女の子が座っている。
娘さんだろうか? と考えてから、聞いていた年齢と違うな、と気づいた。何度か頭を下げた少女が席を立ち、ちょうど、出直した方がいいか迷いながら足を進めていた俺とすれ違いそうになった、その時。
目を見開いた彼女が、俺の前で突然体勢を崩した。膝から力が抜けたような様子を見るに、どうやら、貧血か何かを起こしたようだった。
反射的に、支えようと手を伸ばしたところで、此方を見上げる彼女と目が合った。
「き、気持ち悪い……」
体調の不良がそのまま言葉に出たのかと思っていたが、彼女の目は、しっかりと俺を捉えているように見えた。
動揺に揺れた瞳と、ばっちり視線が合っている。ので、つまりはこの『気持ち悪い』は、俺に向けられたもの、ということだ。
ぎこちない愛想笑いを浮かべた自覚はあった。バイトもあるし、初対面の人間に嫌悪感を抱かれる身なりではないつもりでいたが、年下の女の子から見ると足りなかったのかもしれない。
神藤さんの知り合いにそんな風に思われるとは。中々に気まずい状況だった。
「あっ、すみません、違います。いや、気持ち悪いのは確かなんですけど、あの、あなたがって話じゃなくて……」
分かりやすく焦った少女の声が響く。
多分、俺も気まずいし、彼女も気まずい。そういう空気を感じていた。
「すみません、変に思いますよね。でも、その、お兄さん、ちょっと……」
弁明とも何とも言えない言葉が更に重ねられそうになったその時、様子を見に来ようとした店員に会釈した神藤さんが、労るように少女の後ろに立った。
「皆村さん、一度座ろうか。お茶を持ってくるから、飲んで落ち着いてから帰りなさい」
「そんな、あの、大丈夫です」
「無理しないで。タカヒロくん、ごめんね。少し待ってもらってもいいかな」
皆村さん、と呼ばれた少女が元いた席へと座り直すのを見てから、神藤さんに促されるままに、彼が座っていた位置へと腰を下ろす。
対面で頭痛を堪えるように額を押さえている彼女は、一度だけ俺の方向を見た後、何かを諦めたように目を閉じ、テーブルに乗せた片手へと視線を逃がした。
「すみません、急に変な態度を取ってしまって」
「ああいや、別に」
「ただ、その、……顔が」
顔が、の後は言葉にするつもりがないようだった。顔が。なんだろうか、と思ってから、先ほどの言葉を勝手に拾い上げている自分がいた。気持ち悪い、と繋がる気がするし、繋げたことに対面の皆村さんも気づいたらしい。慌てて顔を上げた彼女は、微妙に俺から目を逸らしつつ言葉を重ねる。
「あ、いや、お兄さんのじゃなくて。本当に、なんて言えばいいか分からないんですけど、」
一度言葉を切った彼女は、ドリンクバーの付近で順番待ちをしている神藤さんに目をやってから、他のテーブルには聞こえない程度に抑えた声で告げた。
「おじさんの顔が浮いているんですけど、心当たりありますか」
「え?」
「変なこと言ってすみません。あの、肩におじさんが……」
肩におじさんが。そうか。なるほど。
頬に蚊が、みたいなノリで言われたが、それは確かに、『気持ち悪い』状況だな、と思った。
先程は、衝撃のあまり目を逸らせなかったのだろう。一転して、俺とは決して目を合わせようとしない――というより、俺の姿を視界に収めようとしないまま、皆村さんは気まずげに瞬きを繰り返している。
それはそうだ。肩におじさんをくっつけているような人間と遭遇したら、そういう態度になって当然である。
「心当たり……」
ない、とは言い切れないのが問題だった。かなり大問題だったことが、今判明した。『肩におじさんが浮いている』という状況に心当たりがあって良い訳がないのだが、俺にはある。多分。
ナギミヤだよ、と言って顔を見せてくれた時の隣人の写真を撮っておくべきだったのかもしれない、と少し思った。考えるまでもない話だが、そんな写真がフォルダにあるのは嫌なので、絶対に撮っておくべきではない。混乱している、と他人事のように思った。
「ええと、あるにはあるんだけど」
「あ、あるんですか……?」
聞いたのは彼女の方だと言うのに、何故か少し引いた様子だった。彼女もまさか、心当たりがあると思って聞いた訳ではなかったのだろう。きっと、『肩に浮いているおじさん』についても、俺が神藤さんの知り合いだったから教えてくれただけなのかもしれない。肩におじさんが浮いているなどと伝えて、素直に受け入れてくれる人間はそんなに居ないだろうから。
「皆村さん、気分は大丈夫?」
戻ってきた神藤さんが差し出したグラスを受け取った皆村さんが、お礼と共に小さく頷く。
何度か口をつけた彼女の顔色が少しマシになった頃、俺の隣に座った神藤さんが少女の紹介をしてくれた。
「こちら、皆村ののかさん。兄が昔、少し世話をした子なんだ」
軽く頭を下げられて、同じく会釈を返す。
「元々は兄と会う約束をしていたんだけど。三日前から連絡が取れなくなってね……」
苦労の滲む笑みを浮かべる神藤さんが何処か遠くを見るようにしながら零すのを、皆村さんも似たような笑みで受け止めた。
伊乃平さんは元々、神藤さんを通してしか連絡が取れない人だと聞いている。ただ、困ったことに、実弟の神藤さんであっても必ず連絡がつく訳ではないらしい。
「お忙しいのは知っていますから。残念ですけど、また今度にします」
「約束したのに、ごめんね」
「いえ。夏休みだからちょうどいいかなと思っただけなので」
皆村さんはそこで、神藤さんの隣に座る俺へと目を移した。
視線の意図に気づいた神藤さんが、今度は俺を紹介する。
「ああ、こちらは高良くん。七〇二号室に住んでくれているんだ」
伊乃平さんとも関わりのある子だからか、それだけで十分に伝わったらしい。皆村さんは元より丸っこい瞳を更に丸く見開くと、少し眉を寄せながら口を開いた。
「住んでるんですか? あのマンションに?」
「まあ、一年くらい」
「うわあ……」
頷く他なかったので肯定したところ、返ってきたのは極めてシンプルな呟きだった。心からの声がそのまま出てしまった響きをしていた。どうやら、思ったことがすぐに口に出るタイプらしい。すぐに手で口を押さえているあたり、自覚もあるようだった。
「すみません」
口を押さえたまま、さっぱりとした謝罪が響く。あまり真剣に悪いとは思っていないような響きだった。まあ、気持ちは分かる。俺だって、事情を知った上であそこに住んでいる人間を客観的に見たら、同じような気持ちになる。
はっとしたように顔色を変えた皆村さんは、空になったグラスを少し奥に避けると、隣に置いていた鞄を手に取った。
「ってことは、高良さんも神藤さんに相談だったんですね。ごめんなさい私、お邪魔しちゃったみたいで」
「相談? 高良くんが?」
「あれ。違うんですか? だって……」
鞄を手に立ち上がった皆村さんが視線で俺を示し、話の流れが掴めなかったらしい神藤さんがそれに倣って此方を見やる。
彼女が言いたいことは分かった。皆村さんはてっきり、俺も伊乃平さんに相談があって神藤さんと会う約束をしたと思っているのだ。
当然の予測だった。肩におじさんが浮かんでいる人間が、霊能者の弟さんと顔を合わせる用事があるなら、用件はそれに決まっている。
たとえ浮かんでいる顔は見えていなかった様子だとしても、何かしらの不調は感じていて当然だと考えたのだろう。つまりは、そう思わせるだけのおじさんが浮かんでいる、ということだ。
ただ、実際のところは何も起こっていない――と俺は思っている――し、神藤さんには何も伝わっていない。
よって、彼女が言葉を切ってから数秒の間、ややぎこちない空白が生じてしまった。
「えっ。やだ、私なんか勘違いしてますか? すみません、変なことばかり言って」
「あ、いや。多分、勘違いじゃないと思う。言いづらいだろうに、教えてくれてありがとう」
困惑のままに生じた間が気まずかったのか、青白かった顔が一転して、少し赤くなっている。せっかく教えてくれたのに、親切を無碍にするところだった。
ほっとしたように笑みを浮かべて立ち去る皆村さんを見送った神藤さんが、俺の対面へと座り直す。いつものように何か頼んでいいと言われたが、今日は遠慮しておくことにした。
「もしかして、部屋の方で何かあった? 皆村さん、そういうの少し分かる子だから」
伊乃平さんが世話をした、というからには、霊障関係で何かあった子なのだろうか。神藤さんの表情から察するにあまり詳しく聞くべきでもない気がして、俺は先ほど彼女から『肩におじさんがついている』と教えてもらったことと、それが恐らくは隣人が見せてくれた父親の顔と同じものではないか、という予測を伝えた。
「僕にはよく分からないけど、お父さんが高良くんを探そうとしているみたいだし……生き霊とか、そういうものなのかもしれないね。彼処に住んでいる限りは、そう悪いことにはならないと思うけど、兄にも伝えておくよ」
「ありがとうございます」
眉を下げた神藤さんが、少し間を置いてから俺の方へと視線を向けた。何かしらの言葉を飲み込んだ気配を感じる。
言葉にされずとも想像はつく。彼処に住んでいること自体は、悪いことにはなり得るかも、という話だ。
やはり神藤さんにとっては、あまり長く住むべきではないという思いは変わらないようだった。
俺は面接時にそんな神藤さんに対して、自分がいかに『人生がどうにかなってもいい人』であるかを説明することで入居者となった訳だが。一体、いつまで『どうにかなってもいい人』でいられるんだろうな、と思う。
なんたって、どうにかなってもいい理由の筆頭であるあの人は、もう澄江由奈にあげてしまった。俺が何を思おうと戻ることはないし、取り返せるものはないだろう。
そもそも、澄江由奈にあげるよりも前に、あの人は既に生きているか死んでいるかも分からない状態だった。なんとか様と、あと、隣のあいつのせいで。おかげで、とは言いたくはないあたりが、なんとも難しかった。
早く死ぬといいね、という声が頭をよぎる。同時に、弧見さんから貰った住所のメモも。
凪宮愁一、というのが俺の父親の名前らしい。死んだ方がいいような人間でもあるらしい。少なくとも、自分の子供が産まれると知った上で関係を切るような人間ではあるが、そこまでだろうか?
あの人は昔から、俺に父親について語ることはほとんどなかった。どころか、親戚の話すら出たことはない。他に頼れそうか存在があると知れば、自分の都合のよいように出来なくなると思っていたからだろう。
俺の父は、あの人が俺を産むつもりだと知って関係を切った筈だ。不要と判断した子供を探すような用件とはなんだろうか。
人生においてあまりに関わりのない存在すぎて、理由が全くわからなかった。分からないことを分からないままにしておくことで日々を過ごしている身としては、ちょっと対応に困る事態である。
そもそも、俺は『浮いてるおじさん』を父親だと思っている訳だが。
これで縁もゆかりもないおじさんだったらどうしような、とは思った。




