第三話 トブルク包囲
鈴木が語る「大釜の戦い」の熱狂冷めやらぬテーブル席で、レナは「あ、そうだ!」と何かを思い出したようにポンと手を打った。
「ご主人様、ちょっと待っててくださいね!」
レナはパタパタと店の奥へ走ると、ミリタリー関連の書籍や模型がぎっしり詰まった棚の最下段から、年季の入った大きめの薄型箱を取り出してきた。箱の表面には、砂漠を疾走するIII号戦車と、力強いタッチで書かれたタイトルの英字が映えている。
「じゃじゃーん! チュニジア作戦のシミュレーションボードゲームです!」
「うおっ、何これ!? こんな本格的なウォーゲームまで置いてあるの!?」
鈴木は目を丸くして箱を覗き込んだ。重厚なヘクス(六角形)マップに、細かな数値がびっしりと印刷された大量の紙製コマ(カウンター)。まさに本格的な歴史シミュレーションゲームそのものだ。
「キャンペーンシナリオは一日かかっちゃいますから、今日は『トブルク攻略戦』のショートシナリオをやりましょう!」
「いいねぇ! でも俺、こういうヘクス系のボードゲームってプレイしたことないんだよね。ルール難しそうだけど、大丈夫かな?」
「ふふ、大丈夫ですよ! 私もプレイするのは今日が初めてですから、ルールブックを見ながらなんとかなりますって!」
レナは慣れない手つきで広大な砂漠のマップをテーブル上に広げ、英軍のガザラ・ラインとトブルク要塞、そしてそこに相対するドイツアフリカ軍団(DAK)のコマをセットアップしていく。格子状のヘクスが砂漠の戦場を描き出し、小さな紙のコマがそれぞれ第15装甲師団や第21装甲師団、英第8軍の各旅団へと変貌を遂げていく。
「よし、セットアップ完了だ! 戦いの前に、ビールのお代わりお願い?」
「はいっ、只今お持ちします!」
レナがカウンターへ向かって声をかけると、セリカが「かしこまりました」と静かにジョッキを準備し始めた。冷やされた重厚なガラスジョッキに、黄金色のビールと細やかな泡が注ぎ込まれていく。
「お待たせいたしました、鈴木様。お代わりのビールで……」
セリカがトレイからジョッキを持ち上げ、テーブルへ置こうとしたその瞬間——。
——スッ。
ほんのわずかな指先の滑り。なみなみと注がれたビールジョッキが、セリカの手から離れ、重力に従ってまっすぐ床へと落下を開始した。
「あっ——!」
鈴木の悲鳴にも似た声が上がるよりも早く、時間が凍りついたかのような静寂が訪れた。
パシッ!
鋭い衝撃音が響く。 宙を舞ったはずのビールジョッキは、床に激突して砕け散ることも、中身を撒き散らすこともなく、静止していた。
立ち上がった状態のセリカの右手が、目にも留まらぬ残像のような速度で下方へ一閃し、ジョッキの右側をガッシリと保持していた。 そして同時に——座っていたレナの左手が、電光石火の反応速度で横から伸び、ジョッキの左側を寸分の狂いもなく挟み込んでいたのだ。
上空から振り下ろされたセリカの手と、横から滑り込んだレナの手。 二人の手が、まるで精密機械の挟み込みユニットのように左右から完璧な挟み撃ち(挟撃)の形でジョッキを空中で完全固定していた。一滴のビールすらこぼれていない。
「…………」 「…………」
ジョッキを挟んだまま、レナとセリカの視線が至近距離で正面からぶつかり合った。 無言の静寂の中、二人の瞳の間でバチバチと不可視の火花が散ったかのような錯覚を、横で見守る鈴木は覚えた。セリカの瞳は冷却装置がフル回転しているかのように静謐で、レナの瞳は「やっぱりね」と言わんばかりの強い疑念と警戒に満ちている。
「ふ、二人とも……ナイスキャッチ……!」
静寂を破ったのは、汗をかいた鈴木の拍手だった。
「すごいなぁ! 二人ともなんだよその反射神経! まるでアクション映画のワンシーンだよ!」
「あ……失礼いたしました。うっかり手を滑らせてしまい、大変申し訳ございません」
セリカは何事もなかったかのようにすっと表情を戻すと、レナの手が離れたのを確認してから、静かにジョッキをテーブルの上に置いた。
「いいえ、お怪我しなくてよかったです、セリカちゃん」
「レナさんのアシストがあってこそです。感謝いたします」
セリカはお辞儀をすると、静かにカウンターへと戻っていった。 だが、レナの胸の中のざわめきは収まるどころか、確信へと変わろうとしていた。
(やっぱり……只者じゃないわ……!)
レナは自分の手を見つめながら、頭の中で冷静に今の物理的現象を計算し直していた。
(私は座っている位置からだったから、落ちてくる軌道を目で追って手を出す余裕があった。でも、セリカちゃんは立っていたのよ? 立った高さから手元からすっぽ抜けて自由落下する物体を、あの至近距離で上から追いかけて掴むなんて、人間の反射神経の限界を超えてる……!)
人間の反応速度はどんなに鍛えられたアスリートでも0.1秒以上の遅延が生じるはずだ。だが今のセリカの動きには、一切の弛緩も迷いもなかった。落下速度、加速度、物体の質量を瞬時に計測し、最短軌道で手を割り込ませたような……まさに「計算されたAI人型ロボット」の動作そのものだった。
(あの滑らかな肌も、完璧すぎる知識も、今の神業みたいな反射神経も……全部説明がつく。セリカちゃんは……やっぱり最新型のAIアンドロイドなんだわ!)
レナはカウンター奥で何事もなかったようにグラスを拭くセリカの後ろ姿を、益々深まる疑念の眼差しで見つめた。
「レナちゃん? どうしたの、固まっちゃって。ゲーム始めようよ!」
「あ、はいっ! すみませんご主人様、ちょっとボーッとしちゃいました!」
鈴木に呼び戻されたレナは、パンッと自分の頬を叩いて意識を盤上へと切り替えた。
「それじゃあ、ゲーム開始です! 1942年5月26日、ガザラ・ライン突破を目指すドイツアフリカ軍団(DAK)の第1ターンです!」
「よし、俺がDAK側を担当していいかい? ロンメル元帥の気分を味わいたい!」 「もちろんです! 私は英第8軍の防御陣地を守りますね。DAKの移動フェイズからスタートです!」
鈴木はサイコロを握り締め、マップ上のIII号戦車やIV号戦車、そして88ミリ高射砲部隊のコマを指で慈しむように触れた。
「まずは第15装甲師団と第21装甲師団を南へ大きく迂回させる! ガザラの英軍陣地をバイパスして、一気に背後へ回り込むぞ!」
「あつ、そんなに大きく動くんですか!? 南側は補給線が伸びきっちゃいますよ!」 「ふふふ、これこそが『大釜の戦い』の始まりさ! 敵の意図を突く電撃戦の開幕だ!」
卓上にカチャカチャと小さなコマが躍る。 広大な砂漠を模した六角形のマス目の上で、ドイツアフリカ軍団の装甲部隊が破竹の勢いで進撃を開始した。
カウンター越しにその様子を静かに見守るセリカの瞳の奥で、微かに緑色のアクセスランプのような光が、静かに明滅していた——。




