第四章 ブタペスト救出作戦 第一話 新キャストともう一つの南方軍集団
「Tactical Maids & Armory BAR — Bullet & Laceへようこそっ!」
重厚な木製のドアが静かに開くと、心地よい重みを持ったカウベルの音が店内に響き渡った。 無機質なコンクリートの壁面には実物大のエアソフトガンや銃器パーツが飾られ、ほのかにオイルと珈琲の香りが漂う店内。秋葉原の2階は独特の静けさに包まれていた。
今日の秋葉原は、まるで世界全体が濡れネズミになったかのような強い雨に見舞われていた。アスファルトに弾ける雨粒の音が、薄暗い街頭に絶え間なく響いている。土曜の夜だというのに、この豪雨では通りを歩く人の影もまばらだ。
開店前のミーティング、チーフのユキがパンパンと手を叩き、全員の注目を集めた。
「みんな、ちょっと集まって。今日から新しく入るキャストのセリカちゃん、21歳よ。みんな、仲良くしてあげてね。・・・あと、彼女はみんなより少し変わってるけど、うまく気遣ってあげるように」
ユキの含みのある言い回しに、キャストたちの間にわずかなざわめきが走る。
輪の中から一歩前に出たセリカは、ピンと背筋を伸ばし、美しいお辞儀をした。腰元まで伸びた艶やかな黒髪に、どこか浮世離れしたミステリアスな佇まい。整った顔立ちには21歳とは思えない妖艶な色気が漂っている。
「セリカと申します。至らぬ点も多いかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
凛とした声で挨拶を終えると、セリカは迷いのない足取りで、部屋の隅でスマホをいじっていたトップキャストのカナのもとへ歩み寄った。
「カナさんですね。本日からよろしくお願いいたします。色々とご指導ください」
カナは「Bullet & Lace」の売上トップを誇る看板キャストだが、強気すぎる性格と自己中心的な振る舞いから、他のキャストたちからはお世辞にも好かれていない。典型的なトラブルメーカーだ。突然声をかけられたカナは、面倒くさそうに片眉を上げ、セリカを足元から頭のてっぺんまでじろりと舐めるように見回した。
「ふーん・・・新入り? アタシ、人に何か教えるほど暇じゃないんだけど。邪魔だけはしないでよね」
取り付く島もない素っ気ない態度。傍らでそのやり取りを見ていたレナは、「大丈夫かしら・・・?」と思わず胸を痛めた。ただでさえ癖の強いカナに初日から目を付けられては、せっかくの新人も長続きしないかもしれない。
しかし、レナの心配は杞憂に終わる。セリカはカナの冷ややかなあしらいにも全く動じる様子を見せず、ふっと艶やかな笑みを浮かべた。
「はい、お邪魔にならないよう、しっかり背中を追わせていただきますね」
その物怖じしない姿勢に、カナは鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、突っぱねるような追撃はしなかった。
(あ、あれなら大丈夫そうね。メンタルが相当強いか、それとも本当におっとりしてるのか・・・後でセリカさんと少し話してみようかしら)
レナはホッと胸を撫でおろし、開店前の最終チェックへと意識を切り替えた。店内点検として、シューティングレンタル用のガスブロの安全装置、マガジンの確認、カウンターのアルコール消毒をテキパキと済ませていく。
準備が整うと、正時を告げる時計の針とともに、入り口の「CLOSED」の札を「OPEN」へとひっくり返した。
店内待機に入ってまもなく、ドアのカウベルが軽やかに鳴った。
「レナちゃん、おはよう!」
雨を吹き飛ばすような元気な声とともに、舞が店内へ飛び込んできた。
「あ、そうか。マイちゃん、今日ここで待ち合わせだったんだっけ?」
「そうだよ!忘れてたの?もう、ひどいなぁ」
舞は先日、SNSのミリタリー&サブカル界隈で意気投合した「ユリ」というユーザーと、今日この店で初めて対面することになっていたのだ。舞はいつものようにカウンター奥の指定席へ滑り込む。フリルとレースが重なり合う黒と赤のドレス、精密に施された目元のライン。今日は気合十分のゴスロリ地雷系ファッションでバッチリ決めていた。
「どう?今日のメイク。ユリさん、驚いてくれるかな」
「すごく似合ってるよ。ユリさんもきっと喜ぶんじゃない?」
レナが微笑んだそのとき、再びカウベルが控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ、ご主人様!」
自動的に営業モードの声を張ったレナだったが、入ってきた人物の顔を見て表情を和らげた。
「やー、レナちゃん。今日は僕一人なんだけど、いいかな?」
雨で濡れた上着を脱ぎながら申し訳なさそうに微笑んでいたのは、先日来店された戦史オタク、鈴木だった。
「あ、こないだ三名様で来られた鈴木さん!どうぞどうぞ、こちらの二番ボックス席へ」
レナは手際よく案内する。
「今日は他のお二人はどうされたんですか?」
「いやぁ、彼等はあんまりミリタリーに詳しくないからね。こないだレナちゃんと話したインパール作戦の解説がすごく面白かったから、今日はまた別のマイナーな戦史を心ゆくまで話し合えたら嬉しいなと思って、一人で来ちゃったんだよ」
「本当ですか?すごく嬉しいです!では、まずは補給物資は何になさいますか?」
鈴木はメニューを一目見ると、嬉しそうに頷いた。
「そうだな……マカロニグラタンと生ビールをお願いするよ」
「かしこまりました。あの……よければ、私も1杯いただいても良いですか?」
「もちろん!どうぞ飲んで。Mサイズでいいかな?」
「ありがとうございます!すぐにお持ちしますね」
レナは踵を返すと軽やかな足取りで厨房へ向かい、冷えたジョッキに生ビールを注いでトレイに載せ、すぐに戻ってきた。
「お待たせいたしました。それでは、乾杯です!」
「乾杯!」
グラスを打ち鳴らし、鈴木は喉を鳴らしてビールを煽った。
「それでご主人様、今日はどんな戦史のお話ですか?」
「うん。レナちゃん、ドイツ軍の『春の目覚め作戦』って知ってる?」
レナはいたずらっぽく目を細めると、滑らかな口調で概要を語り始めた。
「1945年3月、第二次世界大戦末期にハンガリーのバラトン湖周辺で行われたドイツ軍最後の組織的大攻勢ですね。残留していた貴重な油田地帯を確保するため、精鋭を投入したもののソ連軍の厚い陣地と泥濘に阻まれて惨敗した……という」
鈴木は目を見開いて感嘆の声を上げた。
「すごい!やっぱりレナちゃん、完璧だよ!こんなマイナーな話をスラスラ言えるなんて感動的だなあ」
「ふふ、春の目覚め作戦についてシミュレーションしますか?」
「いや、その前のコンラート作戦、いわゆるブダペスト救出作戦についてシミュレーションしたいんだ」
鈴木の言葉に、レナは一瞬だけきょとんとして小首を傾げた。
「ブダペスト救出作戦……? それは初めて聞きました。なんですかそれ?」
あらゆる戦史資料を頭に叩き込んでいるレナだったが、その作戦名だけは彼女の戦史記憶のどこを探しても見当たらなかった。
その時、カウンターにいたセリカがコンラート作戦について話してきた。
「1945年1月、包囲されたブダペストの友軍を救出するため、ドイツ軍の第4SS装甲軍団が中心となって3回にわたる突破攻勢を試みたんです。1次はドナウ川南岸の山あいの最短ルート、2次は少しずらした北寄り、そして3次は南方の荒地から。でも、予備兵力が無限に出てくるソ連軍の層の厚さと、ドイツ軍自身の深刻な燃料不足が響いて、結局はすべて阻まれて救出失敗に終わるんです」
「いやあ……すごいな。1945年のハンガリー戦線なんて、ミリタリー好きでもかなりマニアックな分野だぞ。レナちゃん以外のキャストも、みんなこんなに戦史に詳しいのかい?」
鈴木の問いかけに、レナは苦笑いを浮かべながら首を振った。
「いいえ、鈴木さん! この子は今日入ったばかりの新人キャストのセリカさんなんです。彼女の知識の深さにびっくりしてます……!」
「へぇ、今日入ったばかりの……! いや、失礼した。あまりに堂々とした解説だったから、てっきりベテランかとばかり思ったよ」
鈴木は驚きつつも、興味津々といった様子でセリカを見上げた。
「ねえ、せっかくだから……セリカちゃんも一緒に座って語り合わないかい?」
「ありがとうございます、ご主人様。お言葉に甘えさせていただきますね」
セリカは上品に微笑むと、優雅な所作でソファーに腰を下ろした。冷えたグラスにドリンクが注がれ、テーブルの上には東部戦線の地図に見立てたコースターや灰皿が並べられていく。
「さて、コンラート作戦だが……史実通りの分析を始めるとしようか」
鈴木が眉をひそめ、腕を組みながら切り出した。
「ギレのSS第4装甲軍団(第3SS装甲師団『トーテンコップ』と第5SS装甲師団『ヴィーキング』)を主力として、ドナウ川の屈曲部からブダペストへの突破を図った『コンラートI作戦』。だが、ソ連軍の強力な対戦車陣地と圧倒的な兵力差、そして何より猛烈な燃料不足に阻まれた……」
レナも頷きながら、マップ代わりのコースターを動かす。
「これだと。第3SS装甲師団のパンターやタイガーがどんなに奮戦しても、トルブーヒン元帥の第三ウクライナ戦線の防衛線を完全に食い破ることはできませんね。史実通りの戦力と物資だけでは、この過酷な状況でブダペストの包囲を突破するのは……やはり極めて困難ですよね」
二人の言葉を静かに受け止めていたセリカは、ふっと妖艶な笑みを浮かべ、艶やかな黒髪を耳にかけた。
「ええ、その通りでございます。史実通りの戦力配置と、補給の途絶えた南方軍集団の現状だけでは、ブダペストの友軍救出はまさに至難の業……。ですがご主人様、もしも『もう一つの南方軍集団』の運用、あるいは予備兵力の投入タイミングがわずかでも異なっていたとしたら……どうでしょう?」
「もう一つの南方軍集団……!?」
鈴木の目が一気に輝きを増した。
東部戦線末期の絶望的な状況下で繰り広げられる「IF」の検証。セリカの発した魅力的な問いかけに導かれるように、テーブルを囲む熱い作戦談義の火蓋が切られたのだった。




