第三話 触接!
パーテーションを隔てて展開する海図の上では、依然として不気味な静けさが続いていた。一挙手一投足が艦隊の生死を分けるブラインドゲーム。その独特の緊張感が、店内に重く漂っている。
「ご主人様、お飲み物のお代わりは如何ですか?」
「んーー……」
佐藤は眉間に深く皺を寄せ、腕を組んだまま長考を続けていた。視線は衝立の裏にある自身の移動計画表から離れない。ひとしきり唸った後、意を決したように顔を上げた。
「では、ウィスキーをお願いするよ」
「了解です!」
レナは軽やかに席を立ち、厨房へと向かった。 カウンター席では、サバゲ帰りである常連の舞が、運ばれてきた『喫茶店のオムライス』を美味しそうに頬張っていた。レナが通りがかりに声を掛ける。
「マイちゃん、調子はどう?」
「あ、レナちゃん! さっきSNSで姫ロリサバゲーマーとやり取りして、今度ここで会う約束したんだー!」
「あら、いいじゃない! 良い人だといいね」
「うん! それでさ……」
舞はオムライスを一口運ぶと、カウンター越しにグラスを拭いていた先輩キャストのユキに向かって、サバゲでの出来事を身振り手振りを交えて熱弁し始めた。ユキは苦笑しながら耳を傾けている。舞のおしゃべりは当分止まりそうにない。
やがて、琥珀色の液体が入ったグラスを用意したレナが、トレイを手に佐藤のボックス席へと戻ってきた。
「お待たせしました、ウィスキーです」
「ありがとう。よし……次のターンの天候チェックだ。濃霧判定、いけっ!」
佐藤がダイスを手の中で振り、盤上へ放り投げる。
「良し! バッチリ濃霧だ! レナちゃんのターンだよ」
「また濃霧か……視界不良はロイヤルネイビーにとって天敵ですね。さて、今度も索敵が成功しますように……えいっ!」
レナは祈るようにダイスを振った。しかし、転がり出た出目は厳しい数値を示していた。
「ありゃ、失敗だー!」
「ふふふ、濃霧に紛れて我が艦隊は姿を消したよ」
レナは思わず頭を抱えた。 これは痛い。広大な北大西洋、低く垂れ込める雲と濃霧の向こう側で、果たしてドイツ艦隊はどこにいるのか。位置情報が完全に途絶え、行方不明となってしまった。
まさにその時だった。
――ジリジリジリーン! ジリジリジリーン!
店内全体に、鼓膜を刺すような甲高い金属音がけたたましく鳴り響いた。ビルの非常ベルだ。 店内が一瞬にして緊迫した空気に包まれる。ユキが素早くカウンターから飛び出し、レシーバーを確認した。
「火災警報だわ! 全員、保安レベル2(警戒)よ!」
ユキが素早く店の重厚な木製ドアを開け、外の廊下の様子を確認する。一秒もしないうちに顔を曇らせて戻ってきた。隣の一階店舗の隙間から、黒い煙が流れてきている。
「保安レベル1! 繰り返す、保安レベル1!」
『保安レベル1』――それはこの店で定められた、緊急避難誘導を開始する符牒だった。キャストたちの表情が即座にプロのそれに切り替わる。
「ご主人様、落ち着いてー! 慌てずに順番にご案内しまーす!」
「キャストに続いて速やかに避難してください!」
ユキたちのテキパキとした誘導に従い、手前のお客様から順に避難が始まった。しかし、テーブルの上のボードゲームを見つめていた佐藤は、顔を蒼白にして狼狽した。
「ど、どうしよう……俺のビスマルクが! セットアップしたばかりの盤面が……!」
「ご主人様、大丈夫です! 私がご主人様もボードゲームも絶対に守りますから! 落ち着いて立ち上がってください!」
レナは佐藤の肩をしっかり叩き、冷静に促した。 順次、玄関手前のお客様からビル外へと誘導されていく。
店内奥にいたレナ、佐藤、そして舞の3人が最後に避難しはじめた頃には、廊下から階段にかけて目を開けていられないほどの煙がすでに充満し始めていた。下階への階段は完全に黒煙に覆われ、降りられる状況ではない。
「ダメ、下へは行けないわ! マイちゃん、佐藤さんを連れて先に屋上へ上がって!」
「えっ!? レナちゃんは!?」
「ちょっと取って来るものがあるの! すぐ追いつくから先に上がって!」
レナは2人を屋上への階段へ押し出すと、煙の流れる店内バックヤードへと疾走していった。
一足先に息を切らしながら屋上へたどり着いた舞と佐藤。目の前には秋葉原の夜空が広がっているが、佐藤は恐怖で顔が完全に引き攣っていた。
「ど、どうしよう……階段があんな煙じゃ、もう降りられないよ……」
「大丈夫ですよ佐藤さん! ほら、下に見える消防隊がすぐ助けてくれるわ!」
舞が必死に励ましていると、ガチャガチャと金属音を立てて屋上の重いドアが勢いよく開いた。レナだった。 彼女の肩には、バックヤードから引っ張り出してきた太いクライミングロープとハーネス、大量のカラビナが担がれていた。コンカフェのイベント撮影用兼、万が一のための本格的な防災資材だ。
レナはロープを地面におろすと、躊躇なく屋上の強固な構造用金属フレームへと固結びで固定し始める。手つきには迷いが一切ない。
「ラペリング降下するわ! 2人ともハーネスを装着して!」
「ラ……ラペリング……って……!?」
佐藤は信じられないものを見る目でレナを見つめ、甲高い悲鳴をあげた。
「やったことないよー!」
「私、ラペリング初体験だー! なんかワクワクしてきちゃった!」 対照的に舞は目を輝かせてはしゃいでいる。
「大丈夫、タンデム……ううん、トリプルラペリングで降りるわ! 3人いっぺんに降りるわよ!」
レナは中央に位置し、左側に佐藤、右側に舞を配置して、それぞれのハーネスを頑丈なカラビナとスリングでガチガチに連結した。
「れ、レナちゃん……本当に大丈夫なの!? 3人で重すぎない!?」 恐怖で震える佐藤が怯えた声を出す。
「トリプルは初めてだけど、原理は全部一緒! 私の肩をしっかり掴んで、私と一緒に壁を足で歩いていくのよ!」
ロープ確認良し。装具およびカラビナのロック確認良し。 レナを中央にした3人は、屋上のふちへ並んで立った。
「下を見ないで! 体を『く』の字にして壁を歩く! いくわよー! イチ、ニ、三、四……!」
「ひええええええっ!?」
レナの合図とともに、3人の身体が宙へ躍り出た。 佐藤の悲鳴が夜空に響くが、レナは驚異的な体幹と足腰のバネで3人分の体重を支え、ロープのテンションをコントロールしながら一定の速度でコンクリートの壁面を歩いていく。
「そう、ゆっくりー! 壁を歩く!」
ビルの下では、急行した消防隊員たちが空気ベッドを膨らませようと作業していたが、上空から降下してくる3人の姿を見て目を見開いた。佐藤が体感した恐怖の時間とは裏腹に、レナはわずか数十秒という短時間で、5階分の高さを鮮やかに降下しきったのだった。
トッと地上に着地すると、ロープを素早く解除するレナ。 周囲で見守っていた野次馬や消防隊員から、一斉に割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「素晴らしい身こなしだ! 君、どこかの隊員か!?」 駆け寄ってきた消防隊員がレナを絶賛したが、レナはフリルのドレスを整えながら、「ただのコンカフェ嬢です!」と可憐に敬礼してみせた。
◇
それから約1時間後。火元となった隣店舗の火災は迅速に鎮火され、店舗ビルの安全が確認されたため、レナたちは店へと戻ることができた。 店内には多少のきな臭さが残っていたものの、幸いにも店舗への延焼や重大な被害は免れていた。
佐藤がおそるおそる自分のボックス席へ戻り、テーブルの上を見て目を見開いた。 テーブル上のボードゲーム全体には、難燃性の保護ネットとカバーがしっかりと被せられ、ダイスやコマの位置が一切ズレないよう完璧に固定されていたのだ。
「す、すごい……! あの非常事態の中で、これにカバーをかけてからバックヤードへ走ったのか……!」
「大切なご主人様のお宝ですから! 無事でよかったです!」
レナが胸を張って微笑む。さすがレナ、緊急事態であってもご主人様とゲームへの気遣いは完璧だった。
「よし……! レナちゃんのおかげでビスマルクは守られた。追撃戦の続きを始めよう!」
「はいっ! ロイヤルネイビー、索敵再開です!」
乱れた息を整え、2人は中断していた『ビスマルク追撃戦』の盤面へと向かい合った。
レナは再開された索敵フェーズで、情報収集のためにダイスを振った。 まずはベルゲン港への偵察
――ダイス目は良好。得られた情報により、敵の主力である戦艦と重巡がすでにベルゲン港から姿を消していることが判明した。
(ベルゲンは空っぽ……! 奴らはすでにフィヨルドを出港している!)
レナは直ちにフェロー諸島付近に展開していた哨戒巡洋艦部隊に『警戒モード』を指示。索敵網の感度を極限まで引き上げた。
そして次の瞬間、哨戒機からの緊急電報が入る。
『フェロー諸島北方にて、敵戦艦および重巡洋艦を発見!』
「すわっ! まさかのいきなり南下作戦か!?」
レナは即座に本隊を動かした。旗艦である戦艦『キング・ジョージ5世』を出港・南下ラインへ急行させ、巡洋戦艦『フッド』と最新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』はアイスランド南方へ展開して挟撃体制を整える。
だが、ここでレナの脳裏にある疑問が過った。 念のため、再び索敵フェーズの余剰能力を使って、ベルゲン奥のフィヨルド全体へ徹底的な広域空中偵察を試みた。すると――
「えっ……!? 港に一隻もいない……!?」
レナは海図を見つめたまま固まった。 ベルゲン港どころか、奥深いフィヨルドにいたはずの未完成空母『グラーフ・ツェッペリン』、そしてビスマルクの姉妹艦である戦艦『ティルピッツ』や重巡『アドミラル・ヒッパー』までもが、跡形もなく姿を消していたのだ。
「えっ!? ティルピッツもヒッパーも、全員出港したの!? 佐藤さん、これ本当!?」
「ふふふ……上級ルール全艦稼働だからね。我がドイツ海軍大西洋艦隊は、全戦力をもって出撃したよ」
(これはまずいわ……! 全艦が大海原に解き放たれたなんて……!)
レナの手のひらに冷たい汗が滲む。 いま、フェロー諸島北方で発見され、南下しようとしているあのドイツ艦隊は、本命の『ビスマルク』なのか? それとも先行する姉妹艦『ティルピッツ』なのか? 遠距離からの影だけの索敵では、重厚なシルエットを持つ2隻の超弩級戦艦を判別することができない。もし偽物に主力艦隊を差し向け、本物のビスマルクに大西洋へ出られたら、すべての輸送船が壊滅する。
(単なる発見じゃ駄目……敵の艦種を完璧に特定する『触接』が必要よ!)
緊迫した盤面の上で、正確かつ決定的な情報を喉から手が出るほど欲しながら、レナは海図の上に残された哨戒機の駒を強く握りしめた。




