076 第二の父
信仰の形とは関係なく、キリアスにとって、エンザルトは尊敬すべき師であった。
まず、エンザルトは聡明だった。彼が心からの信仰を持っていないことは、同じ境遇のキリアスだけが知っていた。だが、彼は大神殿の誰よりも神々の教えを熟知していた。過去の神学の学説も諳んじ、自ら理論を組み立てて周囲を説得することもできた。ゆえに、彼のまわりの人々は彼を敬虔な宗教者だと誤解していた。
実のところ、彼が信じているのは、リナリアの神々ではない。この世の理そのものだろう。
ゆえに、彼は神学以外にも博識だった。病に詳しく薬草を煎じて人々を救い、幾何を用いて天体の動きを説明し、世俗の法に則って領主と交渉することもできた。それだけでなく、ごく簡単な神聖術くらいなら使えたようだ。
エンザルトは、能力もさることながら、それとは別の美点を持っていた。彼は部下にも、弟子たちにも公平だった。全ての部下を労り、全ての弟子たちを我が子のように愛した。
愛する両親を失ったキリアスが、第二の父と慕うようになったのは、必然だった。
ある日、エンザルトはキリアスに言った。
「君は私を怨んでもいいのだよ」
未だにキリアスが本来の、ゼノヴァ人としての信仰を捨てていないことに、エンザルトは気づいていたのだろう。
「感謝こそすれど、怨む理由がどこにありましょう」
それは本心だった。食べるに困らない暮らしがあるうえ、学問もできる。そのうえ、妹のように可愛がることができる年下の姉弟子までできた。キリアスは昔から妹が欲しかったのだ。
だからこそ、その父を自分の手で殺すことになるとは、思っていなかった。
シマニエク市にエンザルトが帰ってくることになったのが、きっかけだった。
あの日の夕方、キリアスはこっそりと出かけようとするエンザルトの姿を見かけてしまったのだ。神官のローブを脱いで、誰にも見つからないようにと慎重にふるまうエンザルト。思わず、後をつけてしまった。時間が時間だったので、普段は持たない護身用の小刀を持ち出したのが、よくなかった。
追いかけようと思ったのがどういう心情だったのか、キリアス自身にもわからない。
その時点でエンザルトがこの街の生まれだということを思い出していれば、彼の目的を察することができて、引き返すことができただろう。だが、キリアスはそうできなかった。ただ、そっとエンザルトを追いかけつづけ、エンザルトの目的が両親の墓参りだと気がついたのは、墓地に到着してからだった。
義理の父のそのまた両親だ。キリアスにとっては祖父母と言ってもいい。祈るくらいはすべきだろうと、遠巻きにエンザルトを追っていたキリアスは、エンザルトに許可を得ようと彼に駆け寄った。
そこで見たのは、エンザルトがゼノヴァ人式の作法をもって、墓前で祈る姿だった。それは、ゼノヴァ人の信じる、唯一の神に死者の安寧を願うもの。ゼノヴァ人の作法に従っている以上、それは他の神々を否定することだ。神都の大神殿の上級神官がしていいものではない。
キリアスの中に、憤怒が湧き上がったのはそのときだった。
それは、リナリア王国の神々への裏切りに対するものではなかった。キリアスはその「神々」への信仰など持ち合わせていない。キリアスが怒ったのは、エンザルトが自分に捨てろ、隠せと言った唯一神への信仰を、こんな形で実行したことだった。
それが、エンザルトの自分への酷い裏切りのように思えたのだ。
──私が、どんな気持ちで!
両親と語らった信仰を、自分はひた隠しにしてきたのに。
両親とともに祈った習慣を、キリアスは捨て去ったのに。
どうして、あなたは。
それから何が起きたのか、キリアスはよく覚えていない。
口論になったのはかろうじて覚えているが、自分が何を言ったのか、エンザルトが何と答えたのかは記憶に靄がかかっているように思い出せない。
念のため持ち出した護身用の刃物が、エンザルトの心臓を突き刺して初めて、キリアスは正気を取り戻した。事切れたエンザルトが足元に倒れ、キリアスは恐ろしくなってその場から逃げ去った。
※
「これが、私の罪です」
告白を終えたキリアスを、ミゼリアがそっと抱きしめる。
「苦しかったのでしょう。ごめんなさい、気づいてあげられなくて」




