075 キリアス
少女が生まれたのは、小さな集落だった。領主の意向で町から追い出されたゼノヴァ人の一部が、少し離れたところに住み着いてできた集落だった。
少女の両親は堅実な農家であり、敬虔な宗教者であった。日々は農作業に精を出し、集落の神事の際にはそれを取り仕切った。
少女の父はある日、集落で一番の怠け者の畑を手伝った。礼ももらわずに帰ってきた父に、なぜあの怠け者を助けたのかと、少女は尋ねた。父の答えは単純だった。
「勤勉なる者は勤勉ならざる者に分け与えよ、とは神のお言葉だ」
「そんなの、理不尽です」
聡明な彼女は、怠け者が得をするのは許せないと思ったのだ。父は笑って、
「優れた体躯を持つ者が、か弱き身体しか持たぬ者を守るのと同じさ」
と答えた。少女はすっと身体の中にその言葉が染み込んだ気がした。少女は父にせがんで夜ごと教典を読み聞かせてもらい、唯一神の教えを学んだ。祈りの作法も身につけ、両親とともに毎日祈った。字が読めるようになると、自分で教典を読み込み、すぐに父よりも深く唯一神の教えを理解した。
「誰もが等しく神の子である、というのが全ての始まりなのですね」
「そうだ。そう考えたとき、いかに自分の生を全うし、他人の生を遇するべきか。唯一神の教えはそれに基づいている」
少女と父は神の教えについて、熱心に議論をした。時に、母も加わることがあった。
物質的に裕福だったわけではない。ただ、精神的には豊かだった。
転機は、少女が十二になったときだった。
その日、両親は集落を代表して税を収めに町へと出かけた。ゼノヴァ人だからと町を追い出したくせに、税だけは取る領主にも、両親は文句一つ言わずに従った。
「怒りは神のものだ。我々のものではない」
父はそう言っていた。きっと本心からの言葉だったのだろう。
その日の帰り道、少女の両親は道で倒れている女性を助けた。身なりの良さから裕福な家の娘のようだった。両親は家に連れ帰って介抱したところ、女性は領主の娘を名乗った。駆け落ちをしようとしたところ、相手の男と口論になり、強引に馬車から飛び降りて足をくじき、頭を打ったのだという。
それを聞いて、少女の両親は、その領主の娘を町へ送る算段をしていた。
ところが、領主が放った娘への追手が集落を訪れ、怪我をした娘を見つけるやいなや、追手は少女の両親に向けて叫んだ。
「この悪魔の下僕どもめ!」
追手によって娘は町に連れ帰られた。領主はあからさまに激怒した。娘を拐かし、怪しげな儀式の生け贄にしようとしたと主張したのだ。駆け落ちという不名誉をごまかそうとしたのかもしれないし、ただ本気でゼノヴァ人を毛嫌いしているだけかもしれなかった。
領主は兵を集めて集落を襲った。
少女の両親は少女だけをなんとか逃がし、死んだ。
虐殺を逃れたからと言って、少女に行く先があったわけではない。ただ、死にゆく領主と隣人を背にして駆けることしかできなかった。やがて走り疲れた少女は地に伏した。救いの手を求めて地面を這っていたとき、実際に救いの手を差し伸べたのは、異教徒の神官であるエンザルトだった。
「君が信じ、私がかつて信じた神は高潔ゆえに理不尽だ」
エンザルトは言った。
「かつて信じた……?」
「私もゼノヴァ人なのですよ」
シマニエク市のゼノヴァ人の家に生まれたエンザルトは、彼の両親とは違ってさほど信心深くはなかった。蔑まれ、苦労するくらいなら教えなど捨ててしまえばいいと、ある日、両親に言い放ち、大喧嘩になったという。
家出の最中に両親がゼノヴァ人だからと盗みの罪を着せられて死んだとき、エンザルト少年はそれを実行した。街から逃げ出し、別の街の神殿でリナリアの神々への信仰を誓い、唯一神を捨てた。捨てたからにはと信心深いふりをして、信仰の世界で出世し、大神殿の上級神官にまでなったのだという。
「君はどうしたいですか?」
エンザルトは少女に問うた。少女は父の最期の言葉を思い出す。
──お前は生きろ。どこかで幸せになれ
「生きたいです。幸せになりたい」
「ならば、信仰は捨てることです。少なくとも、表向きは」
ゼノヴァ人の信仰を持つ限り、迫害からは逃れられない。
表向きでも、信仰は捨てなさい。それが、エンザルトの最初の教えだった。
少女はエンザルトの弟子となり、キリアスと名乗った。生まれ持った聡明さで、彼女はリナリアの神々の教えと神事の作法をあっという間に身につけた。本当の神ではない何かを信じるふりをすることに、そして何より、両親と語らったのと違う教えを語ることに、胸の奥を焼かれながら。
──やはり、私はゼノヴァ人なのだ。




