068 何者かの影
「デートはどうだった?」
館に戻った文乃が有里の執務室へ出向くと、そんなからかいで出迎えられた。
「デートじゃありません」
文乃は冗談を切って捨ててから、周りを見回す。
「それに、冗談を言うにしては空気が重いですよ、この部屋」
有里の傍らに巴絵が侍るほかに、執務室には守子とメレーゲが参じていた。表情は硬く、文乃が出かけている間によくないことが起きたのは明白だった。
守子が口を開いた。
「あのあと、スダーフ男爵を呼び出して事情を話したんだけど……話が拗れた」
「拗れた?」
文乃は視線をメレーゲに向け、宰相たる彼女に説明を促す。メレーゲは相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていたが、いつもの余裕は感じられない。
「一言で言うと、こちらの提案を蹴られました」
「どのような条件を?」
「問題の土地を大神殿に引き渡す代わりに、男爵には先の戦の後に没収した土地を返すという条件です」
没収した土地は、問題となっている土地と比べても遜色ないどころか、単純な生産力では上回る土地だ。だからこそ、先の戦で敵対した処罰として没収したのである。それを返すというのだから、男爵にとっては悪い条件ではなかったはずだ。
それを男爵は拒否したのだという。
「拒否されただけでは、拗れたというには速すぎませんか? さらに問題が?」
それに答えたのは有里だった。頭が痛いとばかりに額を押さえながら。
「それが、怒って出てったの。続きの交渉をする間もなくね」
付け足すようにメレーゲが言う。
「入ってきた情報によると、さきほど、男爵は手勢を連れて街からも出ていったようです。領地に帰ったようですね」
交渉としては大失敗の部類だった。それにしても、
「交渉は昼過ぎの話ですよね? もう街を出ていったんですか?」
今は夕方だ。男爵の領地は旧シマニエク伯爵領に隣接しているとはいえ、地形の都合で回り道をすることになる。境を超える頃には夜だろう。男爵の行動は極端な上に急すぎるのだ。まるで、準備をしていたかのように。
文乃の考えを察して、メレーゲが言う。
「呼び出された時点で、既に街を出る準備をしていたようですね」
「なぜそこまで。土地所有の正当性を争うとなると、男爵のほうに分があったはずです。裁判のあとならまだしも、土地の所有の正当性も主張せずに、というのは異常です」
まるで、何かを恐れているようだ。ふと文乃は有里の傍らに立つ巴絵を見た。
「殺されるのを恐れた、というのはありえそうだね」
巴絵は腰に帯びた剣の柄を撫でる。
「この街に居るかぎり、私の剣は男爵に届くから」
男爵が投宿していたのは、この街の有力商人の屋敷だ。最低限の塀くらいはあるが、わずかな手勢だけで守るには心許ない。この街を一人で落とした女王の騎士が男爵を殺しにかかれば、まず助からない。
それを恐れるのは、確かにおかしくはない。
「だけど、弁明もしないというのはやっぱり極端すぎる」
守子が指摘して、全員が頷いてから押し黙る。この場にいた全員が嫌な想像を膨らませていることはうっすらと見て取れた。
やや間があってから、ぱんと有里が手を打つ。
「過ぎたことを気にしすぎても無意味。対応を考えましょう。まず、男爵には改めて使者を送る。──メレーゲ伯爵、使者の人選を」
有里の意図を瞬時に汲んだメレーゲが応える。
「でしたら、男爵と姻戚関係にある領主から選んではいかがでしょう」
あえて有里に近しい人間を使者に立てずに、他の人間に言伝に近い形で託すことで男爵の感じる圧力を緩和するのが有里の狙いだろう。
「候補は?」
「男爵の叔母の夫がおります。先の戦では中立を決め込んだ男です」
「男爵との距離も程よい。さっそく手配を」
「承知しました」
メレーゲは廊下に控えていた部下を呼んで指示を出す。いつものことだが仕事が速い。彼女は部下が走っていったのを見届けると、微笑みながら言う。
「さて、問題は男爵が交渉に応じない場合ですね。今日の様子では裁判すら拒むかもしれません」
守子が応じる。
「それなら叛意ありとして討つこともできるんじゃない?」
文乃は守子を睨んだ。あえて極端な選択肢を提示したのはわかるが、軽い調子で言うのは彼女の悪い癖だ。守子はへらへらとした笑みで、「ごめんごめん」と謝った。
有里が首を左右に振る。
「経緯が経緯だし、それは避けたい」
文乃も有里の判断に首肯した。
こちらの都合で怒らせて領地に帰った者を「叛意あり」とみなして討ってしまえば、他の領主からの心象が悪いのは明らかだ。それに、争えば人的被害も避けられないという、根本的なデメリットがある。
結局、男爵が応じずとも裁判を開いて時間稼ぎをするという苦肉の策を仮の方針とし、その場は流れた。真っ先にメレーゲが退出し、生徒会のメンバーだけとなる。
「男爵の今回の動きと合わせて気になっていることがあるんだけど」
と守子が切り出す。
「私もです」
きっと同じ考えだろうと、文乃は思った。たぶん、巴絵も勘付いているに違いない。そしておそらく、既に出ていったメレーゲも。
有里は文乃たちの言葉を聞く前に、それを口にした。
「誰が大神殿に問題の土地の話を思い出させたか、でしょう?」
大神殿は初代スダーフ男爵の時代から、問題の土地をずっと放置してきたのだ。それを、思い出したように持ち出してきた。それはつまり、女王が現れたから前々からの土地問題を解決してもらおうとした、というわけではなさそうだということを意味する。
「それに加えて男爵の過剰な反応。誰かの意図が働いている可能性があるわけだ」
女王の出現を快く思わない何者か。すなわち、金村有里の敵。
その何者かが動き始めているのかもしれなかった。




