005 見返り菟
「あれは、昔々、私が小学校一年生だったころのことでした」
「そういう言い回しは要らないです。何があったかだけ教えてください」
いつもの鋭利さで、文乃が有里の物語風の口調を切って捨て、有里はえー、っと唇を尖らせるも、気を取り直して話を続ける。
「私も小さい子どもだったから、ちょっとした冒険心が働いてね。渋る巴絵を引きずって、二人でお出かけしたの。親には内緒でね」
「副会長が渋ったんですか、意外ですね」
またしても口を挟む文乃に、有里がにやにやと笑って言う。
「巴絵、小さい頃は小心者で可愛いやつだったんだよ。今は心臓に毛が生えてるとしか思えない態度の女ったらしだけど」
「失礼な。たらしこんでるのは君だけだよ、有里」
はいはいそうですかと、巴絵の抗議を聞き流し、有里は話を進める。
「まあ、小学一年生のやることだから、無計画でさあ。とにかくずんずん進んで、気の向くままに道を選んだのね」
最初のうちは楽しかった。家の近くや通学路とは違う景色。見たことのない場所に足を踏み入れるわくわく感。親に連れられることなく、巴絵と二人だけで歩いていると、少しだけ自分が大人になった気がした。
だけど、小学一年生の体力なんて大したことはない。歩いているうちに疲れてきてしまって、もう帰ろうと思うまでに、さして時間はかからなかった。
「で、帰り道で迷ったわけですね」
察しのいい文乃が、有里の語りの前に言い当てる。
「その通り」
「で、そこで不思議な体験をしたわけですか」
「ちょっと、もうちょっといい感じに語らせてよ」
「予想のつくことをもったいぶられても時間のムダです」
これには流石に玲奈が呆れたらしく、
「文乃、あんたは情緒というのを知らないわけ?」
と窘める。その様子が可笑しくて、有里はけらけらと笑う。
「まあまあ。文乃の言う通りだからさ。ご指摘の通り、見事に迷ったの。知らない場所で、周りにいるのは知らない人ばかり。私は泣きべそかいてる巴絵の手を引いて歩いてたわけ。もちろん、自分も泣きそうだったけど」
あのときの心細さは今もありありと思い出せる。
「そんなときに、思わぬ助けが現れた。何だと思う?」
「そういうのいいです」
有里の問いかけに文乃は答えず、まあいいかと有里は正解を言う。
ちょうど、一行が階段を登り終えたときだった。
「菟よ」
有里は右手で傍らに立つ石像を指し示す。三菟神社がその名と言い伝えに因んで建てた三羽の菟の像。本物の菟らしさを残しつつ戯画化されたそれは、神社の雰囲気に合いつつも、可愛らしいと評判である。
「言い伝えだと、道に迷える者を導く神の使いでしたっけ?」
「それそれ。伝説と同じ、三匹の菟が道案内してくれたのよ」
「にわかには信じがたいですが……」
文乃は疑わしげな視線を有里に向ける。
「それはそうだと思うけど、嘘じゃないの。どれだけ歩いたのかはわかんないけど、疲れきって、途方に暮れて立ち止まりそうになったとき、ふっと目の前に菟が現れたの。三羽いて、三羽とも真っ白で、目が赤かったのは覚えてる」
十年も前のことで、記憶の中の当時の光景はほとんど靄の向こうだ。だけど、あの菟の姿だけは克明に覚えている。眼の前にある像は、それなりに似ていると思うが、着色のない石像なので、もっとも印象的な真っ白な毛並みと赤い目は再現されていない。それに、
「これよりも、もっと目は大きかった気がするな」
と巴絵が言った。有里も、それが不思議な目だったのを覚えている。大きくて、刺すような視線を送ってくる、真っ赤な目。それに比べると、この像の目は存在の主張が弱い。
有里は思い出話を続ける。
「その菟たちがじーっとこっち見てるから、近づこうと、そっちに歩いていくでしょ? そうしたら、菟たちがぴょんぴょん跳ねるように走っていって、ある程度距離を取るとこっちを振り返って、またこっちをじーっと見るの。私たちが追いかけると、また駆けていって振り返る。その繰り返し」
菟を追いかけることに、小学一年生だった有里は夢中になった。そのときには、巴絵も泣き止んで、いっしょに追いかけていたはずだ。
文乃がふむと頷き、
「で、気がついたらこの神社の前まで来ていたということですか。たしか、会長の家、このすぐ近くでしたよね」
「もう、結末を言い当てないでよ──文乃の予想通り、菟を夢中で追いかけているうちに、私たちはこの神社の前まで帰ってきてた。あれ、知ってるところまで帰ってこられてるぞって気がついた私たちは周囲をきょろきょろ見たんだけど、すぐに菟たちのほうに視線を戻したのね。そしたら──」
「いなくなってたんですね」
有里のもったいぶった溜めをぶった切り、文乃が言い当てた。彼女は続けて、
「この神社の前だったなら、林の中に隠れてしまった可能性はありますね」
「不思議体験なんだから真面目に考察しないでよ……」
膨れっ面をする有里に、文乃が問う。
「それで、お参りする理由にどうつながるんですか?」
「実際助けられたわけだから、それなりの信仰心も湧くものでしょ。大事なときはお参りして、お願いしてるの。『私の進むべき道を教えてください』って」
「会長は自分で自分の道を選んでいるように見えますが」
「これまでは、助けてもらう必要がなかっただけ。自分の力の及ぶ範囲なら、自分でなんとかすればいいんだから」
あの菟たちを見たのは、今のところ、あのときが最初で最後だ。それは、有里が上手くやってきた証なのだと思っている。
「会長の力の及ばない範囲は神頼みというわけですか」
「そうそう。完璧超人じゃあるまいし、私だって道に迷うこともある。それに、もしかしたら、ここが人生の転機ってときに、思いもよらない道を教えてくれるかもしれないでしょ」
アイドルのオーディションを受けたほうがいいとかね、という有里の冗談は文乃に華麗にスルーされ、その様子が滑稽だったのか一同を吹き出させた。
「じゃあ、さっさとお参り済ませちゃおうよ。打ち上げの時間が短くなっちゃうよ」
守子が促して、五人は境内を進み、社殿の前で並ぶ。各々が賽銭を投げ入れ、気ままに拝む。形式ばった作法を選ぶのは有里と文乃で、礼のしかたは文乃のほうが丁寧だ。残りの三人はかなり適当で、柏手を打って拝むだけである。一番長く拝んでいるのが巴絵なのは、いつものことだ。
「じゃあ、行こっか」
参拝を終え、さっさと打ち上げを始めたい守子が言う。みんなで歩きはじめてすぐに、文乃がふっと立ち止まった。すぐ後ろを歩いていた玲奈が、彼女の背にぶつかる。文乃は、首を横に向けて、じっと何かを見つめていた。
「文乃、どうし──」
玲奈が問いかけながら、彼女の視線を追いかけ、その視線の先にあるものを見るやいなや、言葉を切った。
「会長、さっきの不思議体験の話に出てきた菟ってああいうのですか?」
文乃が自らの視線の先を指差す。有里も含めて、全員の視線がそちらを向いた。
文乃の指し示したその先で、三羽の菟が真っ赤な大きな目をこちらに向けていた。




