040 金村有里
幼いころ、有里はいつも巴絵の手を引いていた気がする。
かなり身勝手に振り回した気もするけれど、巴絵はいつも笑って付いてきてくれたし、彼女が笑ってくれるのを、有里は嬉しく思ったものだ。
親たちは、引っ込み思案の巴絵が有里だけは懐いていたというが、唯我独尊な悪童が巴絵にだけは懐いていたというのが実際のところなのではないか。
そんな姉妹のような関係から、二人の関係が変わり始めたのは、いつからだろう。
小学校に上がってしばらくすると、巴絵は自ら色んなことに挑戦しはじめた。
勉学に、スポーツにと巴絵はその才能をぐんぐんと伸ばしはじめた。
有里は、巴絵の活躍を我が事のように喜んだ。
巴絵が褒められると、有里も嬉しかった。
巴絵の頑張りが、有里のためだと気づいていたから。
巴絵の引っ込み思案の性格も変わっていった。いつもおどおどしていた表情はすっかりと、自信に満ちた精悍な顔つきになった。中学に上がるころには、すっかり背も伸びて、有里は隣を歩く彼女の整った顔を見上げるようになっていた。
巴絵の微笑みに、胸が高鳴る。
巴絵の手が触れると、かっと身体が熱くなる。
そんなふうに思い始めたのも、ちょうどその頃だった。
学校からの帰り道は、なるべくゆっくり歩いた。家に帰ってからは、通話を繋ぎっぱなしにして無駄話をすることに努めた。巴絵を家に上げたときは、普段よりちょっと距離を詰めて隣に座った。そのくせ、手が触れると恥ずかしくて距離を取る。
そんな有里の恋心に、聡い巴絵はすぐに感づいたのだと思う。
巴絵から悪ふざけのようなスキンシップが増えた。
甘い言葉を並べて、有里の肩を抱く。
まるで、少女漫画の王子様が抜け出してきたようなわざとらしさ。
照れ隠し半分、苛立ち半分に、有里はそれを拒絶しつづけた。
巴絵の態度が、有里に突きつける事実を受け入れたくはなかったから。
巴絵からの愛を疑ったことはない。
だが、身体が触れ合うときの心臓の鼓動も、心の底から相手に触れたいという渇望も、巴絵は有里と共有してはいないのだ。
そんなすれ違いを抱えたまま、二人はこの世界にやってきてしまった。
有里は女王となることを選び、巴絵に自分のために戦えと命じることになった。その命令に巴絵が従うたびに、巴絵が返り血に塗れるたびに、有里は内心で怯えていた。
巴絵から向けられる想いが、どんどん自分の望むものから乖離していく。
玲奈の死体を前にして、巴絵の見せた微笑み。
巴絵の抱く気持ちの本質を見た気がした。
彼女の愛は、有里にその身を尽くすためのものだ。有里が何を彼女に与えたとしても、彼女はそれ以上のものを有里に捧げるのだろう。
いずれは、その生命さえも。
「どこかで、立ち止まれたはずなのに」
口から溢れた言葉は、己への批難だった。
本陣の幕の中には誰もおらず、先ほどの戦闘での死者も運び出されている。その言葉を聞き届ける者は、有里自身以外にはいないはずだった。
「あなたは立ち止まらなかった」
はっきりと、有里に物申す声。その声が誰のものかはすぐにわかった。
「一人にしてと、言ったはずだけど」
有里は文乃を睨んだ。制服姿の文乃は、まるで生徒会室にいるときそのままだった。
文乃は淡々と告げる。
「時間がありませんから」
「時間?」
「会長がへこんでいるせいで、軍が動かせません。このままだと、シマニエク伯爵は街に逃げ帰って城門を閉ざしてしまいます。そうなると、攻略には手こずるでしょうね」
文乃の正論が耳を貸す必要のないものであったことはない。だが、今の有里にはそれを聞く余裕などなかった。
「私を置いていけばいいでしょう」
投げやりな言葉を返して、文乃の表情を伺った。
失望の色があればよかったのに、彼女はいつもの冷静な顔色のままだ。
「そういうわけにはいきません。会長が大将なんですから」
あくまでも正論を説く文乃。有里は耳を閉ざす代わりに問いかける。
「玲奈が死んだんだよ? どうして、そんなに冷静なの?」
文乃が心を痛めていないはずはないし、心の奥底まで冷静であるとは思えない。
それなのに、文乃の口を塞ぐために、こんな問いを投げかけたのだ。自分でも呆れてしまう。
「私のせいで玲奈は死んだの。守子だって酷い怪我をしたし、巴絵だって……」
自分のせいで友達が、愛する人が壊れていくのをこれ以上は見たくない。
だから、放っておいてほしいのに。
日向文乃という生真面目な少女が、それを許してくれるはずもなく。
「今回の戦いで死んだのが、玲奈先輩だけだと思いますか?」
文乃が問うた。
「怪我をしたのが、守子先輩だけだと思いますか?」
彼女が何を言いたいのかは明らかだったが、有里は答えることから逃げた。それでも、文乃はさらに問いを重ねる。
「人を殺めたのが、巴絵先輩だけだと思いますか?」
文乃からの圧に耐えきれずに、有里は問い返す。
「……私にこの世界を巻き込んだ責任を取れって?」
「それ以外に聞こえましたか? 先輩たちのエゴにこの世界の人たちを巻き込んで、殺し合わせたんです。何人も死んで、怪我をして、殺して。全部、会長のせいです」
わかっていたつもりだ。責任も追うつもりだった。
だが今は、責任という言葉が空虚に聞こえるのだ。
苦し紛れに、有里は吐き捨てた。
「嫌だって言ったら?」
ずかずかと音を立てて、文乃が距離を詰めてくる。
そして彼女は、何の躊躇いもなく有里の胸ぐらを掴み上げ、有里を無理やり立たせた。
「私は、会長に付いてきたことを後悔したくはありませんし、会長に私を後悔させることを許した覚えもありませんよ」
期待が重い。そんなふうに思ったのは、人生で初めてだった。
ずっと、期待されることは当然で、それに応えるのも当然だったから。
だが、今回ばかりは期待に応えられる気がしない。
有里の弱音を見透かしたように、文乃が言う。
「逃がしませんから」
「……じゃあ、どうすればいいの?」
「会長、あなたがありのままで生きればいいんですよ」
「はあ?」
「……いいことを教えてあげます」
文乃はそっと有里の耳元で囁く。
「女王として振る舞う会長、とっても楽しそうでしたよ」
心臓が止まるかと思った。
突きつけられた事実に、心当たりがなかったわけではない。
だが、こうして指摘されると胸の奥を握り潰された気分になる。
「己の理想と野心に周りを巻き込み、周りを己の色に染め上げていく。生徒会長のときから、いえ、おそらく、もっと前から、あなたはそうすることが大好きなんです。違いますか?」
この世界にやってきてから、立ち止まる機会はいくらでもあったのだ。
それなのに、立ち止まることをしなかった。
何故か?
簡単だ。有里はこの国の女王たることを、心の底では楽しんでいたのだ。
馬鹿げた話だが、それが事実だった。
それゆえに、守子は傷つき、巴絵は人を殺め、玲奈は死んだ。
この世界の人を大勢巻き込んで、大勢が死んで、殺したのだ。
このどうしようもない悪徳をくすぐるように、文乃が囁く。
「会長、あなたの本質は征服者ですよ。この世界をあなたの色に染めてみませんか?」
身体の奥から、かっと熱が湧き出す。
「ハハハ……」
自然と笑い声が漏れた。文乃の手がすっと離れる。もう、有里を捕まえておく必要はないと思ったのだろう。
「文乃、あなたは本当にこれでよかったの?」
有里が女王としてこの世界に介入することに、文乃は協力こそしてくれているものの、内心では反対だったはずではなかったか。
文乃はきっぱりと答える。
「わかりません。ただ、私はあなたに付いてきたことを後悔したくない。それだけです」
先程は重いと思ったそれは、抱えきれないほどではないとわかる。
「じゃあ、期待には応えないとね」
文乃は微笑む。それは安堵なのか、応援の意思なのか、はっきりとはわからなかった。
有里は己の胸に手を当て、すっと深呼吸する。
そして、文乃に一つ頼み事をした。
己の本質を受け入れるならば、済ませておくべき儀式が一つあるのだ。




