037 最低で身勝手な
敵軍の撤退開始の報が飛び込んできたとき、本陣の空気が僅かに弛緩するのを感じた。
玲奈自身も同様で、ほっと息を吐き出す。
「直ちに追撃の準備を!」
メレーゲ子爵は緊張の糸を保ったまま、伝令の兵士に告げた。
総大将たる有里はじっと椅子に腰を据えて、メレーゲに指揮を委ねていた。彼女には始めから緊張というものが見えなかった。それゆえに、たとえ勝利を目の前にしても、気が緩むことがないのだろう。
そのとき、本陣の背後から、怒号と断末魔の混ざった叫び声が響き渡る。
「何事だ?」
メレーゲが誰に向けるでもなく発した問いに、飛び込んできた兵士が答える。
「敵襲です! 背後から敵が!」
「数は!?」
「ごく少数です!」
玲奈は隣にいた守子と目を合わせる。
「やっぱり来たか。タイミングは想定外だったけど」
本陣への奇襲。それは守子が最も危惧し、玲奈にも共有していたことだった。
レイエン村の戦いで、女王の騎士の脅威を敵に知らしめた。鬼神の如き巴絵を見て、真正面から挑もうと思う指揮官はいない。最前線の女王の騎士を倒すよりも、本陣にいるであろう女王本人を狙うのは、ある意味、当然だった。
まさか敵が敗走してから狙ってくるとは思っていなかったが、本陣近くの兵が最も油断する瞬間という意味では極めて合理的だった。
「敵を陛下に近づけるな!」
メレーゲが兵士に命じると同時に、本陣の幕を倒して敵が雪崩込んでくる。数として十人と少しだが、数以上の圧力があった。
兵士たちがその前に立ちふさがって壁となり、敵と剣を交え始める。少数でかかってくるだけあって、敵はなかなかの手練れ揃いらしく、一人が兵士数人をまとめて相手取っている。
メレーゲ自身も剣を抜き、大柄な男の一太刀を受け止めた。
有里はというと、立ち上がってはいるものの慌てた様子は見せていなかった。じっと、青い瞳で戦いを見守っている。
防御をすり抜けるように突破した敵の兵士が一人、真っ直ぐに有里のいるほうへと走っていく。玲奈が動くよりも先に、守子が動いていた。守子はその兵士に横から飛びかかるように体当たりし、兵士がよろける。
だが、兵士はすぐに態勢を立て直し、剣を振るった。
守子はとっさに避けるも、避けきれずに剣が守子の右目を掠め、鮮血が舞う。守子は弾みで背後に転倒。そこに止めを刺そうと、兵士が剣を振り上げる。
──まずい!
玲奈は手元に意識を持っていく。
練習したとおり、身体の芯から魔力を手のひらに流すようにイメージ。そうして生み出した魔力の剣を前にして、今にも守子を殺さんとする兵士に突撃。
よろめいて背後に倒れる兵士から剣を引き抜き、吹き出た血を浴びる。
「大丈夫?」
「何とかね……、私よりも有里を」
へらりと笑って見せる守子だが、手のひらで右目を抑えている。流れる血の量からして、かなり深い傷を負ったようだ。
そのとき、味方の兵士が断末魔を上げる。
彼を切り捨てたのは、背の高い男だった。粗野な印象を受けるが、身なりの良さを見るに一定の立場のある男だ。おそらく、この襲撃の指揮官だった。
「我はシマニエク伯爵が配下マグノ・エンケン! 女王の首を頂きにきた!」
マグノと名乗った男は、有里を一睨みしてから、有里を目がけて走り出す。彼と有里との間にいるのは、玲奈と負傷した守子だけだった。
自然と、剣を交えることとなる。
「ほう……魔力を剣に。面白い術を使うな」
玲奈の振るう光の剣を見て、マグノはにやりと笑った。直後、鮮やかな剣さばきで連撃を加えてくる。玲奈はぎこちない動きで何とかそれを凌ぐ。
「いい反応だ……だが、」
マグノの目がぎらりと光った気がした。
それは玲奈の錯覚だったが、マグノの目が人を殺す者の目だったことは事実だった。
「動きが素人ではどうにもならん」
右腕の感覚が消失し、一瞬遅れて激痛が走る。
肘から先を切り飛ばされたと理解したときには、既に遅かった。第二撃が玲奈の胸を切り裂き、玲奈は全身から力が抜けるのを感じた。次の瞬間には、地面に伏し、溢れ出る自らの血の臭いを嗅いでいた。
霞みはじめた視界の先で、マグノが有里を討つべく歩みを進めていた。飛びかかろうとした守子を蹴り飛ばし、もはや彼を阻むものはない。
玲奈は右腕を伸ばそうとするが、右腕を失ったばかりだと思い出す。
「悪く思うなよ、女王陛下さんよ」
ダメだと、玲奈は身を捩る。少しでも奴に近づいて、妨害しなければ。
だが、身体はもはや言うことを聞かず、焦りだけが増していく。
そのとき、一つの影がマグノの横に姿を見せた。
間を置かずしてマグノの首が、どさりと落ちる。
赤だと、玲奈は思った。返り血の黒ずんだ赤と、紅玉の如き美しい瞳。
女王の騎士の帰還だった。
「良かった……」
安堵とともに、玲奈は全身に重さを感じた。
「玲奈!」
悲痛な叫び声と慌ただしい足音。
青い瞳が玲奈を見下ろした。
有里がその整った顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、玲奈を揺さぶった。
「玲奈! しっかりして! 玲奈!」
有里が自分のために狼狽しているのだと、鈍った玲奈の思考が理解する。
「有里、怪我はない?」
そんな無駄な問いを投げかけてしまったのは、何故だろう。
「バカ! それどころじゃない! 無理して喋っちゃダメだから」
有里は玲奈に怒って言うと、誰かにミユハを呼ぶように命じていた。
「……もう遅いよ」
「そんなこと言わないで!」
有里の大きな目から、大粒の涙が溢れ落ち、玲奈の頬を濡らした。人生の最期に見るものが、有里の涙であって良かったと、玲奈は思う。
──でも、どうせなら
玲奈は有里に手を伸ばす。
左腕は鉄の塊のように重かった。それでも、玲奈は有里に触れたかった。
玲奈の手が、有里の頬にそっと触れたところで、限界が来て玲奈は腕を下ろす。
「玲奈! 死なないで」
有里の泣き顔が、玲奈の血で彩られている。
その光景は、人生の最期のちょっとした自己満足だった。
最低で身勝手な幸福を抱いて、玲奈は目を閉じた。




