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036 焦燥

「敵の攻勢を阻止し、敵は大きく崩れました」


 メレーゲ子爵が淡々と有里に報告した。


 有里はすっと立ち上がり、


「攻勢に出る! 敵に態勢を立て直す余裕を与えるな!」


 たったそれだけで、その場の空気が熱する。


 メレーゲが次々と伝令の兵を飛ばし、その熱を最前線へと運んでいく。


 この戦いはおそらく勝つのだろう。そう確信させるだけの勢いが、その場には存在していた。


「冷ややかな目をしてるね」


 守子が声をかけてきて、文乃は応える。


「それが私の仕事なので」


 この場で有里の作る空気に飲まれていないのは、文乃くらいなのだろう。問いかけてきた守子の声音にも、興奮の色が乗っているし、指示を飛ばし続けるメレーゲの声も、有里の一声の前と後では籠もっている熱の量が違う。文乃自身も、抗いがたい高揚感を腹の底に感じていた。


 金村有里という一人の人間が、この戦場を、この世界を動かしているのだ。


 神託の女王という伝承があれど、彼女はこの世界にやってきた少女に過ぎないのに。


 有里の才能は、この世界で確実に発揮されている。


 そして、それが今、戦争という殺戮に使われている。


 彼女の命令のもとに、兵士たちは敵を殺し、敵に殺されている。


「巴絵先輩は大丈夫でしょうか」


 思わず、言葉にしてしまう。


 藤堂巴絵は今、最前線で剣を振るっているはずである。


──やっちゃいなさい、巴絵


 有里がはっきりとそう言葉にするのを、文乃は聞いていた。


 あの言葉が巴絵に聞こえていたはずもないが、有里ははっきりと巴絵に殺戮を命じたのだ。


 この戦いで、巴絵はいったいどれだけ殺すのだろう。


「先輩、私たちはもう元の世界には帰れませんね」


 文乃は守子に言った。守子はへらりとした笑みを見せて、


「文乃以外はね」


 と応える。文乃は大きくため息をつく。


「また私を仲間外れにしようとしてますね」


 それには、守子は応えなかった。文乃自身、もはや帰れないと思っている。「私たち」と言ったのはそのためだ。


 文乃はこの戦の準備に手を貸している。


 有里に魅入られていないからといって、この世界への責任は残るだろう。


「どうしてこうなったんですかね」


 文乃がぼやくと、守子が茶化すように言った。


「有里のせいだね」


「もともとは守子先輩のせいでは?」


「そうでもあるけど、たぶん同じことだよ」


 それだけのやりとりをして、二人は再び黙り込む。


 やがて、一つの報せが本陣に舞い込んだ。


「騎士殿が敵の防御陣を切り崩しました。そこから敵が総崩れになりつつあります」

 



 まとわりつく鉄の臭いにも慣れ、幾人殺したかはもはや数えることもできない。


 既に敵はその陣形を維持できなくなっており、味方の兵が敵を飲み込んでいく。


 この場での目的は果たした。巴絵は周囲を見渡して自分の位置を測ると、守勢から敗走へと移る敵を追う。


 戦意のない敵は基本的に無視でいい。


 もはや、巴絵は眼の前の敵に大した関心を払ってはいなかった。もう、彼らを殺す必要はほとんどないからである。部隊の指揮を取っている立場の者だけ、背後を捉えて討ち取ればそれでよかった。


 巴絵が目指すのは、敵の本陣だった。シマニエク伯爵を討ち取ることができれば、この戦いは完全に終わるのだから。


 混乱する戦場を駆け抜ける。敵の本陣の位置は事前にメレーゲの推測を聞いてある。


 戦場を見下ろす丘の上。そこに向けて真っ直ぐに進む。


 敵は逃げにかかっており、もはや、巴絵の行く手を阻む者はいない。


 丘陵を駆け上がるまでに、さして時間はかからなかった。


「逃がしたか……」


 本陣はもぬけの殻になっていた。


 よほど慌てて逃げ出したらしく、陣幕や椅子などが放置されている。あまりにもあっさりとしているので、不意打ちを警戒したくもなるが、周囲に人の気配は感じられない。どうやら、伯爵はさっさと逃げ出してしまったらしかった。


 撤退に移っているとはいえ、前線には兵士たちが大勢取り残されている。総大将が我先にと逃げ出してしまえば、彼らはどうなるのか。


 呆れつつも、巴絵は判断を迫られていた。おそらく、伯爵はそう遠くへは行っていまい。女王の騎士の俊足なら、たとえ相手が馬だろうとも、本拠地へ向けて逃げる伯爵の背を捉えることは可能だろう。そのまま、伯爵を討ち取るのは造作もないはずだ。


 巴絵にその選択を躊躇わせたのは何だったのか、はっきりとはわからないが、女王の騎士としての本能というべきものだったのかもしれない。とにかくも、有里のいる場所から遠く離れすぎることに不安を覚えたのだった。


 巴絵は踵を返し、有里の元へと足を向ける。


 ちょうど、その時だった。


 巴絵の中に渦巻く不安が、急に形を取ったような感覚があった。


 腹の奥にずしりとした気持ちの悪さがあり、焦燥感で吐き気がする。


 巴絵はその不快感の正体を直観し、巴絵は自軍の本陣のほうを見下ろした。


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