033 布陣
リナリア王国の北東部は山がちな地形であり、山の隙間を縫うように北から流れた河川が平地に流れ出たところを抑えるように造られた都市がシマニエクである。街のすぐ北方にも低い山地があり、北からの街道は直接繋がらず、街から西に王国中心部へ伸びる道に合流している。この合流点は地域戦略上の要衝の一つであり、今回、王国の東部で起こった騒乱の決戦地となるのは、自然な成り行きだった。
街道の合流地点を見下ろす丘の上に布陣したシマニエク伯爵は、遠方に見える敵軍の規模が予想より多いのを見て、はっきりと舌打ちした。
「恩知らずどもめ」
それは伯爵に従っていた小領主たちが裏切ったことへの暴言だった。側にいた部下は閉口し、ただ頷いて怒りが自分に向かぬようにした。伯爵は虐げてきた者たちがなぜ敵方──女王軍についたのか、本気で理解できていないようである。
「数ではこちらが少ないですが、如何が致しますか?」
「なに、敵はどこぞの詐欺師に踊らされた者どもの烏合の衆だ。私が直々に指揮する以上、負けるはずはない」
驕りとも取れる発言だったが、彼はただ身体を鍛えているだけの男ではなかった。暴力を効果的に使うことについて、彼はそれなり以上の才能を発揮し、周囲を恐れさせている。相手が烏合の衆というのも、紛れもない事実である。
ただ、部下には懸念があった。
「向こうには勇猛と知られるレイエン殿や、知恵者と評判のメレーゲ子爵もいますが」
「武勇では私に劣る男と、小賢しい女の間違いだろう」
一顧だにせず、伯爵はそう言い切った。それから、
「ところで、マグノはどこへ行った?」
と問うた。
「考えがあると、兵を連れてどこかへ行きましたが」
伯爵の顔が険しくなる。
「何だと? まさか奴も裏切ったのではあるまいな?」
まるで自分が責められているような気分になって、部下は慌てて伯爵を宥める。
「彼は不真面目ですが、意外と義理堅い男です。勝手なことをしても、敵に寝返ることはありますまい。誠に、勝手極まる困り者ですが」
伯爵はそれで納得したらしく、それ以上疑心を育てることはしなかったが、勝手な行動をしたマグノへの怒りは収まらないらしく、吐き捨てた。
「全く、ただでさえ予定より兵が少ないのだぞ。兵法の基本を知らんのか、あの愚か者は」
「探し出して、連れ戻しますか?」
伯爵は大きく首を左右に振り、
「不要だ。勝手にさせておけ。そもそも多少の兵が減ったところで大差ないわ」
伯爵は見下ろした先の敵軍に指を向ける。
「それよりもだ。お前、目が良かったな?」
部下は伯爵の指差す方向を見やり、
「何を探せばよろしいので?」
「裏切り者どもの場所だ。旗を探せ」
部下は命令を忠実に実行し、もともと伯爵に従っていたのに敵方についた小領主たちの旗を見つけ出し、その位置を伯爵に告げた。敵の左翼に多く配置されているようだった。
伯爵はにやりと笑みを浮かべて言う。
「よし、敵の左翼を叩くぞ」
「見せしめですか?」
「馬鹿者。元からメレーゲに近かった者ならともかく、あの女も寝返った連中とは連携が取りづらいだろう。分断して各個撃破を狙う」
「承知しました」
部下が早速、命令を伝達しようと動き出そうとすると、伯爵は、待て、と呼び止めた。
「エクウェール・メレーゲは生かして捕らえろ。敵の女王とやらもな」
伯爵の、いつもの好色な面が出たようだと、部下は再び閉口する。見せしめにちょうどいいと考えている残虐な側面もあろうが、どちらにしろ、ろくでもない主だった。
「承知しました」
諌めたところで、首を刎ねられるだけである。部下はそそくさと伯爵の側を離れた。
先祖代々、伯爵家に仕える彼だったが、主への忠誠心はとうに失われている。ただ、彼は裏切る度胸もない小心者だったので、伯爵の忠実な部下を続ける他なかったのである。かと言って、偽の忠誠を誓って死ぬ度胸もなかった。
「勝ってくれるのを祈るしかないな」
諦念を漏らしつつ、彼は伯爵の命令を伝えるために走り出すのだった。
※
まだ恐怖心が残っていることに、巴絵は安堵した。
女王軍の前方、中央付近。かき集められた兵士たちが武器を手に整列している。中には明らかに不慣れそうな者もいて、槍を何度も握り直していた。急作りの軍隊であることが伺える。
まもなく戦が始まるという、ぴりっとした緊張感が巴絵の周囲を満たし、巴絵の中にも入り込んでいた。
心臓がいつもよりうるさく脈打っているのを感じる。
巴絵はその怯えを逃さぬように、胸元を押さえた。
制服の胸元についた、黒い染みが目に入った。
巴絵が着ているのは、学校の制服だった。見慣れぬ衣装を着ていたほうが、異界からやってきた女王の騎士という印象に合致するからと、改めてこれに袖を通すことになったのだ。
その制服に、くっきりと残る黒い染み。
この世界に来たばかりのとき、巴絵は賊とやりあって返り血を浴びた。洗ってはみたものの、血は完全には落ちずに黒い染みとなって残ったのだ。
あのとき、飛び出して男の腕を捻り上げるまでは、巴絵も恐怖を覚えていた。それは確かなのだ。だが、
──やっちゃいなさい、巴絵
──仰せのままに
短く交わされたその言葉が、決定的だった気がする。
剣を振るい始めたときには、巴絵の中から恐怖は融解し、躊躇は霧散した。
それからというもの、人として持ち合わせるべきものが、剣を振るう間は消え失せるのを巴絵は感じていた。戦いに臨む前はこうして恐怖に身を震わせているのに、戦いが始まるとそれを忘れて、殺戮に身を委ねている。
あの瞬間から、巴絵は女王の騎士だった。
だからこそ、今、戦いを前にして、自分の中にある恐怖を大事にしたいと思う。
いつの日か、殺される恐怖も、殺す躊躇も、完全に抱けなくなるのではないか。
それは、藤堂巴絵がただの剣となるときだ。
そしてそのとき、ただの剣は有里を愛せるだろうか。
「有里のためだ」
巴絵は独りごちた。




