017 神聖術
小屋につくと、ユキニアは戸をノックする。すぐに、はいよと気の抜けた返事が返ってきて、戸が押し開けられた。戸の隙間から姿を見せたのは、赤い髪をした若い女だった。有里たちより、二、三歳上なだけではなかろうか。もっと年上の人間を想像していたので、有里は少し面食らう。
「ユキニアか、どうし──」
女はユキニアの背後にいた有里に目を留める。
「ほう。そいつが噂の女王様か。わかった。入りたまえ」
招き入れられた小屋の中は質素と言ってよかった。家具の類は少なく、ベッドが一つに、テーブルを囲むように置かれた三脚の椅子のみ。目立つのは奥の壁を埋め尽くすように積まれた本だ。あとで守子と文乃をこちらに来させようと、有里は決めた。
「ユウリ・カナムラと申します」
有里が名乗り、玲奈が続く。赤毛の女が手を差し出す。
「ミユハだ。訳あって姓は捨てた。レイエン家に仕える神聖術師をしている」
有里はミユハの手を握る。どうやら、この世界でも握手は友好のサインらしい。握手を終えると、ミユハは有里の目を見て問うた。
「それで、何から聞きたい? 『迷い人』のことか?」
話が早くて助かるなと、有里は質問の順番を考える。
「では、まずはこれから教えてください。あなたは神聖術師だそうですが、それはどのような職でしょうか?」
「ふはははは! 伝承だとこの世界のことを何も知らんらしいが、そこからか。お前らの世界に神聖術師はいないか?」
「少なくとも、そういう肩書を名乗ったら詐欺師だと思われます」
「一応、言っておくが、今のお前らも十分に詐欺師らしいぞ」
でしょうね、と有里が頷く。それを見てミユハはけらけらと笑った。
ミユハは水瓶からコップに水を汲み、棚から小瓶に入った赤い液体を取り出す。
「これは小分けした酒だ」
それだけ言うと、ミユハは瓶の蓋を開ける。
「神聖術とはこの世の理を変える術だ。例えば、水に酒を何滴か落とす。放置しておけば酒は拡散して、やがて水と均一に混ざる」
今は時間がないからかき混ぜるが、とミユハは酒の混じった水をかき混ぜる。赤い酒は水に完全に混ざって薄まり、赤みはほとんどわからなくなった。
「これを放置しても、酒がひとりでに滴に戻ることはない。だが──」
ミユハがちょいとコップの端を叩くと、まるで拡散していく滴の映像を逆再生したかのように酒が集まり、赤い滴を形成していく。滴は水面から飛び上がり、小瓶に落ちた。
「つまり神聖術師とはマクスウェルの悪魔というわけですか」
「なんだそれは?」
「私たちの世界で、こういうことができる空想上の存在をそう呼ぶんです」
「空想上の存在ときたか。面白いな」
「他にどういうことができるんです?」
ミユハはにやりと笑う。
「こういうこともできる」
ミユハは右手を上げ、空中で何かを掴むような動作を取る。その手の中に光球が現れたかと思うと、光球が長く伸び、一本の剣の形を取った。ミユハの視線が有里の首筋を捉える。
「有里っ!」
有里の身体がぐいと後ろに引かれて、庇うように玲奈が前に出る。同時に剣が振り下ろされる。剣は玲奈の首筋の間際で止められ、その熱は玲奈の髪の毛の先を焦がす。独特の臭いが有里の鼻をついた。
ミユハの手から光の剣がふっと消失し、糸が切れたように玲奈の身体から力が抜ける。倒れそうになる玲奈を有里が抱きとめた。
「何の真似ですか?」
有里はミユハを睨む。ミユハはすまなかったと軽く謝罪の言葉を述べると、
「少し試させてもらったのさ」
と言いながら椅子に腰掛ける。ミユハは有里と玲奈にも座るように促す。席についた有里はミユハに再度問いかける。
「私たちの何を試したんです?」
ミユハはその問いに答えず、玲奈のほうを見て問うた。
「お前はレイナだったな。お前は何を知りたい?」
無視するな、という言葉を有里は飲み込んだ。そのほうが賢明だと、有里の直感が告げていた。このミユハという女には、彼女なりの考えがあるのだろう。
「神聖術というのは、私でも使えますか?」
「使うだけなら誰でもできるはずだ。筋がいいかは別問題だが」
「なら、私に教えてください」
「なぜ学びたい?」
「仲間は皆、とても優秀です。私だけが有里の足を引っ張るわけにはいかない」
ミユハは満足げに頷き、
「よかろう。女王のために命を投げ出す以外の選択肢を用意してやろう」
「ありがとうございます」
玲奈は深々と頭を下げた。
「ただし、仲間を全員連れてこい。一緒に鍛えてやる」
とミユハが付け足す。玲奈は黙って頷いた。
勝手に話が進んで釈然としない有里だったが、ここで文句を言うべきでないことは理解していた。それでも、納得がいっていないことが顔に出てしまったのだろう。ミユハが有里に言った。
「不満なら、自分の立場を弁えることだな、女王陛下」
嫌だとは、言えなかった。有里が言い返さないのを見て取って、ミユハは改めて有里を見据える。
「さて、何から聞きたい?」
そこからの会話は平穏で、ミユハは親切な教師と言ってよかった。
ミユハは丁寧に「迷い人」について教えてくれた。この世界では、空間は魔力に満ちている。ただし、それは無秩序なもので、そこに秩序を与えるのが神聖術なのだと。ただ、無秩序の魔力の中に突如として秩序を持った場が生じることがある。その場では理が歪み、時として空間と空間がつながるのだという。そこに巻き込まれた人間は元いた場所から遠い空間に放り出され、「迷い人」となる。
この現象を神聖術で再現しようという試みは幾度となく繰り返されてきたが、未だ成功には至っていないという。
「どことどこが繋がるかはわかるの?」
「今のところ、その規則は全くわからん。まあ、逆に言えばお前らの世界に再び繋がる可能性は否定できないということなのだが、それに偶然でも出会える可能性は低いだろうな」
ミユハの答えは有里を落胆させるのに十分だった。それと同時に、有里の思考の冷静な部分が、これからのことの算段を始めるきっかけにもなった。ミユハの言葉を信じるならば、元の世界に帰ることは、一朝一夕では無理だ。
だとすると、やはりこの世界で生きていく知恵をつけなければならないし、将来的に元の世界に帰るにしても、その方法の研究が必要だろう。
「神聖術の研究が一番盛んなのはどこです?」
ミユハの表情が苦虫を噛み潰したように歪む。
「一応、王都ということになっている」
「なっている?」
「学者連中は四大貴族の勢力争いのうち、どこに味方すれば出世できるかしか考えてないのさ。研究なんてそっちのけだよ。目立った成果は何十年と出ちゃいないし、中央の貴族たちもそれを問題だとは考えてない。優れた研究をした者でなく、自分に媚びる者を出世させやがる」
ミユハは肩を竦めて付け足す。
「奴らは国の未来より、自分の明日のことしか考えてない連中だからな」




