「恋を知らない令嬢」と「不穏な証言」
この回終盤から意外な展開になっていきます
二人を見送った後、リリアは侯爵夫人の部屋を訪れた。
夫人は静かな寝息を立てている。
「しばらくすれば落ち着くだろう」
ベッドの横に座っていた侯爵が、ぽつりと呟いた。
なぜ自分は、この家に来た時、すぐに「お母様」と呼ばなかったのだろう。
あんな女に騙され、皆に心配をかけてしまった。
母は跡継ぎの男児を産めなかったことをずっと気にしていた。
だから「跡継ぎだ」と言われてしまい、何も言えなくなった。
父は人が良すぎた。
そして、その優しさにつけ込まれてしまった。
なぜ人の傷口に土足で踏み込むような人間がいるのだろう。
「リリア。そなたも被害者なのだ。気に病む必要はない」
侯爵が静かに言った。
リリアは侯爵に抱きつく。
「本当にありがとうございます。私のお父様は、お父様だけです」
侯爵は何も言わず、優しく頭を撫でた。
「父親が娘を守るのは当たり前のことなのだよ」
そんなことはない。
自分の実の父親は、自分を守れなかった。
言葉には出さなかったが、リリアは改めて「父」という存在の大きさを感じていた。
「お母様、早く元気になってくださいね」
そう言って部屋を後にした。
その夜、リリアは夢を見た。
幼い頃、父に連れられて城へ行った日の夢だった。
そこでは国内の貴族の子供たちが交流していた。
だが、初めて来たリリアには知り合いがいない。
ただ立ち尽くしていると、部屋の隅で一人、本を読んでいる少年が目に入った。
「お父様、あの方は?」
リリアは少年を指さした。
「さあな」
父は素っ気なく答える。
「他の子と遊びなさい。あの子には関わるな」
そう言い残し、別室へ行ってしまった。
リリアはこっそり少年へ近づく。
リリアも本が好きだったからだ。
「何を読んでいるのですか?」
勇気を振り絞って声をかける。
少年は本から顔を上げた。
「騎士の物語だよ。そなたにはまだ早いと思う」
リリアは本を覗き込み、たどたどしく文字を読み始めた。
「すごいな。もう文字が読めるのかい?」
少年は驚いていた。
「ちょっとだけです」
毎晩、侍女たちが本を読んでくれた。
文字も教えてくれた。
近くに遊び相手はいなかったので、リリアは侍女たちから様々な言葉を学んでいた。
「この字は何ですか?」
「これは『戦闘』と読むんだ」
「難しいです」
そう言いながら、いつの間にか二人は並んで本を読んでいた。
少年は優しかった。
「次のページも読んでください」
リリアがお願いすると、
「いいよ。その代わり、僕のことを『お兄様』って呼んでくれないか?」
と頼んだ。
「読んでくださるなら」
リリアは素直に頷く。
「お兄様、本を読んでください」
少年は嬉しそうに笑った。
それから二人は会うたびに本を読むようになった。
いつしか「お兄様」と呼ぶのが当たり前になり、兄妹と間違われるほどだった。
だが、ある日。
その話が父の耳に入る。
「もう、あそこへ行くことは許さない」
なぜ父があの優しい少年を嫌うのか、リリアには理解できなかった。
目が覚めた時、ふと思う。
(あれはアレクお兄様だったのかしら?)
だが、なぜか違和感が残った。
翌日。
セリーと少女は罪人用の馬車に乗せられ、城の牢獄へ送られていった。
待っているのは厳しい取り調べだろう。
それを聞いたリリアは、「当然の報い」だと思いながらも複雑な気持ちだった。
「結果的に、お兄様の言う通りになりましたね」
リリアが言う。
「え? 何がだ?」
アレクは相変わらず本を読んでいた。
「セリーの話です。拷問を受けているとか……」
「ああ」
アレクはページをめくる。
「もう我々の手を離れた話だ。忘れなさい」
そして首を傾げた。
「それより、私の言う通りとは何のことだ?」
「私が『再会したら叩き斬る』と言った時、お兄様が『いたぶった方がいい』と」
アレクは目をぱちくりさせる。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
「覚えていないな」
本当に覚えていない顔だった。
リリアは頬を膨らませる。
「私、一生懸命方法を考えていたのですよ」
「城には自白を引き出す専門家がいる」
アレクは平然と言う。
「久しぶりの仕事で目を輝かせているだろうな」
「どうしてそんなことをご存じなのですか?」
リリアが目を丸くする。
アレクは本を閉じた。
「私はこれでも侯爵家の嫡男なのだよ」
珍しく真面目な顔だった。
「知らなくてはならないこともある」
リリアは思わず黙る。
「そなたは自分の仕事に励めばいい。他人に口出しされたら嫌だろう?」
「まあ……そうですが」
「なら同じことだ」
アレクは再び本を開いた。
「せっかくの読書時間だ。話は終わり」
リリアは兄を見つめる。
優しいだけだと思っていた。
だが年を重ねるごとに、アレクは確実に侯爵家嫡男としての顔を見せるようになっていた。
頼もしい。
けれど少し怖い。
そんな複雑な思いを抱きながら、リリアは静かに兄を見つめていた。
夫人はあの後、すっかり元気を取り戻した。
そして以前にも増してリリアを可愛がるようになった。
「私は主人と息子に守ってもらえた。でも、あなたは誰にも守ってもらえなかったのね」
夫人はリリアの手を握る。
「本当に辛かったのでしょうね。無理に『お母様』と呼ばせようとしてごめんなさい」
リリアは胸が熱くなった。
侯爵夫妻とアレクの恩に報いるためにも、もっと頑張ろう。
そう思い、城の仕事や屋敷の手伝いにいっそう励むようになった。
侯爵家は様々な事業を手掛けていた。
人望も厚く、豊かな資産を築いている。
ある日、執事がリリアに語った。
「これだけのものを守るには、人材が必要でございます」
執事は穏やかに続ける。
「旦那様は人を雇う時、能力よりも人柄を重視なさいます」
リリアは真剣に聞いていた。
「もしお嬢様が、贅沢を好み、使用人を顎で使うような方であったなら、旦那様はお嬢様を見捨てていたでしょう」
リリアは目を見開く。
「できましたら、お嬢様には、ずっとこの家にいていただきたいと皆願っております」
執事は微笑んだ。
だがリリアは勘違いした。
(結婚せずに、この家に仕え続けてほしいという意味なのね)
と。
そんなある日。
王太子から熱烈な求婚を受けた。
だがリリアはきっぱりと答える。
「私は侯爵家に人生を捧げます」
王太子は絶望した。
「なぜだ!?」
そして、恐る恐る尋ねる。
「そなたは……アレクシスが好きなのか?」
「好きですけど?」
リリアは即答した。
王太子は崩れ落ちた。
後日。
アレクは王太子に呼び出された。
「そなたは協力してくれると思っていたぞ!」
王太子は本気で泣いていた。
「リリアは、そなたが好きだと言った!」
アレクは頭を抱えた。
「たぶん、意味が違います」
「違うだと?」
「リリアはまだ、恋愛を理解していないのだと思います」
アレクの目は遠かった。
「結婚の意味も分かっていない気がいたします」
実際、その予感は当たっていた。
ある日、夫人から本を渡された
「ちゃんと読みなさい。そして分からないことがあったら私か侍女に聞きなさい」
リリアは真面目に読み始めた。
だが――
「恋?」
ページをめくる。
「胸の高鳴り?」
さらに読む。
「唇を重ねる?」
本を閉じた。
「気持ち悪い……」
途中で投げ出したくなる。
だが夫人に最後まで読めと言われている。
そこで思いついた。
「お兄様にあらすじを聞けばいいのでは?」
翌朝。
リリアはアレクの部屋へ向かった。
だが侍従に全力で止められる。
「お嬢様!」
珍しく厳しい声だった。
「年頃の女性が男性の寝室へ入るのははしたないことでございます!」
リリアは首を傾げる。
「でも最近、お兄様と全然お話できないんですもの」
侍従は頭を抱えた。
(毎日王太子殿下に呼び出されているからです)
とは言えない。
当然、夫人にも叱られた。
「なぜアレクの部屋へ行ったのですか?」
リリアはしゅんとする。
「本のあらすじを教えていただこうと思ったのです」
夫人は嫌な予感がした。
「どの本?」
リリアは夫人から渡された「恋愛小説」を差し出した。
「途中まで読んだのですが、意味が全然分かりません」
夫人は頭を抱えた。
アレクと考えた
『本で恋愛を学ばせる作戦』
は見事に失敗したのである。
ついに侯爵は国王へ相談した。
「リリアの仕事をしばらく休ませていただきたいのです」
国王は残念そうな顔をした。
「あの子の通訳は非常に優秀なのだがな」
「仕事に熱中するあまり、年相応の常識が抜け落ちてしまいました」
侯爵は苦笑する。
「同年代の令嬢たちと交流させたいのです」
国王も納得した。
「確かに、その年頃であったな」
そして話は変わる。
国王がふと声を落とした。
「ところで」
侯爵が顔を上げる。
「あのセリーという女の取り調べだが……」
国王は眉をひそめた。
「なかなか闇が深い」
「と申しますと?」
「よく喋るのだ」
国王は溜息をついた。
「だが、ほとんどが嘘だ」
侯爵も苦笑する。
想像できた。
「しかし、時折妙に気になることを言う」
国王の表情が真面目になる。
「そなたの妹のことだ」
侯爵の顔が変わった。
「妹が何か?」
国王は静かに告げる。
「伯爵家へ嫁ぐ前から、別の男の子を身ごもっていたと言うのだ」
侯爵の顔が歪む。
「だから人の良い伯爵へ金を積んで嫁がせた……と」
侯爵は黙り込んだ。
確かに。
当時、自分も強く反対した。
なぜ妹があの家へ嫁ぐのか理解できなかった。
父はただ一言、
『何も聞くな』
と言うばかりだった。
「事実とは思えません」
侯爵はゆっくり立ち上がる。
「ですが、父の残した資料を調べてみます」
そして帰宅すると、その足で資料室へ向かった。
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