記憶喪失とつらい記憶
人の良さそうな女にどう答えるべきか、さやは考えた。
ヨルンがいた頃のエルフの国は、完全に人間の世界との関わりを絶っていた。断絶はかなり長い年月に及んでいるらしい。
ヨルンがエルフの国で虐げられていたのも、ヨルンが人間の血を引いていたからだ。
人間がエルフ達にどんな感情を抱いているのかはまだ分からない。だが自分が転生したヨルンが人間にあれだけ敵対意識を抱いているエルフの血を引く者だということは、今の段階ではこの女性に話すべきではないとさやは判断した。
状況が分かるまでは余計な情報を漏らさない方が良いだろう。しかもさやの抱える事情はかなり複雑なのだ。下手に打ち明けようものなら間違いなく不審者扱いだ。
自分が何処から来たかを話さずに、人間世界について全く知識が無いことを不審に思われず、しかも人間世界の情報を引き出す方法は。
(やっぱり、あれだよな)
さやは呆然とした表情に見えるように苦心しながら、弱々しい声でこう言った。
「……すみません、分からないんです。何であんな処にいたのか。ここは何処なんですか? ……あれ? あたしは……」
自分の名前ぐらい憶えていることにしてもいいだろう、と思ってさやは言った。
「あたしの名前は…… そう、さや。でも、あたしって、誰なんだろう……」
「——本当に何も憶えちゃいないのかい? 名前以外はこの世界の事を殆ど分からなくなっちまうなんて、そんな事……」
さやに色々質問してみた女は、どうにも信じかねるようだった。さやはいかにも必死に思い出そうとする素振りをしてから、大きくため息をついてみせた。
「……砂漠であなたに助けられた事は、憶えています。それから幾つか、夢みたいな事も頭にあります。あたしは実際にあった事だと思ってたんですけど、あなたの話ではあり得ない事ばかりなんですよね? 今あたしの頭にあるのはそんな、多分夢で見た事ばかりなんです。それこそ自分がどこの誰かなんて、もう丸っきり————」
なるべく途方に暮れたような顔をしてみせるさやに、女は溜息をついた。
「サヤ、だったね。とにかくこれからどうするか、色々相談しよう。ちょっとひとっ走りして村長さんを連れて来るよ。あんたが目を覚ましたら、話がしたいって言ってたしね。あんたの手当てをしてくれたのも村長さんだよ。ちょっとばかりだけど医術の心得がある人なんだよ。まあ心配は要らないよ。何とかしてあたしの家に、あんたを住まわせてやれるよう頼むから」
「——良いんですか?」
素性の知れない自分を家に置くとあっさり決めたことにさやが驚いていると、女は笑った。
「この家には今あたししかいないからね。誰に気兼ねする必要も無いんだ。あんた一人ぐらい、どうとでもなるさ」
そう言うと女はさやの肩まで毛布を掛けてくれた。
「本当にありがとうございます。ええと……」
「あたしはヒルダっていうんだ。サヤ、すぐに戻るから待ってておくれ」
そう言うとヒルダは慌ただしく出て行ってしまった。
ドアが閉まるとさやはホッと息を吐いた。どうやらヒルダはさやの記憶喪失を信じてくれているようだ。
実際さやはこの世界についてはエルフの国以外は何も知らないから、記憶が無いのはある意味本当のことだ。だから本当らしく見えたのだろう。
(気の良さそうな人で良かった。得体の知れない奴だと役人にでも引き渡されていたら、厄介だったからな)
とはいえまだ安心は出来ない、次は村長を誤魔化さねば、とさやは天井を見ながら気を引き締めた。
しばらくするとヒルダが村長を連れて帰って来た。
中背で、八十歳ぐらいと思われる穏やかそうな老人だ。薄茶のシャツと深緑の下袴がヒルダの衣服よりは上質そうなのが村長らしかった。
髭も髪も真っ白だが背はピンと伸びており、かくしゃくとした御仁だった。
何とか身を起こして挨拶したさやに、村長は目を細めて笑った。
「ふむ、礼儀正しい娘さんだ。早速だが少し加減を見せて貰うよ」
そう言うと村長はさやの脈を診たり、手のひらで熱を測ったりした。身体については医師でもない男の自分が妙齢のさやを診るのは憚られたのか、ヒルダに状態を聞くだけに留めた。最後に村長は足裏に巻いた布を外して火傷を確めた。
「熱が出ていないから大丈夫とは思ったが、化膿はしていないようだ。膿むと厄介だからね」
目を和らげた村長は、怪我の手当てについてヒルダに指示した。
「布は毎日替えなさい。火傷の薬に使う薬草はどれも村の林に生えているものばかりだから、私がしたように全部混ぜて潰したら薄く伸ばしたねり粉に塗って、傷口に貼り付けて布で覆うんだ。とはいえ傷の治りには体力が何より必要だ。ここに来るまでに相当無理をしたようだから、十分休養することだな。まあ若いからすぐに回復するだろうよ。ところでサヤさん、といったね。自分が何処の誰か分からないそうだが」
(そらきた)
さやは腹に力を入れると、出来るだけ不安そうな調子で訴えた。
「憶えている事もあるんですが、ヒルダさんの話だとこの世ではあり得ない、滅茶苦茶な事をあると思い込んでいるみたいで……」
「——なる程。ではまず確かめたいのだが」
村長はさやをじっと見つめながらこう言った。
「サヤさんは辛い経験については憶えているかな?」
(へ?)
何を問われるかと身構えていたさやは拍子抜けした。
「——辛い経験、ですか?」
「ああ。酷い目に遭ったり或いは誰かを酷く憎んで傷つけてやりたいというような、苦しい感情は残っているかい?」
(何でそんな事が気になるんだ? 犯罪歴でも確かめたいならもっと質問のしようがあるだろうに)
さやは解せなかったが、とにかく村長の質問について考えた。なるべくなら嘘は少なくしたいから。
確かにヨルンは故郷で酷い目に遭っていたが、それはヨルンの経験だ。
そしてさや自身についてはまあ、前世では二十八年も生きているのでそれなりにしんどい思いも経験しているのは確かだ。
中でも例の宿敵には、それこそはらわたが煮えくり返る思いを何度もさせられてはいる。
ただ宿敵に対しては辛さよりも、それなりに対抗出来たという誇らしさの方が勝っている。
それに転生して二度と〝故郷〟には戻れなくなった今となっては、前世の記憶は何もかも、辛さすら懐かしく愛おしいのだ。
そうした事を考え併せ、さやは口を開いた。
「そうですね、そもそもヒルダさんに助けて頂いたあの砂漠にいる前の自分については…… 多分憶えていないんですよ。ですから今でも心が苦しくなるような感情も…… とりあえずえず無いと思います」
「…………」
「あ、でもあの砂漠にいた時はやっぱり辛かったですね。何であんな処にいたのかはさっぱり分からないんですけど、とにかく暑いし喉が渇いて死にそうだし、火傷で足は痛いしで、もう散々でしたよ。いや、助けて頂いてホント、有難いです」
明るい調子でそう答えたさやに、村長は目を細めた。
「……それだけが辛い記憶かね?」
そう問われてさやは付け加えた。
「ああ、もう一つあります。この先の事を考えると辛い、というか不安ではありますね。だって自分の事が分からないだけじゃなくて、あたしの頭にはこの世界についてどうやらかなり出鱈目な情報ばかり詰まっているみたいですから。こんなんでホント、やっていけるのかな、と思いますよ」
さやは良い口実だと思い、村長に頭を下げて訴えた。
「村長さん、ご面倒だとは思うのですが、出来たらあたしにこの世界について教えて頂けませんか?」
すると村長は何故か声を上げて笑いだした。
「そうか、将来が不安な事だけが辛いか。ハハハ、それはいい!」




