知らない方が
可笑しそうに笑っているのに、村長から明るさは感じられなかった。笑えば笑う程、何故か村長が泣いているようにすらさやは感じる。
少しして村長は笑いを収めてこう言った。
「世界の事など、知らんでも生きていけるよ。私だって分からない事の方が多いぐらいだ。少しばかり本を読んだのと若い時に少し大きな街の学校へ行った以外は、この村と近くのレナ街だけが私の知る世界さ。世界を全て正しく知る者など、いたとしてもほんの一握りだろうよ——」
村長はふっと暗い目をしてこう呟いた。
「もうじきこの村だけが私の世界になるのだろうしな」
何だか煙に巻くような言い方だとさやは不満に思ったが、村長の言葉にも一理あるのは確かだった。
ヒルダや村長の服装からすると、この世界はかなり旧式の社会なのだろうと想像はつく。恐らく自分が暮す村以外は何も知らない者は、珍しくないのだろう。
それに村長も記憶を失って何も分からない者に、一から教えるのは面倒くさいのではないだろうか。
そうは思ったものの、さやは食い下がってみた。
「でも自分の頭にある知識の何が正しくて何が間違っているか分からないのは、かなり不安なんですよ。村長さんがご存知の事だけでも教えて頂けると、有難いんですが」
「まあ焦らずおいおい正していけば良いさ。とりあえず世界などという大層なものではなく、身近な所から確かめたらどうかね。例えば——」
村長は寝室を見回してからさやをじっと見つめ、こう尋ねた。
「さやさんはこの部屋を見てどう思うかね? 何か気付く事は無いかい?」
ゴクリと唾を呑む音がした。見るとヒルダの顔が強張っている。さやは村長も人の悪い質問をすると思った。
ヒルダが気まずく思うのも無理はない。寝室の汚れと散らかり具合はそれ程酷かったからだ。
特に酷いのは壁や床に付着した黒い汚れだ。一体何をぶちまけたのかと思う程、そこら中にこびり付いている。
何と答えれば良いかと悩むさやに、村長は答えるよう促した。
「どんな事でも遠慮せんでいいんだよ。思った事をそのまま言っておくれ」
(そのままって…… 言い辛いよ!)
さやは心の中でぼやいたが、そこまで言われては仕方ない。とりあえず一番当たり障りが無さそうな事を言った。
「そうですね。この寝室は結構広いのに、家具がベッドしか無いのはちょっと寂しすぎると思います」
さやがそう言った途端、村長とヒルダは大きく目を見開いた。どうやらさやの答えは思いもかけないものだったらしい。
「すみません、あたしの頭にある考えではそれなりのスペースのある寝室なら、小さな棚ぐらいあってもいいんじゃないかと思ったもんで…… 間違ってますか? 寝室って、どれだけ広くてもベッドしか無いものなんですか?」
慌ててさやが付け加えると、今度はヒルダが強い口調で言った。
「他には? 他に気になる所は無いかい? 何でも良いから言っておくれ!」
あまりの剣幕に、さやも遂に本音を言った。
「いやその…… 言いにくいんですけどもう少し片づけとか、お掃除とかなさった方が良いのではないかと…… 特に壁の汚れとか…… すみません! 不躾な事を言いました!」
言い終えるとさやは頭を下げて謝った。そして顔を上げると、ヒルダと村長はどちらも呆然とした顔で互いを見やっている。
村長がため息と共に呟いた。
「そうか…… 何も知らなければそう見えるのか」
さやは村長が何故そんな事を言ったのか、そして何故二人がそれ程動揺しているのかさっぱりわからなかった。
一体自分は何を知らないのだろう? この部屋に、この世界の常識を知らないさやが見落としている何があるのだろうか?
だが村長はそれ以上言及しなかった。軽く咳払いすると再びさやに向き直ったが、その眼にあったさやを探る鋭さは消えていた。
代わりに感じるのは優しさと、何故か羨望の情だ。
村長は温かい目でさやを見つめながら言った。
「サヤさん、お前さんの中にあるその夢みたいな記憶とやらを、少し聞かせてくれないかね。どうやら久しぶりに楽しい気分になれそうだ」
結局さやは幾らかではあるが、この世界の〝正しい知識〟を得ることが出来た。村長はさやにどんな事を憶えているのか様々な質問をした。国や村といった地名、頭に浮かぶ人はいないか、文化や食べ物は憶えているか。
その過程で村長はさやの〝間違い〟を正してくれた。
ヒルダや村長の服装やこの部屋にランプがあるところなどから、少なくともこの村は近代ヨーロッパ風の文化なのだろうとさやは予想していたが、驚いたことに家電と呼べるような便利な道具がある程度存在していた。
この世界では画像通信機と呼ばれる、テレビ電話に相当する通信器具まで存在するそうだ。
もちろんそういう道具は非常に貴重で高価なもので、所持しているのは相当の資産家や貴族に限られる。画像通信機などは大きな街に一台あれば良い方で、庶民が利用するにはそうした街に出向いてかなりの金を払って使わせて貰うらしい。
そういう事は村長も気軽に教えてくれた。
ただ話が移動手段に及ぶと、村長はさやが何を言おうと〝間違い〟を正しもせずに話を聞いているだけだった。
仕方ないのでさやは思い切って現代日本の交通事情を披露した。すると村長ばかりかヒルダまでが、目を輝かせてさやの話に聞き入ったのだ。
「なんと、途方も無い夢を見たものだ! 国中に張り巡らされた金属の道を金属の長い乗り物が、馬も付けずに自由に人を載せて国中を走り回る! それどころか多くの人が巨大な乗り物で空まで飛んで、世界中を旅するのか。実に素晴らしい! ——羨ましいな、そんな事があると思えるとは」
「本当に、まさしく夢の様な世界だねえ」
しみじみとした口調でそう呟く村長とヒルダに、さやは他の〝記憶〟を披露した時と同様に尋ねた。
「それで、あたしの記憶はどの辺が間違っていますか?」
すると村長はこう言った。
「せっかく楽しい夢なんだ。今すぐ正さなくとも害は無いだろうよ。お前さんのその身体では〝この世界の乗り物〟を使って外国に行くどころか、この家を出るのもかなり先になるだろうからな。それまでは良い夢を見ているといいよ」
「そうだねサヤ、しばらくはその〝夢〟であたしを楽しませておくれよ」
そう言うヒルダは笑ってはいたが、その顔はやはりどこか荒んでいた。
質問を終えると村長はさやに言った。
「——サヤさんは先ず身体を治す事に専念しなさい。回復してからゆっくり身の振り方を考えると良い。何なら村で暮らしても構わんよ」
「本当ですか⁉ 有難うございます!」
あっさり滞在を許してくれたことに、さやは驚き喜んだ。
〝家を出るまでは楽しい夢を見ているといい〟
その言葉と二人の暗さには引っかかったが、とにかくこの世界で野垂れ死にだけは免れたことにさやは心から安堵した。
もちろん色々気になる事はあるが、今は後回しだ。
安心すると一気に力が抜けた。何しろさやは村長の質問に答える際にも記憶喪失らしく見えるよう、気の張りつめどうしだったのだ。
気が緩むと強い睡魔が襲ってきた。喉の渇きも収まった今は、ただ疲労困憊した身体と心を休めたい。
「ゆっくり休むといい。眠るのが一番の治療だ」
「そうだよ。好きなだけ眠りな」
村長とヒルダの言葉に限界だったさやは目を閉じ、そのまま深い眠りに入っていった。
さやが眠ったのを確かめた村長の顔から笑みが消えた。覆い隠していた陰鬱さをさらけ出した顔で呟く。
「あの砂漠にいたんだ。しかも普通の者ならそれこそ恐怖で縮み上がるだろうこの部屋に寝かされて平然としているから、てっきり私らと同様に馴染んでいるのだろうと思ったが、まさかそれすら忘れているとはな…… そんな事もあるのだな」
「言ったじゃないですか、身体にも、周りにもあれが憑いている様子は無かったって」
「まあどうでも良い事さ。どんな奴がこの村に入り込もうが、今更気にするまでも無いだろう」
ヒルダに自棄的な言葉を返した村長は、表情を和らげてこう言った。
「それにしても実に面白い娘さんが舞い込んできたものだ。私らを憐れんだ女神様の御慈悲かもしれんな。あの突拍子もない考えは、しばらく私らを楽しませてくれるだろうよ。それにあんたも誰かと一緒に暮らせば少しは心が安らぐだろう。妙な気も起こさなくなるだろうよ」
「————」
黙っているヒルダを、村長は険しい顔で睨んだ。
「砂漠にいたということは、そのつもりだったんだろう? いいかね、あんた一人の問題じゃないんだよ。あんたがそんな真似をすれば、イザベラはどう思う? あの人は、あんたがいるから何とかやっていけるんだ。もしあんたがそんな風に命を落としたと知って、彼女が捕らわれたら、どうするんだ。それを忘れないでおくれ」
うつむいたヒルダに村長は言い聞かせた。
「とにかく、あんたはこの娘の世話をしなさい。今のあんたには、そういう相手が必要だよ」




