ヒルダ
さやがヒルダの家に身を寄せるようになってから半月程経った。
どうにか歩けるようになったさやは、出来る範囲でなるべくヒルダを手伝うようにした。
ヒルダは三十五歳で独り暮らしだ。
さやがヒルダを手伝うのは好印象を持たれたいというのもあったが、何よりもこの世界における日常生活のスキルを早く身に付けたいからだった。何しろさやが案じた通り、ヨルンは日常で必要な作業は殆ど出来なかったから。
ただそれは王宮で大事にされていたからではない。皆が放置して彼女に殆ど何も教えなかったのだ。
しかもヨルンが暮らしていたのはエルフの国だ。人間社会の処世術になると、もうお手上げである。
だからさやは何か作業をする度に、ほんの基礎的な事までヒルダに細かく質問した。そこは記憶喪失がいい理由になった。
ヒルダの話によるとこの世界には魔道具と称する、現代の地球にもあるような文明の利器がかなり存在していた。
魔獣や仙草から採取される魔石を動力源とし、照明器具は勿論、それこそ生活に必要な家電に類する物は大抵あるらしい。
いかにも異世界っぽい魔道具としては、次元収納袋なるものがあった。小さな袋なのにかなり大きな物でも仕舞えるばかりか、重さも感じることなく楽に持ち運べるという便利アイテムだ。
何種類かの魔獣の身体にある、餌を貯めておく臓器を用いて作られたもので、使う魔獣の素材によってはポケットに入れられるサイズなのに家一軒分の資材ぐらい収納することが可能だそうだ。
しかも時間経過も無いというから驚く。
ただ次元収納袋はもちろん、そうした魔道具の多くは王侯貴族や大都市に住むかなり裕福な者だけが使う贅沢品だった。
ヒルダの家も灯りはランプで料理は薪で使う料理兼用のストーブ、火付けはマッチらしき道具に頼っている。
「こんな事まで忘れちまったとは、難儀なことだねえ。ほら、そうじゃなくて、もっと頭の方をこっちに擦り付けて」
今日は台所の手伝いだ。さやはこの世界でマッチに似た道具の使い方を教わっていた。
前の世界のものに比べると、点火のコツをつかむのが難しいのだ。
「すみません、手伝いどころか却って面倒をお掛けして」
「何言ってるんだい。困ったときはお互い様だよ。それに、あたしもあんたがいてくれて助かっているしね」
そう言ってヒルダは部屋を見回すと笑った。
部屋はさやが来た時に比べれば、かなり整頓されている。さやが納屋にあった木の空き箱や板切れを利用して、家具が無いなりに散らかっていた小物を収納したのだ。
「あんたがこんなに片付け上手とは思わなかったよ。やっぱり部屋がきれいだと、気持ち良いもんだねえ」
「喜んで貰えて良かった。片付けのやり方は、何とか憶えているみたいで」
「そのようだね。あ、火がついたね。じゃあ、ストーブは任せたよ」
そう言うと、ヒルダはさやに背を向けて料理の支度を始めた。
一方さやは火の勢いを強める為にストーブに吹子で風を送りながら、情報収集にかかる。
「ところでヒルダさん、この村ぐらいだと魔道具って全く使わないんですか? ライター…… もっと簡単に火を点けられる道具も、お金持ちしか使えないんですか?」
その問いにヒルダの顔が少し曇った。
「——まあ、前はもう少し便利な物もあったんだけどね。三年前にどうしても金が必要になって、村中で売り払える物はみんな売っちまったんだよ。おかげであたしの家もこの有様さ。何も無いだろ?」
さやは家具も道具も殆ど無い家を見回した。
唯一目につく物は居間にある掛け時計だけ。他はさやが一応整理した小物ばかりだ。
「どうしてお金が必要になったんですか?」
ヒルダはその問いには答えずに包丁を手に取った。そして野菜を切りながら、こう言った。
「あんたは本当に偉いねえ。普通の娘なら記憶が無くなっちまうなんて羽目になったら、今頃はまだ気が動転して何も手が付かないだろうに、もう一から何もかも学ぼうとするんだから。大したもんだよ」
この問いには答えてくれないのだな、とさやは察した。ヒルダはさやに色々教えてくれる。だが、理由は知らないが聞いても教えてくれない事もある。
さやはヒルダが教えてくれない質問についてはそれ以上拘らず、引き下がる事にしていた。
秘密を抱えているのはお互い様だ。それにヒルダが教えてくれる事だけでも山程あるのだ。とにかく今は教えてくれる事だけを憶えよう。そう自分に言い聞かせて。
だからといって不安に思わない訳では無い。何しろこの世界の情勢や仕組みについて、ヒルダは何も教えてくれないのだ。
どうしてなのか。さやをこの世界について何も知らぬままにさせておく必要があるのか。
疑問や不安は日に日に強くなっていた。
それでも膨らむ不安を抑えつけ、さやは今日も気付かぬ振りをした。ストーブに風を送りながら、おどけた口調で答える。
「ハハ、ここまで何も憶えていないと、却って開き直ったっていうか。とにかく早くちゃんと生活出来るようになりたいんですよ。ヒルダさんが丁寧に教えて下さるんで、助かります」
最後の言葉は嘘ではなかった。実際ヒルダは日常で必要な作業については細かい事まで、手取り足取り教えてくれる。
ヒルダが親切な女であることは間違いない。
「あんたとは気が合うね。確かに、そう出来るなら自分の足で立って生きるのが一番だよ」
そう言って笑うヒルダにさやも笑った。教えてくれない事はあるが、ヒルダと話すと結構気が合うなと思う事は多い。
ヒルダは気遣うような口調で付け加えた。
「だけどね、無理はしない方が良いよ。あんたにしてみたら焦るのも仕方無いだろうけど、あんたは今とんでもない状況なんだから。ゆっくり、少しずつ覚えることだよ。まずは身体と心を労わるのが肝心だからね」
「ありがとうございます」
ヒルダの気遣いに礼を言ったものの、良い機会だと思ったさやは今後の事について、自分の考えを少しヒルダに話しておくことにした。
火勢が強くなったストーブで湯を沸かしながら、さやは切り出した。
「ヒルダさん、ちょっと相談があるんですけど」
「何だい?」
「あたし、片付けした時に感じたんですけど、どうも掃除のやり方は結構憶えているみたいなんですよ」
「確かにそうかもしれないね。あんたは片付けが上手いからねえ」
「それで思ったんです。勿論まだ先の事になりますが、掃除を仕事に出来ないかって」
この世界が今どんな状況なのか、自分がこの世界でやるべき事が何なのかを、さやはまだ何も分かっていない。
だとしてもまずは自活していけるようになりたかった。更に出来れば清掃の仕事で身を立てていきたいのだ。
「掃除を、かい?」
「ええ」




