最悪
「サヤ、前にこの村は最悪の一歩手前にあるって、言っただろう?」
「——うん」
「なら最悪は何だと思う?」
「…………」
村から一歩も出られなくなる。それを〝封鎖〟と呼ぶのだと村長は言っていた。その後は生きていくのに必要な物資は、近隣の村や街の慈悲に縋るしか無いのだと。
闇の増殖を最低限に抑える為にはそうするしか無いそうだが、酷い話だ。
しかしヒルダの話ではそれでもまだ最悪の一歩手前なのだ。さやも疑問には思っていた。なら〝最悪〟は何なのだろうと。
今まで村長もヒルダも言葉を濁して教えてはくれなかったが、そんな状況よりひどい措置があるのか。
「最悪ってのはね、もう闇がどうしようも無く膨れ上がって、その場にいる人間を皆吞み込んじまうだろうって判断した時に、上が取る措置さ。その場所は完全に閉じられて、中にいる奴は外に出られなくなる。そして—— みんな、闇に吞まれちまうんだ。それを——」
ヒルダはコップのワインを一気に呷ると、言った。
「〝完全封鎖〟っていうのさ」
膨れ上がった闇が中から出られないように、完全に締め切られる。
さやの脳裏にあの教会の光景がよぎった。外に闇が染み出す程濃く深い闇が明らかに充満していて、扉や窓はどこも何重にも板を打ち付けて封鎖されている。
そしてヒルダの夫は教会にいる。
さやは思い出した。昼間教会を睨んだ時に強い憎しみを感じたことを。あれは―― 気のせいでは無かったのか。
「……ヒルダ、まさかあの教会って」
ヒルダはうなずいた。
「あそこは、完全封鎖地域なんだよ」
三年前、シナ村の教会で行われた集会の最中に突如闇が増殖した。逃げ遅れた村人は全て吞み込まれた。
集会に参加しなかったヒルダは難を逃れた。また闇の増殖は教会内部だけで収まったことから、犠牲者は恐れていたよりも少なくて済んだ。恐れていたよりも、ではあるが。
犠牲者の中にはヒルダの夫がいた。
それでもシナ村はまだ運が良かった。
そのまま放置していれば間違いなく村全体が完全封鎖地域になっていただろうが、たまたま通りかかったヒーラーが教会の外に漏れ出た闇を、どうにか日常生活が送れる程度には祓ってくれたのだ。
おかげでその後すぐに実施された汚染度検査でも、何とかレナ街への出入りだけは許されたのだ。
「――ああ、運が良かったよ。それは分かってるんだけどさ」
ヒルダは乾いた笑い声を立てた。
「それでもあたし達は、これが悪夢ならどうか覚めてくれと祈らずにはいられなかったね。残った闇にいつ吞まれるか分からないってことに怯えながら、教会の闇に吞まれちまった身内が、あたし達に四六時中呪いの言葉を吐きかけるのを聞かされ続けるのさ」
ヒルダの言葉にさやは驚いた。
「——闇に吞まれた村人達は死んだんじゃなかったの? 三年間ずっと教会から出ていないのに、まだ生きているの?」
「魂だけ―― 悪霊になってあそこにいるのさ。闇に吞まれて怖いのはね、ただ命を奪われるだけじゃない。自分を呑んだ闇が祓われるまで、何年でも何百年でも、それこそ永遠に閉じ込められるのさ。そうなりゃ転生も出来ない。考えるのもおぞましい悪霊になって、ひたすら外にいる奴を呪い続けるんだよ」
「…………」
闇に吞まれた村人は、生き残った愛する者に恨みと呪いを吐きかける。
何故助けてくれなかった。何故お前らだけ逃げた。何故自分達と一緒にいてくれない。
お前らも〝此処〟に来い。
毎日村人は後悔と罪悪感に苛まれる。
自分達が金を惜しまず定期的に村の闇を祓っていれば、あの惨事は防げたのではないか。
あの場で愛する者を救う手立てがあったのではないか。
何より、自分がもう少し怒りや憎しみを抑えていれば、闇が増殖することも無かったのではないか。
「……あの集会の前の晩、あたしは旦那—— ジョゼフと派手な喧嘩をしてね。レナ街で屋台の店をやってみたいってあたしが打ち明けたら、あいつは鼻で笑ったんだよ。夢みたいな事考えるな、うまくいく訳無いだろうって。その時はあいつの言い方が無性に腹が立ってね。結構酷い事言っちゃったな」
翌朝ヒルダは仮病を使って集会を欠席した。ジョゼフと並んで席に座りたくないという、子供っぽい腹立ちのせいだった。
そうしてジョゼフは、一人で教会へ行った。
ヒルダは、赤らんだ目で宙を見ながら呟いた。
「——今でも思うよ。闇があれだけ膨れ上がったのは、あたしがジョゼフにあれだけ酷く怒ったからじゃないかって。あの時あたしが自分を抑えてジョゼフに従っていれば、村のもんは闇に吞まれなかったんじゃないかって」
そこまで話したヒルダは、ニッコリ笑った。
「あー、ホッとする! あたしがこんな事を思うとね、此処にあった闇からジョゼフの奴が、必ずあたしを責め立てるんだよ。〝そうだ! お前が悪い!〟て。〝あれ〟が無いと思うだけで、せいせいするよ」
そう言った途端、ヒルダの笑顔は崩れ、今度は目から涙がこぼれた。
「——酷い女房だよね。旦那が今でもあんな酷い処に閉じ込められているってのに、ホッとしてるなんて」
そう言うと、ヒルダは下を向く。その背は震えていた。さやはヒルダの背に手を置いて、こう話しかけるしか無かった。
「ヒルダは酷くないよ。その闇が増殖したのは絶対、ヒルダのせいなんかじゃないから安心して」




