闇
その日ヒルダはサヤに料理を手伝わせなかった。
「今日は居間をすっかりキレイにして貰ったからね。あんたはゆっくり休んでておくれ」
そう言われたので、さやは大人しく料理が出来上がるのを待っていた。ヒルダが事情とやらを話すのもだ。
しかしいつもならさっさと夕食を用意するヒルダは珍しく料理に掛かりきりになってしまい、まだ教えてくれる様子は無い。
大分遅くなって夕食が出来上がり、やっとヒルダと言葉を交わせる状況になった。とりあえずヒルダが運んできだスープに手を付けたさやは、一口飲んで思わず言ってしまった。
「あ、美味しい」
ヒルダが作るいつものスープは塩水で野菜を短時間ごった煮したような代物でしかなく、あまり火が通っていない時すらあった。
だが今日のスープは野菜が丁度よく煮込まれている上に、ダシもしっかり出ている。ちゃんと形が残っているのにホロリと崩れるジャガイモが何とも言えず美味しい。塩加減も絶妙で、香草も使っているようだ。
しかしそんな事を言ったら今まで出された料理が美味しくないように聞こえるではないか、と気づいたさやは慌てて口をつぐんだが、ヒルダは笑って言った。
「あたしがちゃんと作った料理だ。今までの〝エサ〟とは違うだろう? 今日はパン種も仕込んだから、明日は焼き立てのパンを出すよ。料理は昔から得意だったのさ」
そう語るヒルダの顔は、さやがこれまで見た事もないくらい穏やかだった。
「あの〝汚れ〟がどんどん大きくなっていくのを見ると、どうにも頑張って料理しようという気になれなくてね。今日は久しぶりに腕を振るってみたよ。これからは楽しみにしておくれ。毎日あんたの為に美味しい飯を作ってやるよ。あの〝汚れ〟をあんなにキレイにしてくれた、せめてもの礼だ」
こんな明るいヒルダを見るのは初めてで、さやも本当に嬉しかった。自分の仕事がそうさせたのだからなお更だ。
さやは遠慮なく料理を頂くことにした。
スープの横に置かれた、干し肉を野菜と炒めた料理も絶品だ。固いパンも美味しいスープに浸して食べれば、味が格段に跳ね上がる。
今まで衣食住の面倒を見てくれたヒルダには悪いが、こんなに美味しいと思って食べる食事は久しぶりだった。
「ヒルダは料理の才能があるんだね。ホント、すごく美味しいよ! この炒め物とスープを出す店があったら、絶対常連になりたいぐらいだよ」
さやが手放しで褒めると、穏やかだったヒルダの目が陰る。ヒルダは遠くを見るような目をして呟いた。
「レナ町に屋台の店を出そうかと思ってた時もあるよ」
さやの手が止まった。前にヒルダが言っていた事が頭に浮かんだからだ。ヒルダはもうじき村から出られなくなる。近くの街で屋台を出そうとまで考えていたのなら、辛いだろう。
料理を食べる手が止まったさやに、ヒルダは表情を改めて言った。
「サヤ、さっきも言ったけど、あんたに話す事があるんだ」
「――その〝汚れ〟の事だね。それって、何なの?」
さやが壁に残っている黒い汚れを見て尋ねると、ヒルダは真剣な表情のままこう言った。
「そいつが何なのかを話す為には、今まであんたに隠していた事を教えなけりゃならないんだ。あたし達がどうしてこの村に閉じ込められなけりゃならないのかをね。つまり—— 世界が今、どうなっているのか」
さやはゴクリと唾をのんだ。
さすがに予想外だったのだ。タダの汚れに過ぎないと思っていたものがそんな重大な、ヒルダがさやに隠し続けてきた秘密を明かす気にさせる程の意味を持っていたなどとは。
「この汚れが、世界とどう関わるの?」
さやの問いにヒルダは話し始めた。
今まで閉ざす事で平穏が保たれていた扉が、遂にさやの前に開かれた。
「あれは汚れじゃない。〝闇〟なんだよ」
「闇?」
ヒルダは頷いた。
「闇って奴とは、あたしが生まれた時からの付き合いさ。あたしの両親もそう。爺ちゃん婆ちゃんも、いや、この世界の人間はみんな、〝あいつ〟に苦しめられてきた……」
ヒルダの話によると、この世界であの黒い汚れは闇と呼ばれているのだそうだ。
闇がいつ生まれたのかは誰も知らない。ただ憎悪や絶望といった負の感情が、闇を急速に悪化させることは分かっている。
他の動物や魔獣が闇を生じる気配は無く、人のみによって生じるものなのだ。
闇は最初のうちは素人目には小さなシミと見分けがつかず、さして害も無い。だが強い負の感情に晒されることで際限なく広がっていく。
増殖した闇を放置したままにすると、最悪の場合家屋ごと人を吞み込んでしまうそうだ。家どころか村や街が闇に吞まれた例は枚挙にいとまがなく、闇の増殖とは関係ない動物や魔獣も闇に吞まれれば命は無いとヒルダは説明した。
闇は人由来のため、ある程度闇に浸食された地域に住む者はその闇を他所に伝播させないよう、行動範囲を厳しく制限される。これが、ヒルダ達がこのシナ村に閉じ込められる理由だった。
さやの脳裏に村中のあちこちにあった黒い汚れが思い浮んだ。そして外に滲み出る程汚れに侵されていた教会。
あれが全て闇なら、確かに酷い。
さやがこの村にすんなり受け入れられたのは、さやに闇が憑いている様子が無かった(閉じ込めねばならない程闇に取り憑かれている場合は身体に闇が付着するそうだ)のに加え、記憶の殆どを失っていたことが大きかった。
闇に繋がる記憶が無ければ、闇も生じないだろうと判断されたのだ。
それに今更外部からの流入に構う気にもなれない程この村が既に闇に浸食されていたことも、さやの受け入れをさほどためらわなかった要因だった。
「三年前、何でだか分からないけど、いきなりこの村の闇が膨れ上がっちまったんだよ。まあ、幸いと言って良いのか……」
ヒルダは一瞬言い澱んだが続けた。
「村ごと吞まれる前には何とか収まったんだけどね」
その話をするヒルダの目には、さやがようやく消し去ったはずの陰がまた戻っていた。その暗さにさやは胸を痛めながらも話を聞く。
「それでこの村はこんなに闇が酷いんだね。何とかして解決する方法は無いの? だってあたしでも少しはキレイに出来たんだから……」
何とかなるのではないかと問うさやの目を見てヒルダは言った。
「それがこれからする話さ。闇に吞まれる前に闇を食い止め、それどころか行動制限を緩和して貰えるまで闇を消す方法が、一つだけあるんだよ。ヒーラー様に、闇を祓って頂くんだ」
「ヒーラー? 祓う?」
「この村だって、これでもある程度は祓って頂いたんだよ」
ヒルダは説明してくれた。この世界で唯一ヒーラーと呼ばれる特殊能力者だけが闇を消し去る事が出来るのだと。その能力を、闇祓いと呼ぶのだそうだ。
「つまり、あんたの能力さ。この闇を、あんたは消す事が出来た」
それを聞いたさやは、自分がヨルンの最期を看取った時の事を思い出した。
死ぬ直前、ヨルンの足先が黒く染まりかけた。しかしあの時も壁の汚れと同様に金粉が散ると、黒いものが消えたのだ。
(あれは、ヨルンが闇を祓ったのか)
さやはやっと分かった。闇を祓う事こそヨルンがこの世界で果たすべき役目だったのだ。




