発現
固く絞った雑巾で壁を拭きながら、サヤは何度もゲンコツで頭を叩いた。これは掃除中に雑念を追い出す時のさやの癖だ。
清掃は一つ一つの作業自体は決して難しくはない。それこそ大概の者が出来る作業だと言ってもよいだろう。難しいのは限られた時間内で決められた範囲を、きちんと仕上げることなのだ。
その天敵が、雑念だ。
単純作業が多いので作業しながらつい物思いに耽ってしまいがちなのだが、そうすると時間があっという間に過ぎていく。それでも時間内にこなせる緩い現場もあるが、作業内容がギチギチに詰まった現場で楽しく空想しようものなら作業終了時間が近づく頃に地獄を見ることになるのだ。
もちろん作業の手抜かりの原因でもある。
その惨事を防ぐ為にさやが編み出した策がこのゲンコツと、四六時中の時刻確認だった。それこそ手が空けば必ず時計を見る。現状で困るのは腕時計が無いことだった。
(居間は掛け時計があるから大丈夫。他の部屋は体内時計で判断するしかないな。まあこの家は見知っているから何とかなるだろうけど)
出来れば懐中時計あたりが欲しいのだが、それはかなり難しそうだった。ヒルダによれば「目の玉が飛び出るほど」高価なものらしいから。
ヒルダの話では時計自体がそれなりの高級品で、庶民は一度購入した掛け時計を修理しながらそれこそ親から子、更にその孫に引き継ぐぐらいまでは使い続けるのが普通ということだった。
ヒルダの家の掛け時計も、ヒルダの両親から引き継いだものだそうだ。だから手放さなかったのだとヒルダは言っていた。
時計が全く無い家も珍しくないそうで、そうした家を掃除する場合は体内時計で時間管理をするしか無いだろう。
ただその点について、さやはあまり心配してはいなかった。掃除を外注するような家はそれなりに裕福なはずで、掛け時計や置時計ぐらいは家のどこかに置いてあるだろうと思うからだ。
とはいえ手元に時計を置けない以上、体内時計を鍛えることは必須だ。
それにこれから掃除屋をするなら、初見の現場でもきちんと時間内に仕事をこなさなければ、仕事は任せて貰えないだろう。その為には場数を踏んで自分の感覚を鍛えておくしか無い。
さやはヒルダの家の次は、ヒルダの知り合いの家をお試し掃除させて貰おうと思っていた。
もっともそれは先の話だ。まずはヒルダの家の掃除をしっかりやる事だ。
さやは自分の頭をゲンコツで叩き、将来についての物思いを追い出す。
無給の実習で、しかも自分が暮らす家だが久しぶりの〝仕事〟としての掃除だった。
さすがに緊張するし、きちんと仕上げられるか不安でもある。何しろトイレも含めて、どこも旧式仕様なのだ。
ホコリを除去し終えた居間はもう拭き掃除をするだけだが、一部の箇所はヒルダから指示された方法で掃除する必要がある。その確認をしながらの作業になると、やはりいつもよりは時間がかかった。
そしてもう一つ、今回さやはひっきりなしに襲う雑念とも戦わねばならなかった。何しろ現在のさやには気がかりなことが山ほどあるのだ。
ヒルダの話からもプンプンヤバさが伝わるこの世界で、自分はちゃんとやっていけるのか。
自分が生計を立てられるかどうかすら定かでは無いのに、ヨルンの役目まで果たしてこなせるのか。
ヒルダの様子だって気がかりだ。
そうした事をひっくるめ―― 一体この世界は今どうなっているのか。
雑念はあとからあとからやって来る。
さやは頭を何度も強く叩いて嫌な想像を追い出した。今は何も考えるな。とにかく掃除しろ。
窓と壁を拭き終えたところで時計を確認。二十分経っている。何とか許容範囲内の時間に収まったので、さやはホッとした。床は最悪でも二十分で終わらせよう。
さやは桶の水で手早く雑巾を洗い、固く絞ると箒に巻き付けて、その後は一心不乱に床を拭き続けた。
土足の床はもう長い間掃き掃除もしていないのだろう。汚れを落とすのが結構難儀で、却って掃除に集中出来た。
度々時計を見ながら床を拭くこと十五分。目立つ汚れ以外は全体を手早く拭いたところで、さやは床掃除を切り上げた。そして寝室に避難させた小物を壊れぬよう、丁寧に元の場所へ戻す。
作業が終わったところで時計を見た。四十分。五十分だとしても、あと十分残っている。
さやは壁を拭く時にはそのままにした黒い汚れを見た。
時間を十分残したのは、少しでもこの汚れを落とせるか一応試してみたかったのだ。だってヒルダがこの汚れを酷く嫌がっているのは分かっているから。
〝落とせるなら、それに越した事は無いがね〟
そう言った時にヒルダが泣きそうな顔をしていたのを思い出す。
ヒルダはさやと話していると心が明るくなると言っていた。実際夜にさやが寝室に行く際のヒルダは、いつもかなり穏やかな顔になっている。
しかし朝顔を合わせると、また陰鬱な様子がぶり返しているのだ。
ヒルダはさやに何も知らないままでいて欲しいと願っているから、さやもヒルダの心に踏み入るのにはためらいがある。
だからこそさやは強く思うのだ。自分がヒルダの為に出来る事があったら、してやりたいと。
さやは黒い汚れを見て思った。こんな酷い汚れがこびりついているような部屋に一人でいたら、気が滅入るのも無理は無いと。
さやが部屋を片付けた時、ヒルダはとても喜んでいた。この汚れを落とせばヒルダは、あの途轍もない闇を抱えた彼女は少しでも気分が晴れるだろうか。
ヒルダはさやにとってこの世界で初めて得た、共に暮らし助け合い、気心も知れた大事な存在だった。出来れば笑顔でいて欲しい。再び砂漠で死にたいなんて、絶対に思わせたくない。
さやは用意された掃除道具で使えそうな物がないか考えた。そして、灰に目がいく。
ヒルダは油汚れに効くと言っていた。黒い汚れは、油性に見えなくもない。
(灰はアルカリ性だよね。アルカリ性の洗剤って、確か木には良くないんだよなあ。あ、でも、酸性のものをかければ良いんじゃなかったっけ)
さやは台所に行って酢が入った瓶を持って来ると、とりあえずあまり目立たない所で試してみることにした。
皮の手袋をはめると、雑巾に少量の灰を付ける。そして汚れの端に雑巾をあてがい、思い切り力を込めて擦った。
どうか落ちてくれ、ヒルダを笑顔にしたいと強く願いながら。
その時、さやの中で何かが弾けた。
弾けた処から酷く熱い何かが、身体の隅々まで一気に染みわたっていく。あまりの熱さに思わずさやは目を閉じた。
熱気が去った時、さやは同じ姿勢でいた。雑巾も汚れの端に付けられたままだ。慌てて時計を見るが、分針は動いていない。妙な感覚は一瞬だけだったようだ。
(何だったんだろう? 身体でもおかしくなったのかな。砂漠で死にかけた後遺症?)
少し身体を動かしてみようと雑巾を壁から離したさやは、目を見張った。灰を付けた雑巾で擦った処だけ、汚れがキレイに消えていたのだ。
「やった! やっぱり灰が効果あったんだ!」
さやは歓声を上げた。
明日からは1日2話、18時と22時頃更新の予定です。
面白い、続きが読みたいと思って頂けたらブックマーク、評価等頂けると嬉しいです。




