仕事開始
「家にある掃除道具はこれだけですか?」
「ああ、それで全部だよ。灰のある場所は分かってるね」
「桶に取っておいてあるやつですよね。使うときに持ってきます」
「灰を使う時はオーク皮の手袋をはめなよ。手が酷く荒れるから」
「ええ分かってます。ヒルダさんにしっかり教えて頂きましたから」
ストーブや暖炉で出る灰や灰汁は油汚れを磨くのに使うのだと聞かされた時は、さやも驚いたものだった。
分かってはいたが、現代日本の掃除方法とは違う事が多い。ヒルダが知っている限りの掃除方法は教えて貰ったが、この世界で掃除を仕事にするならもっと多くの掃除方法を把握せねばならないだろう。
とりあえずさやは今までやり方を教わった掃除方法で、ヒルダの家を自分一人で掃除するつもりだった。今までに覚えた旧式な掃除方法をちゃんと出来るかも、ヒルダにチェックしてもらうことになっている。
服装も気合を入れた。いつもは簡素なシャツとスカートなのを、ヒルダが持っていた作業用のズボンに着替えている。小柄なヨルンの身体には少し大きかったがウエストは紐をベルト代わりに巻いて締め、裾も折って軽く縫い留めることで何とか合わせた。
「すみません、色々気遣って頂いて、却ってご迷惑になってしまうかもしれませんが、よろしくお願いします」
丁寧な言葉遣いをするさやにヒルダは顔をしかめた。
「何だってそんなにかしこまった口の利き方をするんだい? 何だかこそばゆいよ。近頃じゃあ、あたしとはタメ口だったのに」
「お客様に対する礼儀も、仕事のうちですから。今日はそこも含めて実習をしたいんで、すみませんがこの言葉遣いにさせて下さい」
「——そういう事なら仕方ないか。まあ、こっちとしてはタダで家の大掃除をやって貰えるんだから助かるよ。とにかく分からなけりゃどんな事でも聞いておくれ。ま、あんたなら大丈夫だろうがね。掃除道具の使い方すら忘れちまったというのに、今じゃあたしより手際よく掃除をこなしてるもんね。とにかく筋が良いのは間違いないんだ。ちゃんとやり方さえ覚えれば、きっと金が取れる腕前になれるよ」
「はい! 一生懸命やりますんで、よろしくお願いします!」
道具を全て揃えると、さやは改めて頭の中で家の掃除をする個所と所要時間を確認した。居間、台所、寝室、外にあるトイレが今回掃除する場所だ。全部で四時間以内に済ませることにしており、どの箇所にどれだけ時間を使うかも決めている。
さやはちらりと壁や床にこびりついている黒い汚れを見た。
さやは清掃員として汚れには慣れている。だがそのさやの目からみても、この家のあちこちにある黒い汚れは酷かった。
特に酷いのは居間の壁の一面を覆うようにこびり付いた、大きく真っ黒い汚れだろう。そうした汚れがヒルダの心の荒廃を表わしているのだと思うと、さやの胸は痛んだ。
それでもさやは汚れを全く気に留めていない振りをして、きれいにするにはどれだけ掛かるか、どんな方法を用いて掃除を進めるかを見極める事だけに集中した。
主な掃除道具は箒にハタキ、雑巾にボロ布に磨き砂。手早く掃除するにはモップがあれば良かったのだが、無いので箒に濡らしたボロ布を巻きつけて代用することにした。
そして改めてヒルダに掃除する個所と掃除方法を確認し、どれぐらいきれいにして欲しいか、重点的に掃除して欲しい所や逆に触ってもらいたくない場所などを細かく聞く。
そんなさやにヒルダは感心したように言った。
「あんた、やっぱり掃除の仕事をしてたのかもしれないねえ。質問の仕方が堂に入ってるよ」
「本当ですか? だったら嬉しいです。こんな事を聞いた方が良いかなって思って伺ってるんですけど」
感心するヒルダにさやはしれっと答える。こういう誤魔化しも大分慣れてきた。
ヒルダの希望を聞いた上で時間配分を調整すると、サヤは居間の掛け時計で現在時刻を確認してから掃除に取り掛かった。
まず居間から始める。最初に汚れたら困る物を他の部屋に移動し、天井や棚のホコリ取りをやる。天井の埃は箒で払い、それが終わればハタキで棚を掃除する。そして落ちたゴミも含めて床を掃き清めたら拭き掃除だ。
ボロ布をからめた箒で天井を手早く掃除していくさやを、ヒルダがまた褒めた。
「へえ、やっぱり掃除屋やりたいなんて言うだけのことはあるよ。早いし、やり方がちゃんとしてるじゃないか」
「ありがとうございます!」
ヒルダの賞賛にさやは素直に喜ぶ。自分の清掃スキルがこの旧式世界で通用するか不安だったから、なお更だ。
「これなら大丈夫そうだね。きっと客が付くよ」
「そう言って貰えると自信がつきます。でもまだトイレとか水回りの掃除がちゃんと出来るか不安なので、チェックは厳しくお願いしますね」
「ああ、あんたの将来がかかっているんだ。しっかり見させて貰うよ—— あ! 忘れてた!」
不意にヒルダはしまったという顔をした。
「ちょっと行かなけりゃならない用があるんだった。サヤ、小一時間ばかり出掛けても大丈夫かい?」
「構いませんよ。後で仕上がりと、あたしがやった掃除方法で問題無いかだけチェックして貰えればいいんで」
「ああ、それはもちろん良いんだけど」
ヒルダはまだ何か言いあぐねている様子だったので、さやは笑って言った。
「要望があるなら遠慮なく言って下さい。お金を貰うなら、お客様の希望に出来るだけ応えるのも大事ですから」
「——そうかい。実はもしかしたらお客を連れて来るかもしれなくてね。悪いがそれまでに居間だけは元に戻して欲しいんだけど、大丈夫かい?」
(あと一時間で居間の掃除を終わらせるのか)
居間には一時間三十分の時間を割り当てていた。現在十分経っているから、予定より二十分早く掃除を終わらせねばならなくなる。さやは頭の中で計算した。
(掃き掃除までは済んでいる。道具が旧式だとしても床の汚れを簡単に落とす程度にすれば、大丈夫だな。一つだけ問題があるけど)
「分かりました。ただそれだと多分この汚れは手つかずになると思いますけど、いいですか? 今回の掃除で出来るだけキレイにしてみようと思ってたんですが」
さやが壁にベッタリ付着した黒い汚れを指差すと、ヒルダの顔が一瞬泣きそうに歪んだ。しかしすぐに笑顔になる。
いつもの、諦めたような笑顔だ。
「結構頑固なんだよ、そいつは。落とせたらそれに越したことは無いんだけどね。いいよ、無理にやらなくて」
さやは拳を握りしめてヒルダを問い詰めたいのを堪えた。
ヒルダはさやに何も知らないままでいいと望んでいるのだ。そして今のさやは、それを否定して踏み込んでいいのだと思えるほどの情報が無い。
代わりに顧客向けの口調を外した笑顔で答えた。
「分かったよヒルダ。時間があったら挑戦してみるね」
ヒルダが出て行くと同時にさやは自分に言い聞かせた。
(今のあたしがヒルダの為に出来る事は、この家をキレイにして少しでもヒルダを心地良くすることだ。頑張るぞ)
さやは掛け時計で現在時刻を確かめた。ここから一時間。ヒルダが早めに帰って来る可能性を考えて五十分以内に居間を仕上げよう。
(よし、スタート!)




