他者へ害を及ぼさぬように
「——本当に綺麗」
部屋に金粉が舞い散る度に、ヴァランティーヌは感嘆の言葉やため息を漏らした。
「祓うのがお嫌だとお思いでしたら仰って下さい。長い間闇の傍にいた者は、時として闇が無くなるのを心細く感じる場合があるのです。そういう時はある程度闇を残しておいた方が良いので」
さやが闇を祓わない理由をなるべく当たり障りのないものにしてヴァランティーヌの反応を伺うと、ヴァランティーヌはきっぱり答えた。
「別に心細いとは思わないわ。祓えるなら祓ってちょうだい。でも、そうね、全ての闇が祓われてこの美しい光景を見る事が出来なくなるのは、少し寂しいかもしれないわ」
くったくのない笑顔でそう冗談を言うヴァランティーヌを見て、さやは応接室の闇は全て祓って構わないと判断した。
最近のヴァランティーヌはほとんどの時を寝室と勉強部屋で過ごしているのだ。応接室の闇に馴染んではいないのかもしれない。
一時間後にすっかり闇が祓われた応接室で、さやは再び〝休息〟を取ることにした。
見違えるようにキレイになったソファに二人が腰かけると、今度は年かさの方の侍女がいそいそとお茶を運んできた。どうやらお茶はちゃんとあったようだ。
侍女が退出すると、ヴァランティーヌは悲しそうに言った。
「——あの二人は本当に忠実に仕えてくれている者達なのですよ。この様な身の上になった私に最後まで付いてきてくれたのです ——可哀そうに、闇に呑まれる恐怖ですっかり怯え切ってしまっているのですよ」
それを聞いてさやもやるせない思いになった。闇がどれだけ人の心を蝕むか、わずかな期間だがさやは嫌というほど見てきたから。
不意にヴァランティーヌがさやに視線を戻した。そして真剣な口調でこう尋ねてきたのだ。
「サヤ殿、闇に吞まれると人は理性を失い、ただ他者へ害意しか抱かぬ悪霊と成り果てると言われています。本当にそうなるしか無いの? 闇に吞まれても、核になっても他者に害を及ぼさぬよう己を律することは不可能なの?」
「…………」
さやは驚いた。今まで闇に吞まれる事を恐れはしても、核になった後も己を律したいなどと望む者は初めてだったから。
だがヴァランティーヌの目は真剣だった。本気で、闇に吞まれた後の自分が他者に害を及ぼさぬ道を求めているようだった。
ヴァランティーヌは立ち上がって寝室に繋がるドアの方へ歩いて行くと、ドアを開けて中へ入った。後に続いて中に入ったさやは息を呑んだ。
想像以上に酷い闇だったのだ。
壁や床は黒くない所がほとんど無いぐらい闇が広がっていた。そして寝台の周りはタールの様な濃い闇でベッタリ覆い尽くされ、今にも寝台を吞み込まんばかりだ。
闇祓いの経験が浅いさやでも分かった。核がいてもおかしくない闇だと。
「……毎夜ここに身を横たえる度に思うの。明日私は果たして私自身でいられるのだろうかと」
寝台を見つめながらヴァランティーヌは言った。
「私は王太子殿下との婚約が決まった際、父上にこう言い含められました。〝これからは常に将来の王妃としての覚悟を持ち、国と民を己より大切に思うように。いざとなれば民の為に己をためらわず切り捨てろ〟と。その言葉、一日たりとも忘れたことはありません」
ヴァランティーヌの目に悲しみがよぎった。
「でも今の私は国にとっても民にとっても、ただの害悪でしかない。なのに聖女様のお目汚しにならぬよう、王室を去り修道院へ入る事すら叶わぬ身の上に成り果ててしまった ——私が〝私心〟に負けてしまったが故に」
ヴァランティーヌはさやの方を向くと再び言った。
「サヤ殿、私はこの上更に害を及ぼす存在になるしか道は無いのですか?」
ヴァランティーヌの言葉は己を責め、悔いるものだった。しかしさやはその言葉に闇を感じなかった。
ヴァランティーヌの言葉に、己をこんな状況に追い込んだ者達への憎しみは欠片も無い。
それどころか彼らを案じ思いやっている。
さやはシリルの注意や依頼人の情報漏洩には抵触しないよう気を付けながらも、自分の知っている限りの事を答えることにした。
気休めかもしれないが、ヴァランティーヌを安心させる話だと思ったから。
「私は以前、依頼を受けて行ったある闇祓いで一つの核に出会いました。その核は核であるにも関わらず、人の理性がかなり残っておりました」
ヴァランティーヌが目を大きく見開いた。
「その核は自分が発した闇が他に広がらぬよう、最初に巻き込んで核にしてしまった者達が暴走せぬよう、極力抑え込んでおりました。ですからその闇は核を複数内包していたにも関わらず、驚く程害は少なかったのです。それ故ヒーラーとしてまだ経験の浅い私でも、かなり容易く核を解放することが出来ました。私はまだ闇祓いはほんのわずかしか行っておりません。それでもそうした核に出会えたのですから、理性を保つ核は意外に多いのかもしれませんね」
最後にさやがそう付け加えると、ヴァランティーヌの表情がわずかだが和らいだ。
「——そうなの。核になっても己を抑え込める人もいるのね……」
そう呟いて再びさやを見つめたヴァランティーヌの目には、強い決意と覚悟が宿っていた。
「あなたのお話で、私も少しだけですが希望を抱くことが出来ました。私は例え今後この闇に吞まれることがあろうと、決して国と民には害を及ぼさぬと誓いながら日々を過ごしていこうと思います」
そしてヴァランティーヌはさやにこう訴えた。
「サヤ殿、どうか寝室以外の闇を、あなたの能力で出来得る限り祓って。他の闇が無くなり私がここに籠れば、私の侍女達だけは居住区から出してあげられるでしょう」
さやに侍女の安寧を願うヴァランティーヌは、どこまでも誠実で清々しかった。
例えばかつてのクルーガー伯爵がそうだったように、闇に侵された者の心にどうしても蓄積してしまう汚泥は微塵も感じられない。
あくまで自分を吞み込もうとする闇に最後まで毅然と立ち向かおうとするその姿は清冽ですらある。
さやにはヴァランティーヌが今も深い鬱屈を抱えて闇を生み出し続けているとは、どうしても思えなかった。
もちろん、人は表面の態度からは想像もつかぬ闇を抱えていることはあり得るのだが。
さやはシリルが最後に言った事を思い返した。
〝これは稀な例ですが、かつては闇とその闇を生み出した者の繋がりが見えるヒーラー殿が何人かおられたそうです〟
〝繋がり?〟
〝そのヒーラーが核を解放する際と同じ精神状態で、しかも濃い闇を生み出す程その者の鬱屈が深い場合に限るようですが、その者が生み出し続ける闇が流れのようになって元の闇に加わっていくのが見えるのだとか。ヒーラー殿の調子が良ければ、闇自体もその流れと同じ種類の空気を纏っていたのが見えたそうです。報告による侯爵令嬢の闇はかなり深い。さやさんならコンディションや意欲の強さによってはその流れが見えるかもしれません〟
明日も20時頃更新の予定です。
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