向かいの料理屋
とにかくなるべく早く確認しよう、闇が無ければそれで済む。
そう思い、さやは手早く部屋を見回した。そして—— 闇を見つけてしまった。
(あー……)
見なかったことに出来たらどんなに良いかと思うが、そんな事出来る訳が無い。
(恨むよ宿の主……)
さやはぼやきながらも棚を動かすと、隠れていた闇をモップで祓い始めた。
しかしすぐにパトリシアがイライラした口調で怒鳴った。
「遅い! なにグズグズしてるのよ! もういいわ、あたしがやるから退いて!」
そしてさやを押しのけると闇に向かって手を一振りした。途端に壁から闇が離れてそのままどこかに飛んで行ってしまう。その間、五秒も無かっただろう。
さやは言葉を失った。自分ならハイになった時はともかく、平静な状態なら十分はかかるだろう闇が、あっという間に祓われたのだ。いや、ハイになっていてもこの速さでは絶対に無理だ。
それをこの女は、酒に酔った状態でやってのけたのだ。
(これがAランクヒーラー……)
呆然と綺麗になった壁を見つめているさやを、パトリシアが更に怒鳴った。
「もういいでしょ! 早く行って!」
慌ててさやは外に出た。その途端、ドアが乱暴な音を立てて閉められる。
手荒な態度を取られた事で、驚きでかき消された怒りがまた沸き起こってきた。だからといってどうしようもないのも分かってる。
おまけにまだ仕事は残っているのだ。
ムシャクシャする心を抑えながら、さやは見回りを再開した。しかし宿の主人は粗忽者なのか、結構見逃した闇が見つかる。
残りの場所を確かめ、闇祓いを終えるころには二時近くになっていた。クタクタだしムシャクシャするし、しかもお腹はペコペコだ。
行きたかった屋台は結構人気だったみたいだから、この時間では品切れになっているだろう。しかも今日は屋台で食べるからと思って、いつもヒルダに用意して貰っている弁当も無い。
最悪の気分でさやは宿の主人に確認と闇祓いを終えた事を告げた。
聖女と主人のドラ息子の一件を依頼人である主人に話すべきかは悩んだが、どう転んでも揉め事になるだろうと思い伏せることにした。
そう、自分は何も見なかったのだから。
報告を終えると主人は申し訳なさそうな顔でこう言った。
「今日は本当に失礼いたしました。あの、手近なところで申し訳ありませんが、よろしければ向かいの料理屋に食事を用意しましたので召し上がっていって下さい」
「え! 本当ですか⁉」
「ええ。お召し上がりになりたいものがありましたら、何でも注文して下さって構いません。お酒でも何でも、勘定は私が全て持ちますので」
アリアでは飲食店はどこも午後二時には一旦店を閉める。
だからその店だって本来なら二時には店を閉める筈だ。恐らく宿の主人が頼み込んで用意して貰ったのだろう。
てっきり昼飯は食いはぐれると諦めていたさやは生気が戻った。しかも主人の大盤振る舞い。現状では屋台の飯すら思い切った贅沢だったさやは心が弾む。
現金なもので、主人のミスぐらい大目に見ようという気になった。さやは平身低頭の主人に見送られながら、心弾ませて向かいの店に行った。
向かいの食堂はこの国では珍しい木造家屋で、入り口の扉も引き戸だった。さやが戸を開けると独特の香りが鼻をくすぐる。
店内のあちこちに蔓草で編んだ衝立が置かれていた。壁には花や鳥の模様が染め抜かれた大きな布が掛かっている。
さやが店に入るとすぐに三十歳ぐらいの女性がニコニコ笑いながら近寄って来た。
目鼻立ちのはっきりした大柄な女性だ。
彼女が料理するのだろう。ヒルダがそうしているように髪を邪魔にならないよう、頭の天辺でお団子にしてまとめている。
「いらっしゃいませ、ヒーラー様。この店の主です。燕亭のジャンさんから話は伺っております。どうぞこちらへお座りください」
そう言うと、女主人はさやを食器やカトラリーが用意されているテーブル席へ案内した。
見ると結構広い店内なのに、客は一人もいない。やはり今は閉店時間で、さやだけの為に店を開いているようだ。
さやが座ると店主はすぐに料理を幾つか運んで来た。
「この時間じゃあお腹が空いてらっしゃるだろうと思いまして、とりあえず三品ほどこしらえておきました。お好みに合いましたらお召し上がりください。何かご注文のものがありましたら、何でもお作りしますよ」
店主が並べた料理の一つを見てさやは驚いた。何と米を肉や野菜と共に炒めたものだ。
「やった! チャーハンだ!」
この料理にはさやもが然テンションが上がった。
ヒルダの料理はもちろん美味しいが、やはりさやも前世は日本人、米は特別なのだ。
一口食べたさやは一瞬涙ぐんでしまった。それまで波乱の日々に紛れて心の片隅に追いやられていた前世の、故郷の記憶が頭を駆け巡ったからだ。
少し甘くピリリとした香辛料が利いた味は、さやの知るチャーハンとは違う。それでも転生して初めて噛み締める米は、充分あの頃の生活を思い出させてくれた。
夢中で米料理を食べるさやに、酒のコップを持って来た店主は微笑んだ。
「お口に合われたようで、何よりです」
「もう最高ですよ! ああ、今日は嫌な事だらけだったけど、こんな美味しい店があると知ることが出来ただけでも今回の依頼を引き受けた甲斐があります。この店の為にアリアにまた来たいぐらいですよ!」
「まあ、それは有難うございます。王太子殿下が聖女様を射止められたように、あたしの料理をヒーラー様がアリアにいらっしゃる理由になさって下さるなら、こんな嬉しい事はございませんね」
嬉しそうな店主の言葉に、さやの上がっていたテンションが少し下がった。
頭から追い出していた先刻の一件を思い出したからだ。
例え自分に関係ないとはいえ、他人の無節操な情事なんぞを目の当たりにするのはやはり良い気分ではない。
しかもさやには四日後に例の〝付帯条件付きの現場〟が待っているのだ。そこににあれを見た上で行かなければならないのかと思うと、せっかくのチャーハンも楽しむ気が失せてくる。
さやの心など知らない店主はしみじみとした口調で言った。
「本当に聖女様には感謝してもし足りませんよ。聖女様がアリアの闇を祓って下さったからアリアに異国の物がたくさん入って来て、あたしもこうして東国料理の店を出す事が出来たんです。その店が今度はまた別のヒーラー様のお気に召して頂ける。聖女様のお恵みが、更に福を連れて来てくれるんですねえ。あたしも前はこのアリアがいつ〝レアン〟みたいになるかと不安でたまらなかったんですけど、聖女様のお陰で明るい心持になれましたよ」
「…………」
レアンの名を聞いたさやはハッとした。
レアンとはこの世界でも闇の侵食が特にひどいとされている地域なのだと、さやはシリルから教わったことがあるからだ。
今は異国料理がアリアの流行りなのだと笑う店主の話を聞きながら、店主の言い分はもっともだとさやは思った。
あの聖女様がどんな御乱行をしようと、彼女が闇を祓うことで王都アリアが多大な恩恵を被っている事は確かなのだから。それをこの国の者ではないさやがとやかく思う事では無いのだろう。
「ヒーラー様、いかがされましたか?」
ゲンコツで頭をコツンと叩くさやに、店主がけげんな顔をした。
「いや、ちょっとした癖で。たまにこうしたくなるんですよ」
さやは笑ってごまかすと、またゲンコツで頭を叩いた。自分が考えたって仕方の無い物思いを追い出そうとしたのだ。
自分は登録申請に訪れたヒーラーとして、任された依頼を遂行することだけ考えていれば良いのだ。だって聖女や王太子と自分は、何の関係も無いのだから。
「すみません、このお酒もう一杯貰えますか?」
さやは店主にそう言うと、改めて美味しい料理を食べる事に心を向けた。
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