九
そして、その日も、住吉は愛宕屋を訪れていた。
部屋に通され、酒が出されて待っている時まではいつも通りだった。
だが、部屋に入ってきた若菜の顔を見た途端に、ただならぬ雰囲気を感じた。その顔は青白く、思い詰めたような、極度に張り詰めた緊張感を放っている。
静かに座り、住吉に顔を向けながらも、無言のままゆっくりと手酌で酒を飲む若菜に、住吉は困惑した。
何かが起きた事は確かだった。
住吉にとっては突然ではあるものの、何処か、心の片隅で予想したことでもあった。いつかは、何かが起こるだろうという思いは持っていたのだ。住吉は覚悟を決め、固唾を呑んで若菜の言葉を待った。
だが、その発せられた言葉は、予想を遥かに超える衝撃だった。
「旦那だけには言うわね。あたい、今夜、これから、人を殺すわ」
若菜がそう言った途端に、震える手で顔を覆い、涙声になった。
「恨んでも恨みきれないほどの憎い男なのよ。お父つぁんの仇を討ってやる。もう、どうなっても良いわ・・」
肩を震わせて涙ぐむお美津を、住吉は無言で見詰めるしか無かった。
遠くで女達の笑い声がした。
半年ほど前だった。富山の薬売りの男が愛宕屋を訪れていた。配置箱の中身を確認し、女将のお登代から代金を貰い、出されたお茶を口にした。
「そういえば、若菜さんはまだ戻らないですか」
「ええ、もう二年半になるかしら」
「実家に戻っているという事はないですか」
「それも考えたのだけど、確かめようが無くてね」
「確か、下総でしたかねぇ」
「そうよ。佐倉村」
「実は、あっしは、これから下総の方を回るんですよ。実家に戻っているとなれば、村でも噂にはなるでしょうから、聞いてみますか」
「ありがとう、助かるわ」
そして、その男が江戸に戻り、数日前に愛宕屋を訪れた。
若菜が戻ってきた事を知ると「それは良かった」と言ったが、その後に意外な事を若菜に語った。
「あんたのお父つぁん、五年ほど前に死んだそうだよ」
若菜に衝撃はあった。
「そうですか・・」
当然ながら、悲しみも湧いてきた。だが、何処かに冷めた気持ちがあった。自分を騙して遊郭に売った父親で、それにより受けた傷は消えていない。
「それが、少し可哀想な亡くなり方だったそうだ」
父親の総吉は、お美津を奉公に出しても、やはり娘の様子が気になっていた。落ち着いたら、便りも来るだろうと思いながら、それを心待ちにしていた。だが、半年が過ぎ、一年が経ち、更に年月が過ぎていったが、何の知らせも届かなかった。
総吉も家族も、お美津の奉公先は日本橋の老舗の菓子屋「虎屋」だと思っていた。仲介屋の市松の言葉を信じていた。
心配になった総吉は、江戸に行き、虎屋を訪ねる。
「何かの間違いではないですかねぇ、そのような娘を、うちは雇っていませんよ」
虎屋の主人の言葉に総吉は驚き、呆然となった。
混乱の中、お美津を世話した市松を探すこととしたが、地方の農家の者が、慣れない大都会の江戸で人を探すのは、さすがに難儀な事だった。脚を棒のようにして歩き周り、思いつく限りの先々に問い合わせした。
どうにか、口入れ屋の仲間まで辿り着き、その案内で市松に会ったのは、故郷を出てから三月も経っていた。
「あの菓子屋はお美津を雇っていない。お美津はどうなったのだ」
詰め寄る総吉を、市松は胡散臭そうに睨んだ。
「ああ、あの娘ねぇ。途中で逃げ出して、行方知れずさぁ。よくある話よ」
「あんた、私らに何も言ってくれなかったじゃないか」
「こっちも忙しいのさ。いちいち、あんたに知らせる訳にいかないだろう」
「逃げたとはいえ、家には帰っていない。何処に行ったのだ」
「知らねえよぅ」
「あの菓子屋は、お美津を雇った覚えがないと言っていた。あんたは、本当に、あの店に世話をしたのか」
「おうおう、俺を嘘つき呼ばわりするつもりか。あんたも、ちゃんと証文を見たろう」
「俺は・・、字が読めない。あんたの言葉を信じたのだ・・」
「ったく、話にならねぇなぁ。そっちの無学を、こちとらのせいにするのか、え」
何を言っても高飛車に威嚇する市松を目の当たりにして、総吉を無力感が襲った。問い詰めても、何の答えも返ってこない。これでは、お美津の居所を知ることも難しい。
失意の中、総吉は故郷に戻った。
家に帰り、押し入れから証文を取り出し、庄屋の所に行って、内容を確認してもらった。
「総吉さん、あんた、これはお美津を遊郭に売る証文だよ」
庄屋の言葉に、総吉は頭が真っ白になった。
「しかし・・、あの男は、確かに菓子屋の奉公だと言ったのだ、本当だ」
庄屋が顔をしかめて腕を組んだ。
「そう言ったのかも知れないが・・」
「俺は騙されたのだ。お役人様に訴えて下さい。庄屋様、お願いします」
庄屋は俯いてしばらく考えていた。やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「だがなぁ、総吉さん。訴えたところで、お役人がどう受け取るかだ。おそらく、言った、言わない、の話になるだろう。そうしたら、この証文が決め手だ。これだけはどうしようもない。内容を読んでいませんでしたでは、さすがに通らないだろう・・」
総吉は言葉が無かった。全ての望みが絶たれた喪失感が、全身を覆う。
江戸でのほとんど飲まず食わずの放浪で、体はすっかり衰弱し切っていた。気力で何とか持ち堪えていたが、既に限界だった。その頼みの精神力も、潰えつつあった。
総吉は寝込むようになり、やがて、寝たきりになる。
「お美津・・すまなかった、許してくれ・・」
それからしばらくして、総吉は亡くなった。
薬売りの男が帰ると、若菜は部屋に戻り、泣いた。
こんなにも自分を思っていた父親を、疑ったことが恥ずかしかった。親を信じ切ることが出来なかった自分が、情けなかった。そして、その父の最後が哀れだった。
沸々と、市松への殺意が湧いてきた。役人に訴えても駄目ならば、自分でやるしかない。到底、このままにしておく訳にはいかない。覚悟を決めた。
何処かで猫が鳴いている。
しばらくの沈黙の後、若菜が顔を上げた。
「そういう訳なの。今夜、その市松が年増屋に来ている。いつも、明け方に酔っ払って帰るそうだから、大門の所で待ち伏せするわ。旦那には迷惑かけない、大丈夫よ」
若菜が「これでやる」というように、懐から包丁を取り出した。
「きっと、捕まって牢屋に入れられるわ。あたいの人生もこれで終わりね」
若菜が寂しそうに微笑んだ。
「最後のお客が、旦那で良かった・・」
住吉は若菜を見詰めた。何故か、自分でも不思議なほどに心は落ち着いていた。重しが取れたような、安らぎさえも感じるほどだ。
お美津を取り巻く状況がわかり、お美津の気持ちも、その覚悟も理解出来た。そのことで、この女のために、自分が何をすべきかが見えていた。
清々しいほどに、迷いはなかった。
「若菜さん、実は、私はあなたを知っています」
若菜がハッとして住吉を見た。
「すみません。騙すつもりは無かったのですが、言い出せなくて」
若菜が顔を近づけてジッと住吉を見据えた。
「やはり・・、あたいを、知っているのね・・」
住吉がゆっくりと頷く。
「あなたは、諏訪町にある小間物屋の雨見屋で、三年間過ごしていました。そこに、私は仕事で良く行っていました。何度も、親しく話をしました。いつも、会うのが楽しみでした。あなたは・・私の心の支えでした」
若菜が頭に手を当てて体を震わせた。
「ああ・・」
突然、重い扉がゆっくりと開き、そこから閉ざされていた光が、少しずつ差し込んでくるように、記憶が蘇って来たのだ。
確かに、この顔に特別な思いがあった。常に自分を労り、慰めて、守ってくれた男だ。いつも会いたいと思っていた男だ。
一気に眩い光に包まれたような衝撃が若菜を襲った。
「・・住吉さん・・」
若菜が住吉にしがみ付いた。それを、住吉がしっかりと受け止める。
「思い出したのか・・お美津・・さん」
「あぉあぅ・・」
言葉にならない嗚咽を発して、お美津が住吉の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
「もう、大丈夫だ、安心しな。全て私に任せてくれ、心配ない」
住吉がお美津を抱きしめた。
心から思い、憧れた女の温もりを、今、自分が感じている。これ以上の幸福など想像さえ出来ないだろう。それほどの至福の時だった。
静かな時間が流れた。窓の外は既に静寂に包まれている。
住吉は、お美津の懐から包丁を取り出した。
「その市松は、私が何とかする。いくら酔っ払っていても、女が男を刺すのは難しい。私がやる」
住吉に抱かれながら、お美津が心配そうに顔を向けた。
「でも、そうしたら、住吉さんが人殺しになるわ」
「そうだな。だが、あんたとお父つぁんの仇を討つのなら、それも本望だ。まあ、おそらく島流しだろう。覚悟はある」
「あたいは・・どうすれば良いの」
「待っていてくれ。行いが良ければ。四、五年で島から戻った話も聞く。そうしたら、必ず金を貯めて、あんたを身請けする。それまで・・」
「住吉さん・・」
何処かで猫が鳴いている。
住吉は大門で市松を待ち構えた。
今更ながら、これほど大それた事をしようとする自分が、不思議だった。人を殺そうとしているのだ。昨日までは全く想像すらしなかった。だが、この状況に至っては、こうする事が最良だ、という思いを強くしている。全てお美津の為なのだ、
体が震えている。緊張も恐れもある。上手くいかなかった場合の不安も湧いている。それらを、心を寄せる女への想いで、何とか払拭しようと、自らを鼓舞した。
闇が周囲を覆い、静けさが中を支配している。夜明けにはまだ少し早い。
ゆっくりと、分厚い霧が住吉を包んできた。




