十
お美津は、住吉を見送った後、窓を開け、通りの様子を伺っていた。
自分の揉め事に住吉を巻き込んでしまった、という後悔の思いはあるが、それよりも、住吉を頼りにする気持ちが大きかった。きっと、自分とお父つぁんの仇を討ってくれる、という期待だ。
そして、「待っていてくれ」という言葉に、女としての喜びを感じていた。いつまでも、何があっても、必ず待ち続けようと思った。
やがて、窓の外の闇が、うっすらと白みかけて来た。濃い霧が窓を伝って部屋に入り込んで来る。
一人、また一人と、通りを動く人影が見て取れる。朝帰りの客が出始めたようだ。
そろそろ市松も帰る頃だ。お美津の胸が締め付けられる。上手くいくのか。万が一失敗したらどうなるのだろう。
祈るような気持ちで、通りを見渡した。濃い霧は残っているが、すっかり、明け方の景色が広がっていた。街並みは、何も起こらなかったような、白けた装いを醸し出している。
お美津は、しばらく、ぼんやりとその風景を眺めていた。
気づくと、急に人通りが慌ただしくなっている。ざわざわとした騒ぎ声がした。大門の方角だ。
お美津は窓から顔を出して耳を澄ました。
「人殺しだ」
「誰がやられたのだ」
「市松だ」
スーッと体の力が抜けて座り込んだ。じわりと安堵の思いが胸に広がった。
やがて、涙がとめどなく溢れ出てきた。
自分の為に人殺しまでしてくれた男の思いが、感情を揺さぶった。それほどまでに思われているのだという実感が、胸を熱くしていた。
今死んでも、何も思い残す事が無いほどの安らぎを感じている。
ふと、その男が、自分を迎えに来ることなどは無いのでは、という思いが過った。
逃げ続けるかも知れない。捕まっても、島流しではなく死罪になるかも知れない。あるいは、何年か後に娑婆に出たとしても、心変わりもあり得るだろう。
それでも構わない。
いや、そんな事はどうでも良くなっていた。この瞬間が全てだった。この確かな事実だけは、何があっても永遠に残るのだ。
この男の思いを胸に留めながら、此処で、このまま一生を終えても、何の不満もない。死ぬ時は、きっと幸せな一生だったと思うだろう。
「住吉さん・・ありがとう・・」
窓の外はすっかりと陽が上り、騒ぎも大きくなっている。
お美津は眠りに落ちた。
「若菜ちゃん、役人が来ているよ。話を聞きたいって」
女将のお登代が緊張した顔で部屋に入って来た。
あの日から二日ほどが経っていた。市松を刺したのは愛宕屋の客だ、との噂は広まっていた。いずれ、自分も話を聞かれるだろうという覚悟はあった。
「わかったわ。あたい、正直に話すわ」
「そうだね、隠し立てすると、後々面倒だから、その方が良いよ」
「怖そうな役人?」
「それが、なんか頼りない感じ。おまけに・・」
お登代が表情を崩した。
「お付きの岡引きは、面白い人」
若菜の気持ちが困惑した。自分の役人に対する印象と相容れない。
恐る恐る部屋に入ると、二人の男が、茶菓子をほおばりながら、お茶を飲んでいた。
周り方同心間部瀬勘太郎と「やましん」こと岡引の慎吉である。
小柄で濃い眉毛にギョロっとした目をした間部瀬が、若菜に気付いて、驚いたように背筋を伸ばしたが、そのため手が震えて、茶碗から溢れたお茶が手にかかった。
「あっちちち・・」
間部瀬は思わず茶碗を放り出して指をくわえたが、その茶碗がコロコロと若菜の足元に転がり、慌てて拾おうとして、這いつくばって手を伸ばした。小柄な体ゆえ、茶碗に手が届かずに、焦って手足をバタバタとさせ、醜態を晒している。
慎吉は、右手に茶碗を持ち左手に茶菓子を持って、口を半開きにして、目を輝かせながら若菜を見詰めている。子供がお菓子の山を見て興奮しているような目付きだ。
若菜は笑いそうになるのを堪えた。笑うような場面では無い、という思いから我慢した。今は、役人から人殺しに関わる話を聞かれる、という状況なのだ。
だが、堪らずに吹き出してしまった。
可笑しな落語話を直に見ているようで、心の底から笑いが込み上げてきた。涙まで出てきた。
「ごめんなさい。笑ったりして・・」
若菜が涙を拭きながら座り、頭を下げた。
間部瀬が真っ赤な顔をして、拾った茶碗をお盆に乗せた。
「いいえ、こ、こちらこそ、みっともない姿を見せてしまって」
間部瀬の手が震えて、茶碗とお盆が触れ、カタカタと音がする。それがまた、若菜の笑いのツボを刺激する。口に手を当てて、必死に耐える。
間部瀬の肩越しに慎吉が顔をだす。
「いえね、この旦那は新米同心でして、まだ要領を得ないんですよ」
間部瀬が振り返って慎吉を睨む。
「ちょ、ちょっと待て、やましん。私が新米同心というのは確かだが、要領を得ないとはどういうことだ」
「だって、この前来た時に、此処の世話役から、店の客が怪しいって聞いていたのに、何も調べずに帰ったじゃないですか」
慎吉が、どうだ、とばかりに顎を突き出すと、間部瀬がムキになって首を振る。
「だって、世話役は、犯人と決めつけるのはまだ早いと言うし・・。第一、その客を犯人と決めてかからなかった事で、奉行からお褒めの言葉をいただいたのだぞ」
「そりゃあ、そうですが、犯人と決めつけなくても、その男の様子がどうだったかくらい聞けるでしょうよ。一番怪しい人物なんだから」
「そ、そう言うお前は何だ、あの時、お姉さん達とイチャイチャして。私は、恥ずかしくて居た堪れなかったのだ。だから早く帰ったのだ」
「旦那ぁ、自分の至らなさを、人のせいにしないで下さいよ。だいたい、旦那はねぇ・・」
慌てて若菜が止めに入る。
「お役人様、どうか、落ち着いてください。何でもお話ししますので・・」
今にも掴みかからんばかりの勢いだった二人が、ハッとして若菜に顔を向ける。赤い顔で恥ずかしがる間部瀬に、愛想笑いでおどける慎吉。
何処かで猫が鳴いている。
その頃、奉行所の入り口に、住吉が立っていた。
実家に戻り、どうにか気持ちの整理を付けていた。冷静になって考えてみれば、若菜への感情を抑える事が出来ずに、冷静さを欠いた行動だったという思いがある。どういう理由があるにせよ、人殺しは、あくまでも御正道には外れた行為なのだ。
だが、奉行所に訴えたところで、お美津や父親の無念が晴らされたかは疑問だ。
市松が罪を認めることなどあり得ない。嘘を並べて、自分を正当化することが目に見えている。奉行所をも騙すことなど、何とも思っていない男なのだ。
そう考えると、自分の行為に納得できる思いもある。少なくとも、後悔のような後ろめたさは無かった。
あとは、奉行所の判断に任せて、下される沙汰を受け入れるだけだ。
住吉が奉行所の門をくぐった。




