八
お美津は、下総は佐倉村の農家に生まれた。
五人姉弟の長女で、妹や弟の面倒を良く見て両親を助ける快活な娘だった。だが、家は貧しく、凶作の時などには何度もひもじい思いを経験した。近辺の農家からは、江戸に年季奉公に出る娘たちもいて、いずれは自分も、という思いも持っていた。
それが十五の時に現実になる。
奉公先は江戸の老舗の菓子屋と聞いた。年季期間は十年だ。その間辛抱すれば、また家に帰れて家族皆で暮らせる、と前向きに捉えた。それに、お菓子屋で働くという事が、若い娘の興味を誘った。江戸という華やかな街へ行くことも気持ちを明るくさせた。
その淡い想いが無情にも砕かれるのに、時間は掛からなかった。連れてこられたのが吉原だった。
困惑するお美津に、口入れ屋の男が言った。
「親を恨むんじゃないよ。遊郭に行くなどと言えばお前が悲しむから、嘘を言うように頼まれたのさ。そりゃあ、菓子屋奉公などと比べたら、親が手にする金が違う。分かるだろう。親孝行したと思って、諦めるんだな」
その男は市松だった。
言葉が出なかった。遊郭に売られたということが、すぐには受け入れられなかったのだ。心の整理が出来ずに放心状態のまま、日々が過ぎていく。
それでも、女将のお登代をはじめ店の者は皆が親切だった。何かと気遣ってくれ、面倒も見てくれた。それが救いだった。やがて、気持ちも落ち着き、生活にも慣れて中の様子も解ってくると、自分が抱いていた遊郭というものの印象も、徐々に変わっていった。
此処では、誰もが様々な事情を抱えながらも、ひたむきに生きている。時に感情をぶつけ合い、慰め合い、そして助け合っている。良い事があれば自分の事のように喜び、悲しい事があれば一緒に泣いてくれる。この世界に馴染んでいくことに、抵抗は無かった。
だが、故郷の親の事を思うと、複雑な感情が湧いて来た。自分に正直に言ってくれなかったことが、悲しかった。親の口から此処に来る事を直接聞いたのなら、まだ宿命と思い諦めがついたと思えたが、裏切られたような後味の悪さが残っている。
自分と親とは、その程度の絆だったのか。恨む気持ちなどは起こらなかったが、幼き日々の親と過ごした思い出が蘇り、胸を締め付けてきた。それが心の傷となった。一生癒えることのない深い傷だ。年季が明けても、家に戻ることなどは考えられない。
そうは思いながらも、父と母の顔を思い出して郷愁の念が募り、涙で枕を濡らすことも一度や二度では無かった。
やがて、突き出しとして客を取るようになると、端正な容姿と持ち前の明るい性格から評判となり、店でも一、二を争う稼ぎ頭ともなる。此処で生きて行くという覚悟も出来つつあった。
一方で、一人の女としては、一夜限りの男ではなく、一生添い遂げる男と出会うことへの憧れも、勿論ある。年季が明けた女が所帯を持ったという話を聞き、あるいは、身請けされて皆に祝福されて出ていく女達を見る度に、そういう思いを強くした。
口にこそ出さないものの、密かな願いとして、夢見ることはあった。
そして、江戸の大火が吉原を襲う。
若菜ことお美津は、必死に逃げて気を失い、気がつけば、三年が経っていた。
何処かで猫が鳴いている。
住吉の心も大きく揺らいでいた。お美津の本来の姿を認識したことによる動揺と、それをどう受け入れるかという葛藤だった。
お美津は、自分とは全く縁の無い世界に生きている。それは、どうしようもない現実だ。そう頭では理解している。だが、それを受け入れられない感情が、住吉の心の中で燻っていた。お美津のあの眼差しを忘れる事は、やはり出来なかった。
我慢は三日も持たなかった。
「ありがとう。本当に来てくれるとは思わなかったわ」
「預かった金も、返さないといけないと思ったもので」
「良いのよ、それは。あたいの気持ちだから。今日の支払いに使って」
「そうですか・・」
住吉が愛宕屋を訪れている。この日、若菜は他の客の相手をしていたが、住吉が来たと解った途端に、他の遊女に代わってもらった。
何故か、女心がときめいていた。
「お客さんが居たようですが、大丈夫ですか」
「気にしないで。良くある事だから」
「良くある事とは」
「ふふ、女は、会いたい男の方を選ぶわけ」
本心であるはずが無い、と思いながらも、その言葉は住吉の心にジワリと沁みてきた。そう言ってもらっただけでも嬉しかった。若菜から注がれる酒を口にして、酔いよりも先に幸福感が満ちてきた。住む世界が違っていても、こういう関係が続けられれば、満足だった。
「今日は、ゆっくり出来るのでしょ」
「明日の仕事に間に合えば」
「じゃあ、朝帰りでも大丈夫ね」
「いや、それは、ちょっと・・」
仕事に間に合うかどうかは兎も角として、若菜と、つまりお美津と一夜を共にするという事への抵抗があった。そこまでの覚悟は、さすがにない。
若菜が酒を口にした。その空いた猪口に住吉が酒を注ぐ。若菜が笑みを浮かべて頷く。こうした空間が、お互いの心が結びついていると感じられて、あるいは最良なのかもしれない。それ以上を望んだら、これらが崩れていくような不安があった。
一方で、この状況を長く続ける事が無理であることも明白だった。このような場所に通い続けるほどの金は無い。帰り際に又金を渡される予感もあったが、相手の女に金をもらって会いに来るという屈辱に耐え続けるような図太い神経も、あらうはずもない。
しばらく、何かを考えるようにうつむいていた若菜が、顔を上げた。
「あたい、旦那を一目見た時に、前に何処かで会ったような気がしたのよ。何となく、懐かしいような感じ」
住吉は虚を突かれて戸惑い、そして迷った。正直に話すべきなのか。だが、話した途端に、このような心地よい雰囲気が一変してしまうような恐れが、口を閉ざさせた。
「いえ、私は・・」
住吉を見つめていた若菜が、気落ちしたように顔を伏せた。
「そうなの・・・」
若菜がフウっとため息をついた。
「実はね、あたい、三年くらい記憶が無いのよ。あの江戸の大火の時に気を失って、気付いたのが十日ほど前だったの。その間、何処で何をしていたのかが全く解らなくて。それで、あたいを知っている男が会いに来てくれるのでは、と思っているわけ」
「そうですか・・」
若菜が顔を上げて住吉を見つめた。
「旦那が、もしかしたら、あたいを知っているのでは、と思ったのだけど・・」
住吉はぎこちない笑みを浮かべて、ごまかした。悲しそうな表情で自分を見つめる若菜の視線を感じて、ジワリと後悔の想いが湧いてきた。
ここまで全てが明らかになったのに、何を隠す必要があるのか。お美津は、ありのままの姿を自分に見せているではないか。それなのに、自分は何故本当の事が言えないのか。そう、住吉は自問した。
それでも、今言えるくらいなら、最初に言っていただろうとの思いがある。自分の、いつもの、どうしようもない逃げの姿勢だ。実直に向き合わずに、つい取り繕ってしまう弱さと愚かさを、この女にさらけ出すのが怖かった。
惨めな思いが襲ってきた。
いつかは、こういう関係も終わり、お美津を失い、失意の中で生きていくしかなくなる。それを、少しでも遅らせるために、嘘をつき、見栄を張ることしか出来ない自分が、情けなかった。
住吉の悶々とした日々が、ズルズルと二ヶ月続いた。




