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 間違いなくお美津だった。だが、何もかもが変わっていた。


 この日、仕事が終わると、住吉はなけなしの金を持って吉原に足を運んだ。到底足りるとは思えなかったが、仕方がない。誰かに借りる訳にもいかなかった。


 灯りに照らされて赤く輝く大門は、まるで異世界への入り口の扉に見えた。静かに威圧するように、住吉へ覚悟を問うて来た。門を潜ると、煌びやかな灯りに照らされた昼のような街並みと、騒音と笑い声の中で動きまわる人の波に、住吉は圧倒された。


 何人かに愛宕屋の場所を聞いて、ようやく店に辿り着き、若菜を指名した。二階の部屋に案内され、しばらくすると酒が運ばれた。


 やがて、襖が開いて、女が入ってきた。


 顔と体付きから、一目見てお美津だと分かった。喜びと期待から胸が昂り、住吉はじっとその顔を見つめた。


「どうしたの、あたいの顔に何か付いている」

「あ、いえ・・」


 女がゆっくりと座り、徳利を手に取って差し出した。


「そんなに怖い顔をしないで、肩の力を抜いて。さあ、一杯どうぞ」

 住吉が震える手で猪口を持つと、酒が注がれた。


 女が覗き込むように視線を向ける。

「今日は、どうしてあたいを指名したの」

「あの、お客の話を聞いて・・、あ、私は呉服問屋の仕立職人ですが、そこの客が、此処の女の人達の話をしていて、若菜さんのことも・・、それで・・」


「へえ、あたいの事を何て言っていた」

「気風が良くて、カラッとしていると・・」


「ハハハ・・」

 女が声をあげて笑った。手酌で酒を注ぎ、グイッと開けた。

「間違ってはいないかな。そういう気もする」


 住吉の心に、少しずつ、困惑と落胆が広がって行った。


「旦那は、そういう女が好みな訳だ」

「いえ、そういう訳ではなく・・」

「じゃあ、なぜ会いにきたの」


 住吉は手に持った猪口の酒を一気に飲み干し、立ち上がった。


「帰ります」

「あら、どうしたの。来たばっかりじゃないの」


 女が驚いた顔をして見上げた。

「何か、気に触ることを言ったかしら」


 住吉が首を振った。

「そうではありませんが・・」


 もう十分だ、という気がしていた。

 納得とは程遠い感覚ではあるが、受け入れざるを得ない冷酷な現実がそこにあった。それは、お美津の家が此処で、こうやって暮らしていた、という想像さえ出来なかった本来の姿だった。それが明確になったのだ。


 全てが終わったと思った。夢が覚めたような、現実に引き戻された失望が心を支配していたが、僅かだが、落ち着く先が見えたような後味の良さもあった。


 住吉は懐から金を取り出して、女に差し出した。

「これしか、金がなくて・・」


 女がそれを受け取ると、ゆっくりと立ち上がり、住吉に寄り添って、手に持った金を住吉の懐に入れた。


「わざわざあたいに会いに来てくれた旦那から、金など受け取れないわよ」


 女は住吉を見つめたまま、今度は自分の懐から金を取り出し、それを住吉の手に握らせた。女の暖かい手の感触が、住吉の感情を再び昂らせた。


「これは・・」


 困惑する住吉に、女が微笑んだ。

「これで、また会いに来て」


 その表情は、正にお美津のものだった。もっと一緒にいたいと嘆願したあの顔を、住吉は思い出していた。心に、再び淡い光が差し込んできた。

 慌ただしくも切ない再会だったが、心のほとんどを占めていた蟠りが消えた事だけは確かだった。


 何処かで猫が鳴いている。


 住吉が帰ると同時に、愛宕屋の女将のお登代が上がって来た。

 小柄でやや太めの体型だが、姿勢が良く動きもしなやかで、彫りの深い艶のある顔とともに貫禄を醸し出している。


 お登代は、部屋に入るなり、立ったまま若菜を見て口を開いた。

「どうだった」


 手酌で酒を飲んでいる若菜が首を振った。

「違ったみたい」


 お登代はフウと息を吐いて、ゆっくりと若菜の隣に座った。


「いきなりの指名だったからねぇ、てっきりあんたを知っている客だと思ったよ」

「中の女の評価話を聞いて、あたいに会いに来たらしい」

「そう。それにしちゃ、すぐ帰ったね」

「こういうところは初めてだったみたいで、少し戸惑っていたかなぁ」

「見たところ、真面目な堅気の男だったけど」

「呉服問屋の仕立て職人だって」


 二人はしばらく無言で酒を飲んでいた。遠くに、賑やかな話し声や笑う声が聞こえる。夜半というにはまだ早い。


 お登代が徳利を持って自分の猪口に酒を注ぎ、さらに若菜にも酒を注いだ。

「あんたが三年もの間行方知れずで、十日前にいきなり何食わぬ顔で帰って来た時は驚いたわよ。しかも、その間の事は何も覚えていないとはねぇ」


 若菜が頷きながら注がれた酒を口にした。

「あの大火の中を必死に逃げて気を失った事は確かなのだけど、気づいたら、吾妻橋の所で倒れていたのよ。頭がズキズキして気分も悪く、どうにか此処に辿り着いたと思ったら、焼け崩れたはずの中のお店が立派に建て替えられているじゃない。それに、自分の身なりが街の娘のように整っていたのが不思議でね。それ以上に驚いたのは、三年も経っていたこと」


「まるで浦島太郎だね」


 二人は顔を見合わせて笑った。若菜が、手に持った猪口の残りの酒をゆっくりと飲み干して、深いため息を吐いた。


「あたい、三年もの間、何処で何をしていたのかしら・・」

「そのうちに、それを知っている客が、きっと来るよ」


 ふと若菜が顔を上げた。

「でも、今日のあの客と話をしていたら、何か、こう、懐かしいような気がしたのよ」


 お登代が顔を向けた。

「懐かしいって・・」


「初めて見る顔じゃないような、何処かで、世話になったような・・」

 若菜は猪口をお膳に置いて、遠くを見るように目を細めた。


 あの客が、遊女の評価話を聞いて来た、というのはおそらく本当だろう。言葉に嘘は感じられなかった。見るからに純朴な堅気の職人が、女を持ち上げる方便などを言うとは思えなかった。


 それ故に、最初に自分を見つめた眼差しにも、嘘のつけない正直な男の想いが感じられて、それが何かを知りたかった。


 そして、この男と過ごしていた僅かな時間ではあったが、どこか懐かしい不思議な安らぎを感じたのだ。その余韻は今も心地よかった。この堅気の職人のことがもう少し知りたかった。


 そうした思いが、とっさに金を渡すという行為に結びついたのかも知れない。


 若菜とは源氏名で、本名は、当然ながらお美津である。

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