七
間違いなくお美津だった。だが、何もかもが変わっていた。
この日、仕事が終わると、住吉はなけなしの金を持って吉原に足を運んだ。到底足りるとは思えなかったが、仕方がない。誰かに借りる訳にもいかなかった。
灯りに照らされて赤く輝く大門は、まるで異世界への入り口の扉に見えた。静かに威圧するように、住吉へ覚悟を問うて来た。門を潜ると、煌びやかな灯りに照らされた昼のような街並みと、騒音と笑い声の中で動きまわる人の波に、住吉は圧倒された。
何人かに愛宕屋の場所を聞いて、ようやく店に辿り着き、若菜を指名した。二階の部屋に案内され、しばらくすると酒が運ばれた。
やがて、襖が開いて、女が入ってきた。
顔と体付きから、一目見てお美津だと分かった。喜びと期待から胸が昂り、住吉はじっとその顔を見つめた。
「どうしたの、あたいの顔に何か付いている」
「あ、いえ・・」
女がゆっくりと座り、徳利を手に取って差し出した。
「そんなに怖い顔をしないで、肩の力を抜いて。さあ、一杯どうぞ」
住吉が震える手で猪口を持つと、酒が注がれた。
女が覗き込むように視線を向ける。
「今日は、どうしてあたいを指名したの」
「あの、お客の話を聞いて・・、あ、私は呉服問屋の仕立職人ですが、そこの客が、此処の女の人達の話をしていて、若菜さんのことも・・、それで・・」
「へえ、あたいの事を何て言っていた」
「気風が良くて、カラッとしていると・・」
「ハハハ・・」
女が声をあげて笑った。手酌で酒を注ぎ、グイッと開けた。
「間違ってはいないかな。そういう気もする」
住吉の心に、少しずつ、困惑と落胆が広がって行った。
「旦那は、そういう女が好みな訳だ」
「いえ、そういう訳ではなく・・」
「じゃあ、なぜ会いにきたの」
住吉は手に持った猪口の酒を一気に飲み干し、立ち上がった。
「帰ります」
「あら、どうしたの。来たばっかりじゃないの」
女が驚いた顔をして見上げた。
「何か、気に触ることを言ったかしら」
住吉が首を振った。
「そうではありませんが・・」
もう十分だ、という気がしていた。
納得とは程遠い感覚ではあるが、受け入れざるを得ない冷酷な現実がそこにあった。それは、お美津の家が此処で、こうやって暮らしていた、という想像さえ出来なかった本来の姿だった。それが明確になったのだ。
全てが終わったと思った。夢が覚めたような、現実に引き戻された失望が心を支配していたが、僅かだが、落ち着く先が見えたような後味の良さもあった。
住吉は懐から金を取り出して、女に差し出した。
「これしか、金がなくて・・」
女がそれを受け取ると、ゆっくりと立ち上がり、住吉に寄り添って、手に持った金を住吉の懐に入れた。
「わざわざあたいに会いに来てくれた旦那から、金など受け取れないわよ」
女は住吉を見つめたまま、今度は自分の懐から金を取り出し、それを住吉の手に握らせた。女の暖かい手の感触が、住吉の感情を再び昂らせた。
「これは・・」
困惑する住吉に、女が微笑んだ。
「これで、また会いに来て」
その表情は、正にお美津のものだった。もっと一緒にいたいと嘆願したあの顔を、住吉は思い出していた。心に、再び淡い光が差し込んできた。
慌ただしくも切ない再会だったが、心のほとんどを占めていた蟠りが消えた事だけは確かだった。
何処かで猫が鳴いている。
住吉が帰ると同時に、愛宕屋の女将のお登代が上がって来た。
小柄でやや太めの体型だが、姿勢が良く動きもしなやかで、彫りの深い艶のある顔とともに貫禄を醸し出している。
お登代は、部屋に入るなり、立ったまま若菜を見て口を開いた。
「どうだった」
手酌で酒を飲んでいる若菜が首を振った。
「違ったみたい」
お登代はフウと息を吐いて、ゆっくりと若菜の隣に座った。
「いきなりの指名だったからねぇ、てっきりあんたを知っている客だと思ったよ」
「中の女の評価話を聞いて、あたいに会いに来たらしい」
「そう。それにしちゃ、すぐ帰ったね」
「こういうところは初めてだったみたいで、少し戸惑っていたかなぁ」
「見たところ、真面目な堅気の男だったけど」
「呉服問屋の仕立て職人だって」
二人はしばらく無言で酒を飲んでいた。遠くに、賑やかな話し声や笑う声が聞こえる。夜半というにはまだ早い。
お登代が徳利を持って自分の猪口に酒を注ぎ、さらに若菜にも酒を注いだ。
「あんたが三年もの間行方知れずで、十日前にいきなり何食わぬ顔で帰って来た時は驚いたわよ。しかも、その間の事は何も覚えていないとはねぇ」
若菜が頷きながら注がれた酒を口にした。
「あの大火の中を必死に逃げて気を失った事は確かなのだけど、気づいたら、吾妻橋の所で倒れていたのよ。頭がズキズキして気分も悪く、どうにか此処に辿り着いたと思ったら、焼け崩れたはずの中のお店が立派に建て替えられているじゃない。それに、自分の身なりが街の娘のように整っていたのが不思議でね。それ以上に驚いたのは、三年も経っていたこと」
「まるで浦島太郎だね」
二人は顔を見合わせて笑った。若菜が、手に持った猪口の残りの酒をゆっくりと飲み干して、深いため息を吐いた。
「あたい、三年もの間、何処で何をしていたのかしら・・」
「そのうちに、それを知っている客が、きっと来るよ」
ふと若菜が顔を上げた。
「でも、今日のあの客と話をしていたら、何か、こう、懐かしいような気がしたのよ」
お登代が顔を向けた。
「懐かしいって・・」
「初めて見る顔じゃないような、何処かで、世話になったような・・」
若菜は猪口をお膳に置いて、遠くを見るように目を細めた。
あの客が、遊女の評価話を聞いて来た、というのはおそらく本当だろう。言葉に嘘は感じられなかった。見るからに純朴な堅気の職人が、女を持ち上げる方便などを言うとは思えなかった。
それ故に、最初に自分を見つめた眼差しにも、嘘のつけない正直な男の想いが感じられて、それが何かを知りたかった。
そして、この男と過ごしていた僅かな時間ではあったが、どこか懐かしい不思議な安らぎを感じたのだ。その余韻は今も心地よかった。この堅気の職人のことがもう少し知りたかった。
そうした思いが、とっさに金を渡すという行為に結びついたのかも知れない。
若菜とは源氏名で、本名は、当然ながらお美津である。




