六
住吉は実家に居た。武州は日野村だ。
流石に故郷に戻った本当の理由は言えずに、「休みを貰ったので久しぶりに帰った。すぐに戻る」とだけ言っている。親兄弟は歓迎してくれた。
努めて平静を装い笑顔で対応していることで、誰も疑う様子は無い。
だが、住吉の頭と心は混乱していた。
お美津に興味を持ったのは、同情からだった。
仕入れを任されることになったことで、取引先の「雨見屋」に行くようになると、そこで、頭の弱い娘が居るという話を耳にする。
最初は、店に足を運んだ時に好奇心から眺める程度だった。やがて、客がからかうように絡む様子を何度か見るうちに、哀れに思うようになる。確かに、生気が無い白い顔に遠くを見るような虚な目をしている姿は、普通には見えなかった。
だが、住吉の知るそういう者たちと、お美津は何処か様子が違っていた。
整った端正な顔立ちに、華奢ではあるが丸みを感じさせる肉付きの体は、振る舞いが普通ならば、優雅で品のある娘そのものに思えた。その、何か釈然としない引っ掛かりが、住吉の関心を引き付けて行った。
そんな住吉の胸中を察したのか、ある時、主人の弥兵衛が事情を語ってくれた。
「実は、あの娘は、例の江戸の大火があった時に、大川の川岸で倒れていたのですよ」
火の中を必死に逃げて来たのだろう。顔も着物も煤に塗れ、意識もほとんど無かった。放ってはおけないと店に運んで看病して、どうにか息を吹き返したが、自分が何処の誰なのか、何をしていたのかなど、全く記憶が飛んでいた。
「おそらく、逃げている時に頭でも打ったのでしょう。かろうじて、お美津という名前だけは覚えていましたが」
弥兵衛から語られる事柄を聞きながら、住吉に腑に落ちる思いが湧いて来た。頭を打ったという事も考えられるが、迫り来る火や崩れ落ちる建物などを目の当たりにする壮絶な場面を経験すれば、心に傷を負うのは当然のことだろうとも思えた。
それでも、傷はいずれ癒えるはずだ。
納得すると同時に感じたのは、染み込むような安心感と淡いときめきだった。
それ以来、住吉は店に来た時には必ずお美津に話しかけるようになった。過酷な体験をして傷ついた者への労わりからだった。話すことによって、何か少しでも昔の記憶を思い出して欲しいとの思いもあった。
戸惑いの表情で黙って見つめるだけだったお美津が、やがて、頷いたり首を振ったりするようになり、更には、一言二言と言葉を発するようになる。笑顔も見せ始めた。少しずつではあるが元に戻っている、という感触は十分だった。
お美津のためにと思いながらも、それは立前になりつつあった。いつしか、雨見屋に来ることが、住吉の生きがいになっていたからだ。お美津と触れ合うひと時が、自分が生きているという感覚を明確に感じさせてくれた。
一方で、傷は必ず癒えるのなら、いつかはお美津も元に戻るのかも知れないと思うと、わずかな不安も芽生えていた。
もしかしたら、由緒ある裕福な家の娘かも知れない。あるいは武家の令嬢か。その優雅で品のある佇まいであれば、有り得ることでもあった。であれば、記憶が戻った途端に、自分の手の届かない所に行ってしまうことになる。
お美津をもとに戻そうとする自分の行為は、その切ない未来にも繋がっていた。
「弥兵衛さん、その後、お美津さんの素性に繋がる手がかりなどは無いですか」
「そうですねぇ、何処かで見たような顔だ、という客は何人かいたのですが、はっきりとした事は何も。まあ、此処に出入りする客の中には顔が広い者もいるし、人伝に話が伝わって、親御さんや知り合いが迎えに来るのでは、とも思っているのですが」
「そうなれば良いですね」
住吉の胸に冷たい風が吹き込んで来た。
「さあて、では、今日はこれで。代金は月末にお持ちしますので」
住吉が立ち上がった。
その時、思いがけない事が起こった。
お美津が住吉の袖を掴んだのだ。悲しい目をしている。
「住吉さん・・また来てくれますか・・」
住吉は言葉が出なかった。
「これ、お美津、大丈夫だよ。住吉さんはまた来るから、袖を離しなさい」
弥兵衛が取りなすようにお美津の腕をとって袖を離させた。
「これだけ親切にして頂いて、お美津も情が移りますよね」
「そうでしょうか・・」
ぎこちなくそう言って、住吉は弥兵衛に顔を背けて足早に店を出た。
顔が赤くなったのを弥兵衛に見られたかも知れないと思いながらも、その恥ずかしさより、嬉しさが勝っていた。それほどの歓喜の衝撃だった。その余韻の中で、自分が居なくなることを悲しむお美津の顔が生々しく思い出された。それは、女が、もっと一緒に居たいと自分に嘆願する顔だった。
月末が待ち遠しかった。
その日、住吉は主人の磯松から預かった金を持って雨見屋に急いだ。どこか上の空だった。重要な役目である代金の支払いよりも、手土産に買った今川焼を見て、違う菓子にすべきだったかが気になっていた。
そして、何より、早くお美津の顔が見たかった。
遠目に雨見屋が見えてきた。よし、と早めようとした足が止まった。呆然としたように店の前で立ちすくむ弥兵衛と何か話し込む店の者に、異様な雰囲気を感じたのだ。
慎重に、ゆっくりと店に近付いた。胸騒ぎが、良からぬことが起こったのではという思いになり、それがお美津に関わるものでは、という不安になっていた。
「どうか、されましたか」
住吉が声をかけると、弥兵衛がハッと気付いて顔を曇らせた。
「ああ、住吉さん、大変です。お美津が戻らないのです」
手に持った今川焼を落とした。
今朝方、取引先へ注文品の届け物をお美津に頼んだ。これまでも何度か頼んでいて、特に問題なくこなしていた。女の足でも、遅くとも一刻もあれば余裕で戻れるほどの距離だ。
だが、一刻が経ち、二刻も過ぎ、さらに昼を過ぎてもお美津は戻らなかった。
不安になった弥兵衛が店の者を届け先に走らせた。その店の話によると、お美津は品物を届けると、お茶を一服して帰ったという。変わった様子も無かったらしい。更に、他にも思い当たるところに問い合わせたが、手がかりは無かった。
「何か、事故や揉め事に巻き込まれていなければ良いのですが・・」
弥兵衛が心配そうに周囲を見回した。
住吉は落とした今川焼を拾った。手が小刻みに震えている。平穏で心地よい日常が前触れもなく急変したことによる動揺を、抑えることが出来なかった。
「あるいは、急に記憶がよみがえり、家に帰ったのでしょうか。そうであれば、良いのですが・・」
無論、そのことも当然考えられる。であれば、喜ぶべきなのだろうが、仮にそうだったとしても、素直に受け入れることを拒む感情との葛藤が住吉の胸を焦がした。
兎に角、お美津がどうなったのかが知りたかった。
何処かで猫が鳴いている。
「それから、愛宕屋の若菜だな、これは気風が良いんだ。からっとしてよう。ただ、その分色気は無い。何せ、客を選ぶってぇ話も聞くほどさ」
「なら、あんたは選ばれないだろう」
「あんな女、こちらからお断りだ。お高くとまってさ」
遊び人を自慢する客の男が、中(吉原)の女たちの評価話を語っている。大磯屋の奉公人達が相手をしており、住吉もぼんやりとそれを聞いていた。
お美津が失踪して、十日ほどが経っていた。
「見た目はいい女だけどね」
「へえ、どういう女だ」
「そうだなぁ、ああ、あの女に似ているよ。ほら、あんたらも知っているかな、雨見屋の少し足りない女。顔付きから背格好までそっくりさ」
ピクリと住吉の体が反応した。
「雨見屋の女なら、俺も一度だけ見た。見た目だけは良い女だったな」
「声掛けるまでが華だったろう」
「違いねえ」
笑い声が起こった。それを受けるように客の男が頷いた。
「そうそう、その若菜だけどね、何か訳があったようだな。大分姿を見なかったから、てっきり、何処かの金持ちに身請けされたのだろうと仲間内では話をしていたのよ。ところがどうだい、また姿を見るようになってね」
「離縁されたのか」
「さあねぇ、まだ詳しい話は聞こえてこない。最近のことだからな」
「いつ戻ったのだ」
「十日ほど前よ」
住吉の胸が高まった。
お美津とその若菜という女は容姿が似ている上に、お美津が居なくなったのと若菜が吉原に戻った時期が一致しているのだ。
住吉は吉原に行く決意をし、「愛宕屋の若菜」と何度もつぶやいた。




