四
筆頭与力の成瀬子多郎が老舗の呉服問屋「大磯屋」を訪ねている。しかし、すでに住吉はいなかった。事件当日の朝から姿を消していた。
「あの日の朝です。いきなり私の部屋にやって来て、暇が欲しいと言うのです。それで、もう、あっという間に出て行きました」
「理由は言わなかったのか」
「ええ、こちらもいきなりなもので、兎に角落ち着け、話を聞こう、どういう訳だ、と散々言ったのですが、何も言わずに出て行きまして・・」
主人の磯松は老舗の大店の主人らしく、落ち着いた物腰と語り口ではあるが、初老の皺の多い顔は明らかに困惑の表情を隠さなかった。無理もない。店から殺しの下手人を出したとなれば、看板に傷が付くことは避けられない。
「何か思い当たる節は」
「そうですねぇ・・」
磯松は額に手を当てながらしばらく考えていた。住吉の何か変わった様子を思い出すというよりも、どちらかと言えば、詳細を役人に話しても良いのかを思案する顔だった。
「まあ、確かに、ここのところ、気になるような事はありました」
磯松は腹をくくったとばかりに、表情を和らげながら姿勢を正し頷いた。
「はっきり申し上げれば、吉原に通うようになったことです。そこから、住吉の様子が急に変わりました。二月ほど前です」
「遊びの味を覚えたという訳か」
「そうかも知れません。まあ、それは普通の男なら誰にでもあります。女だけでなく、酒や博打も同様です。程々ならば何ら問題はありません。ですが、度を過ぎると話は別です」
磯松は小さく息を吐きながら軽く首を振った。
住吉が吉原に行った事を磯松が最初に知ったのは、仕事仲間達の談笑を立ち聞きした時だった。もうそんな年頃か、という想いしか浮かばなかった。
勤め出して五年が経過していた。純朴な田舎出の真面目な青年で、未だに容姿や仕草に幼さも残っている。それでも、店の使いで取引先にも足を運ぶようになり、休みを貰った日に出かけるようになれば、相応に、多くの事柄を知るようになり、多様な人間とも接する機会を持つだろう。江戸には、好奇心を掻き立てる魅惑のある場所は多い。その中でも、夜の遊びとなれば、吉原は別格だ。
「誰かに話を聞いて興味を持ち、行ってみたいと思ったのでしょう。体付きはもう立派な大人ですから、むしろ自然です。此処からも、そう遠くはありませんし」
それでも、店で見せる仕事ぶりに何ら変化は無かった。いつもの通り丁寧に仕立ての仕事をこなしていた。客の反応も上々で、住吉を指名する客も一人や二人ではなかった。元々手先が器用な上に、素直な性格もあいまって、地道に研鑽を積んできた成果が出ていた。
「仕事は真面目にこなしていましたので、その点は心配していなかったのですが、行く回数が増えて行き、もう、通っているような状態になってしまい・・」
「毎日でも逢いたいと思う女が出来たのか」
「そう思うのが、無理のない見方ですかねぇ」
「だとしても、よく金が続いたな」
「不思議なのはそこなのです。無駄遣いせずに給金を貯めていたのでしょうが、そこまでの金は渡してはいません」
「誰かから借りたとか」
「そういう話もありません」
成瀬は、思わず腕を組んで考え込んだ。
男が急に遊郭に通い出す、という事は決して珍しい話ではない。例えば、遊び人の若旦那や女好きの金持ちというのなら、それもわかる。
だが、住吉のような純粋で真面目な職人で、しかも、そう金を持っていると思えない男ならば話は別だ。例え、よほど相手の女に惚れたとしても、そうはならないだろう。
「何か、深い訳がありそうだな」
成瀬は大磯屋を出ると、その足で、住吉がよく使いに出ていたという取引先に向かった。最も足を運んだのではと磯松が言っていたのが、仕立てに使う針や糸などを買っていた小間物屋の「雨見屋」だ。
諏訪町の大川(隅田川)沿いにある、さほど大きくはないが評判の良い店である。
「ええ、住吉さんは良く見えています。大磯屋さんはお得意様ですから、注文から品物の引き取りや代金の支払いまで色々と用事がありまして、何かと顔を出していますが、住吉さんがどうかしたのですか」
主人の弥兵衛は事件の事は知らなかった。
成瀬が事情を話すと、丸顔で頭が薄い人の良さそうな男が肩を落とした。
「そうですか・・・」
まるで身内の不祥事を知ったような真剣な表情でうなだれる姿に、弥兵衛が住吉に対して、何か特別な感情を持っていることが感じられた。
「いや、まだ下手人と決まった訳ではない。話を聞こうと、行方を探しているところだ」
「・・・」
「そういう訳で、住吉についてあんたが知っている事を教えて欲しい」
「はあ・・」
「どうだい、その様子じゃ、住吉と大分親しくしていた様にも感じるが」
一呼吸置いて、弥兵衛がようやく顔を上げた。
「ええ、実は、住吉さんには、少し、期待していた事がありまして・・」
弥兵衛が語り出した。
弥兵衛夫婦には子がいなかった。すでに還暦にも手が届きそうな歳になり、その事が一番の悩みだった。三代続いた「雨見屋」を自分の代で終わらせたくはないとの思いから、婿をとって店を引き継がせようと、数年前から知人など方々に世話を頼んでいた。だが、話を持ってきてくれる者も無く、半ば諦めかけていた。
そんなとき、取引の関係で得意先の大磯屋の住吉が頻繁に顔を出すようになる。真面目な好青年で、こういう男が婿に来てくれたら、と思うようになった。
しかし、相手は大店の仕立て職人。しかも、若いながらも腕の良さで評判となるほどの技量を持っている有望株と聞いている。到底、叶わぬ夢と諦めざるを得なかった。
「ところが、もしかして、と思わせる状況になりまして・・」
「ほう」
「店に、お美津という奉公人が居ます。そのお美津に、どうも、住吉さんは気があるようでして」
「なるほど」
「それならば、私らがお美津を養女にして、住吉さんを婿に迎えることも出来るのでは、と期待するようになった訳です」
「確かに住吉の気持ち次第では有り得る話だな。で、そのお美津は、今居るのかい」
成瀬が店を見回すと、弥兵衛の顔が曇った。
「それが、居なくなってしまって・・」
「どういう事だ」
「はあ、その、元々が訳ありの娘でして・・」
三年前の江戸の大火があった時だった。弥兵衛は大川付近で倒れている女を見つけた。何処からか逃げてきたのだろう。着物も顔も煤に塗れて、火の中を必死に川まで辿り着いたと思われる状況だった。家に運んで看病して、どうにか息を吹き返す。一日、二日と経つと落ち着きも取り戻し、食事も取れるようになった。
だが、娘の記憶がほとんど消えていた。
名前だけは辛うじて「お美津」と言ったものの、何処から来たのか、何をしていたのか、親兄弟はどうなのかも、何を聞いても「わからない」と言うだけだった。言葉もおぼつかない状況で、ボソボソと呟くような話し方しか出来ない。おそらく逃げる際に頭でも打ったのだろうと弥兵衛は思ったが、これでは放り出す訳にもいかず、しばらく店に置いておくことになった。
見た目は清楚な娘であり、華奢な体付きに目鼻立ちも整っている事で、男を引き付ける女としての魅力は十分に感じられた。しとやかな気品さえも漂わせるほどだ。案の定、店でたたずむお美津に気付いて、近くに寄って話しかける男の客も少なくなかった。
だが、お美津が何も言わずにオドオドした態度を見せると、客らは、頭が弱いのかとか、少し足りない女だ、などと嘲笑し、そうした噂も広まっていった。
そんな中で、住吉だけは違っていた。
ある時、お美津を気にする住吉に弥兵衛が事情を話すと、同情して、親身になって労るようになる。店に来た時は必ず声をかけて、何か少しでも思い出すのでは、と色々と話すようになって行った。やがて、手土産まで持ってくるようになる。
「お美津も、住吉さんにだけは打ち解けて行きました。笑顔で出迎えるようになったほどです」
「誰であれ、自分を大切にしてくれる者には心を開いて行くものだろう」
「はい。親しそうに二人で話している様子は、仲が良い若い夫婦のようで、一緒になってもおかしくないのではと思えたのです。それで、つい期待して・・」
「それで、記憶の方はどうなのだ」
「何もわからないままです。ただ、話し方は少しずつ普通になって行きました」
そして、お美津の突然の失踪である。
過去の記憶は無いものの、店で暮らすことにはだいぶ慣れたと思えたことから、一年ほど前から店の使いをするようになった。取引先へ物を届けるとか集金といった簡単なもので、お美津も問題なくこなしていた。それだけに、思い当たる節は無く、心当たりを方々探したが見つからなかった。
「住吉さんも血相を変えて心配していました」
「姿を消したのはいつだ」
「二月ほど前です」




